50年以上のキャリアを誇り、多くの傑作を生みだした巨匠スティーブン・スピルバーグ監督が、自らの少年時代や家族について振り返った半自伝的作品。
主人公の少年サミー・フェイブルマンの幼年期を演じたのはマテオ・ゾリオン・フランシス=デフォード。成長したサミーをガブリエル・ラベルが演じている。
サミーの両親にミシェル・ウィリアムズとポール・ダノ。フェイブルマンズ家と家族同様の付き合いをしているベニーおじさんをセス・ローゲンが演じ、元サーカス団員の叔父・ボリスにジャド・ハーシュが扮している。
第95回アカデミー賞では、作品、監督、脚本、美術、作曲、主演女優(ミシェル・ウィリアムズ)、助演男優(ジャド・ハーシュ)の計7部門にノミネートされた。
目次
映画『フェイブルマンズ』作品情報
2022年製作/151分/PG12/アメリカ/原題:The Fabelmans
監督:スティーブン・スピルバーグ 脚本:スティーブン・スピルバーグ、トニー・クシュナー 撮影:ヤヌス・カミンスキー 美術:リック・カーター 音楽:ジョン・ウィリアムス
出演:ミシェル・ウイリアムズ、ポール・ダノ、セス・ローゲン、ガビリエル・ラベル、ジャド・ハーシュ、ジュリア・バターズ、キーリー・カルステン、ジーニー・バーリン、ロビン・バートレット、クロエ・イースト、サム・レヒナー
第95回アカデミー賞、作品、監督、脚本、美術、作曲、主演女優(ミシェル・ウィリアムズ)、助演男優(ジャド・ハーシュ)の計7部門にノミネート
映画『フェイブルマンズ』あらすじ
1952年ニュージャージー州。幼い少年、サミー・フェイブルマンは両親に連れられて初めて映画館にやって来た。
上映されていたのはセシル・B・デミル監督の『地上最大のショウ』だ。
サミーはたちまち映画に魅了され、とりわけ、列車の激突・脱線シーンに心を奪われてしまう。
クリスマスのプレゼントに模型列車を買ってもらったサミーは、両親が寝静まっている夜中に起き出して、列車を走らせ、線路の上に車のおもちゃを置いて脱線させた。
大きな音に驚いた両親が飛んできて、おもちゃを大事にしなくてはとたしなめられるが、サミーは脱線に魅了されてしまっていて何度もやりたがる。
母のミッツイがサミーにこっそり父親のバートのムービーカメラを手渡して脱線するところを撮影すればどうかと提案した。一度撮れば映ったものを見ればよいからおもちゃも壊れないで済むと考えたのだ。
現像されてきたフィルムを映写機にかけて観たサミーは感激して、以降、彼は妹や、友人たちと共に、映画を撮る日々を送ることになる。
サミーが高校生になったとき、父親の仕事の関係で一家はアリゾナ州に引っ越す。
ある日彼はボーイスカウトの仲間と共にジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを撃った男』を映画館で鑑賞した。
すっかり感動して、仲間と共に西部劇を撮り、上映会では喝采を浴びた。
皆が彼の次の映画を楽しみにしてくれるようになっていた。
家族でキャンプに行った日も、サミーがカメラ係を務めた。サミーの家族と一緒にやってきたのは、父の仕事仲間で親友のベニーだ。彼は家族も同様の存在だった。
楽しいホリデイを過ごしたフェイブルマン家だったが、しばらくしてミッツイの年老いた母が病気で亡くなってしまう。
気持ちがふさぎがちのミッツイを慰めるため、バートはサミーに前から欲しがっていた編集機を買ってやるからキャンプの映像を編集してほしいと頼む。
明日から新しい撮影が始まり、40人も苦労して集めたから延期は難しいと応えると、母親よりも趣味が大事かと言われてしまう。
趣味じゃないと応えても、父はそうは思ってくれない。将来はもっと人の役にたつ仕事についほしいと父は思っているのだ。
そんな中、亡くなった祖母の兄で元サーカス団員のボリスが慰問にやって来た。
ボリスは、ミッツイは天才ピアニストだったとサミーに語る。
今でも時々テレビに出たりしているとサミーが口をはさむと、そんな比じゃない、有名オーケストラでもやれる逸材だったとボリスは語る。
