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映画『炎上』あらすじと解説/三島由紀夫の『金閣寺』を市川崑が市川雷蔵主演で映画化。国宝に火をつけた青年の心理を追う

三島由紀夫が1956年に発表した小説『金閣寺』は、金閣寺の美に取り憑かれた学僧がそれを放火するという1950年に実際に起きた事件に着想を得たもので、読売文学賞を受賞しベストセラーとなった。

 

人間の心理をこと細かに描き映像化不可能と呼ばれた作品を市川崑監督が果敢に映画化。金閣寺側が映画化に難色を示し、なかなかOKが出なかったため、映画では寺の名を驟閣寺に変え、題名も『炎上』に変更することになったという。

 

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放火犯となる吃音の僧侶見習いの学生、溝口吾一役に時代劇の二枚目スター市川雷蔵が抜擢され、本作が市川雷蔵の初の現代劇主演となった。

 

長谷部慶治と和田夏十が脚色を担当し、青年が何故国宝に放火しなければならなかったのかという主人公の心理にポイントを置いた物語を書いた。撮影を市川崑監督と組むのは初となる宮川一夫が務め、数々の荘厳なショットが生まれた。ほかにも、西田繁雄による巧みな編集など、製作スタッフの充実した仕事ぶりが伺える作品に仕上がっている。

 

キャストは、市川のほか、市川の母親役に北林谷栄、驟閣寺の住職に中村鴈治郎、脚の不自由な学友・戸刈に仲代達矢、驟閣寺の副司に信欣三、美しい花の師匠に新珠三千代、令嬢に浦路洋子、遊女に中村玉緒といった多彩な顔触れが揃い、見事な演技を見せている。

 

1958年度のキネマ旬報作品賞では『楢山節考』(木下恵介)、『隠し砦の三悪人』(黒澤明)、『彼岸花』(小津安二郎)に次いで第四位にランクインした。

 

目次

 

映画『炎上』作品情報

(C) 1958 (大映)KADOKAWA

1958年製作/99分/日本映画(配給:大映)

監督:市川崑 原作:三島由紀夫『金閣寺』脚色:和田夏十、長谷部慶次 企画:藤井浩明 製作:永田雅一 撮影:宮川一夫 美術:西岡善信 音楽:黛敏郎 録音:大角正夫 照明:岡本健一 編集:西田重雄

出演:市川雷蔵、仲代達也、中村鴈治郎、浦路洋子、中村玉緒、新珠三千代、舟木洋一、信欣三、香川良介、北林谷栄、伊達三郎、寺島雄作、上田寛、水原浩一、五代千太郎、志摩靖彦、浜村純、藤川準、大崎四郎、旗孝思、井上武夫、浜田雄史、石原須磨男、浅井福三男、小林加奈枝


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映画『炎上』あらすじ

(C) 1958 (大映)KADOKAWA

国宝の驟閣寺に放火した若い見習い僧・溝口吾一(市川雷蔵)は自殺未遂の状態で発見され逮捕される。警察病院で治療を受け退院した彼を京都の西陣署の刑事たちが取り調べるが、彼は何も答えようとしない。

 

吾一は、舞鶴の貧しい寺に生まれた。小さいときから吃音だったため、人前であまり話さない消極的な性格に育った。父は肺結核で長く苦しみ、父の死後、吾一は父が書き遺した手紙を持って、驟閣寺の老師(中村雁治郎)を訪ねた。手紙を読んだ老師はすぐに吾一を小僧として雇い、中学に通う手配もしてくれた。

 

父は生前、この世でもっとも美しいものは驟閣寺であり、生きる希望だと吾一に口癖のように語っていた。吾一もまた、驟閣寺を理想化していた。

 

戦時中、母が田舎から出て来て、驟閣寺に住みこみで働くようになった。舞鶴の寺が人手に渡り、自分も生きて行かなくてはならないから老師にお願いしたのだと母は言う。

 

吾一は母親を憎んでいた。彼が小さい頃、母が不貞を働いている現場を見てしまったからだ。父を崇拝する吾一にとって母は裏切り者だった。そんな母が美しい驟閣寺にいることが吾一には耐えられなかった。吾一の態度に疲れ果てた母はやがて寺を出て行くことになる。