でもミッツィの母親はミッツィが結婚して子供を持つ方が幸せになると考え、ミッツイも結局夢をあきらめたのだという。
お前にはその血が流れている、お前も家族と映画の板挟みに苦しむだろう。芸術は麻薬だ、俺たちはジャンキーなんだよとボリスは言うのだった。
キャンプのフィルムの編集にとりかかったサミーはあることに気が付き、愕然とする。
母とベニーが仲が良いのは知っていたが、映像にはふたりは自分が思っていた以上に親密であることが映し出されていたのだ。
母に対しての怒りが行動に現れてしまうサミー。理由がわからない母はついサミーの背中をきつくたたいてしまう。
謝る母にサミーはキャンプの映像を見せた。それは、みんなに見せた完成形のものとは別の、母の秘密だけを集めたフィルムだった。
それを観た母は崩れるように部屋から出てきて、泣きながらサミーを抱きしめた。サミーはお父さんには言わないと母に約束する。
そんな折、バートの仕事がIBMに認められ、一家はカリフォルニアに引っ越すことになった。
ずっと一緒だったベニーとも別れることになってしまった。
サミーはあれほど大切にしていたカメラを手放そうとしていた。
カメラ屋でサミーは偶然ベニーと出会う。彼はサミーが欲しがっていたカメラを餞別としてプレゼントしてくれたが、サミーはもう映画はやめると拒否する。
お前が映画をやめたらお母さんが悲しむぞとベニーは言って譲らないのでサミーは金を払って受け取ることにする。しかし、ベニーは巧みに紙幣をサミーに返して映画を撮り続けろとメッセージを残して去っていった。
カリフォルニアの新居はまだ建設中で、一家はかび臭い仮の住まいでしばらく過ごさなくてはならなかった。
新しい学校でサミーは反ユダヤの生徒たちに目をつけられ、いじめられる日が続く。
さらに悪いことに、母と父の離婚話が持ち上がっていた・・・。
映画『フェイブルマンズ』感想と評価
「“映画”と“家族”の板挟み」を超えて
冒頭、8歳のサミーは、父・バート(ポール・ダノ)、母・ミッツイ(ミシェル・ウイリアムズ)と一緒に映画館にやってくる。
サミーが怖気づいているのを見た両親は、彼を映画館に導こうとそれぞれ説得を始める。
科学者の父は映画の技術的な点から面白さをアピールし、母は映画の美しさと物語の興奮について語る。
その説得が実り、初めて映画館で映画(セシル・B・デミル監督の『地上最大のショウ』)を観たサミーはすっかり映画の虜になるわけだが、この時の父と母の言葉もまた深く心に刻まれたのだろう。
それらはまさに映画の本質を言いえたものであり、スピルバーグ映画の魅力そのものを指しているといえるからだ。
こうして映画に囚われた少年は家族や友だちを巻き込んで、映画を撮り始める。
仲間たちと一緒に観たジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを撃った男』に感化されて撮った西部劇や、演者の力によって映画がエモーショナルに立ちあがることにサミーが気づくことになる戦争映画など、実際にスピルバーグが少年時代に撮っていた8ミリ映画が再現されている。
才能あふれる少年の映画を観てワクワクしているサミーの身内の観客たちの姿は『フェイブルマンズ』を観ている私たちの姿と見事に重なっている。
しかし、好きなことを存分にやれた子供時代から青年期へと移行するにつれ、彼の環境も変わって行く。
父・バートは映画はあくまで趣味で、きちんと大学を出てもっと人の役に立つ仕事についてほしいと願っている。
サミーが「趣味ではない」と言っても、父にはそれが理解できないのだ。そんな父親を静かな抑えた演技で表現するポール・ダノが素晴らしい。
一方、母・ミッツイはどうか。彼女には天性のピアノの才があった。だがピアニストになりたいと夢見ながら、1940~50年代当時の女性に期待された生き方に従わざるを得ず、挫折した過去を持つ。
今でもピアノを弾き、指を守るために食器類はすべて使い捨てのプラスチックや紙製のものと徹底している母はたまにテレビに出演することもあるのだが、どこか混乱しているようにも見える。
明るく優しい母親で、家族を深く愛しているのだが、劇中登場するジャド・ハーシュ扮する元サーカス団員の叔父さんによれば、母の才能は格別なものだったというから、満足と後悔の間でずっと揺れ続けて来たのかもしれない。
ミシェル・ウイリアムズはこの複雑な感情を持つ女性を、パワフルに、快活にエモーショナルに、そしてセンシティブに演じていて、こちらもまた実に素晴らしい。
サミーとミッツイは母と息子というよりはむしろ似た者同士の双子のようにも見え、価値観を共有している。
サミーには叔父さんの血も流れている。彼は言う。「映画を撮り続けろ。だが痛みを伴うぞ」と。
スティーブン・スピルバーグが、自身の幼年期、少年期をもとにしたこの自伝的作品で描いたのは、「個人と家族」、「芸術的才能と人間の幸福」の関係性という大きな命題だ。
元サーカス団員の叔父さんは「“映画”と“家族”の板挟み」と表現していた。
これらは決して特別な才能に恵まれた人だけの問題ではない。
個人の資質と社会(家族)との折り合い、夢と現実の間での葛藤は、生きていく上で誰もが多かれ少なかれ味わう事柄である。
サミー(スピルバーグ)にとって、映画をあきらめる人生などありえなかった。そのために””黒い羊”になる覚悟も必要だ。だが彼にとっては母の存在が大きかったのだろう。映画の終盤、母が彼にかける言葉が素晴らしいのだが、それに関しては後で述べたいと思う。
映画の本質を見つめる
しかし、サミーが映画を続けることを躊躇する出来事が起こる。
家族で出かけたキャンプを撮影したものを編集していた彼は、母と父の親友ベニーとの親密な関係に気づいてしまうのだ。
映像というものは予期していなかったものを偶然に映しとってしまうものだということがここでは描かれている。
彼はそれを編集でごまかし、家族に完成品として披露する。が、一方で母と父の親友の関係を示唆する部分だけをつなげたものも作っている。
編集によって事実がいくらでも書き換えられることが示されていると言えるだろう。
その後の展開からも、映画は美しい風景を捉えたり、娯楽を提供するだけのものではなくて、人を貶め、復讐する道具にもなるという事実が描かれている。
映画が持つそうした一種の危険性について、スピルバーグは早い時期から自覚していたのだ。
一度はやめると決心した映画だったが、彼に映画をやめることなどやはり出来るはずがない。またまた叔父さんの言葉を借りれば「芸術は麻薬だ。俺たちはジャンキーなんだよ」ということになる。
両親の離婚問題が持ち上がった際、妹たちは怒り、母を責めて事態は修羅場と化す。
ところがそこでサミーは思わず、その光景に向かってカメラを構える自分を想像するのだ。
映画に取り憑かれた者の“業”を表す、ちょっと可笑しくて、ちょっと怖いエピソードと言えるだろう。
映画愛に溢れたサクセスストーリーを想像していたら、面喰らうくらい、映画のシビアな側面が多々描かれているわけだが、スピルバーグはユーモアをうまく散りばめて、快活な物語に仕上げている。
とりわけ、サミーのガールフレンドになるキリスト教の熱心な信者であるモニカ(クロエ・イースト)の明るさは心を和ませるものがある。
そしてなんといってもラストの展開だ。
あの巨匠が登場するだけでもワクワクしてしまうのに、その監督を演じた監督があの人だなんて、さらにワクワクしてしまう。
そして本当のラストショット、「水平線」を意識させるそのショットには思わずにやりとさせられてしまう。
サミーが歩いていくその後ろ姿を見ながら、改めて、母・ミッツイが息子に語りかけた言葉を思い出していた。
「人生に死にもの狂いでぶつかって。心のままに生きてね。誰にも負い目はないのよ」
これほど愛情に満ちた力強い応援の言葉はないのではないか。
なぜだか人間は自分の好きなことを優先させている時、負い目を感じる傾向がある。でも負い目に感じる必要はないのよ、と母は言うのだ。
そして、これはまた、今、現在、人生の岐路に立ち、自分のやりたいことと家族や周囲が望むことの狭間で悩んでいる若き人々への大いなるエールでもあるのだろう。