 

戦争が終わり、観光客たちで驟閣寺は賑わうようになった。驟閣寺を観光名所にし、拝観料を取っている老師たちに、吾一は嫌悪を覚えた。

 

老師は吾一を我が子のように大切にし、大学まで行かせてくれたが、老師と吾一の関係は互いの失望感を理由に、次第にぎくしゃくするものになっていった。

吾一は、大学で内翻足の男、戸刈(仲代達也)と知り合う。彼は自身の障碍を誇示することで女を思うように近づけようとする男だった。

 

ある日、京都の繁華街を歩いていた吾一は、老師が芸者と街を歩いている姿を目撃し、思わずそのあとを追う。吾一は老師に不信感を持ち、老師もまた、彼をこの寺の跡継ぎにはしない、と言い放つ。ふたりの信頼関係は完全に崩れてしまっていた。

 

吾一は絶対の美だと信じる驟閣寺を、ほかのものに汚されないうちになんとかしなくてはならないと考え始める・・・。

 

映画『炎上』感想と評価

(C) 1958 (大映)KADOKAWA

市川崑監督は、純粋さと闇を併せ持つ青年・吾一の複雑な内面を、市川雷蔵の「美しい童顔」とも称される容貌を通じて描き出している。雷蔵の顔立ちは、素朴な善人に見える一方で、何を考えているか分からない不気味さも宿しているからだ。そんな吾一の内に秘められた心情を視覚的に深化させるため、西田繁雄が抜群の編集技を施している。

 

例えば、吾一が故郷・舞鶴に帰り、今では別の人の手に渡ってしまった寺院の山門を眺める場面では、現住職が忙しそうに出て来た直後、突如として葬列が画面に現れる。そこには父を亡くした吾一自身が参列している。この葬列は寒々とした舞鶴の海岸沿いを進むが、引きのショットで捉えられ、現実と幻想が交錯する鮮烈な印象を与える。過去と現在の境界が曖昧になり、吾一の心象風景が浮かび上がるのだ。

 

老師(中村鴈治郎)が遊女と京都の繁華街を歩く姿を目撃した吾一が思わず後を追う場面では、吾一が走る犬を追う形で描かれ、両者のショットが交互に切り替わる。まるで犬が吾一の衝動そのものであるかのように、感情の奔流が視覚化される。追跡の果てに吾一は老師と遊女がタクシーに乗ろうとする場面に遭遇し、「あとをつけて来たのか!」と叱責される。

 

老師は父を亡くした吾一を僧侶見習いとして受け入れ、学校や大学にも通わせ、ゆくゆくは跡継ぎにしても良いと考えていたのだが、二人の間にあった疑似親子関係は互いに失望し合うことで、ギスギスとしたものに変わって行く。

吾一に対する老師の不信は当初、誤解から始まったのだが、吾一は信頼を取り戻す努力をせず、むしろ自ら信頼を壊す行動に走ってしまう。一方、老師は仏に仕える身でありながら遊女に心を奪われている。その片鱗は、初登場シーンでローションを顔に塗る姿にすでに表れていた。戦後、驟閣寺を観光名所にし、拝観料で収益を上げる老師の姿勢は、吾一にとって寺の神聖さを汚す行為であり、放火という極端な行動の動機のひとつとなって行く。

 

「父性」は本作の中心的なテーマである。吾一は亡父を理想化し、父が驟閣寺の美に生きる糧を見出していたと聞かされ、その価値観を絶対視する。父と子の思い出として、かつて共に驟閣寺を訪れた経験が彼の心に深く刻まれているのだ。対照的に、母(北林谷栄)に対しては軽蔑の念を抱いている。母の不貞を知ったことがその主因だが、父を悲しませた存在として母を憎むのだ。この女性蔑視の傾向は、寺の拝観に訪れた女性が寺に上がろうとするのを阻止しようとした挙句、突き飛ばしてしまう場面にも表れている。この女性がGIと連れ立っていたことも、吾一の嫌悪を増幅させたのだろう。寺を汚したくないという思いは、父への同情や理想化と結びついている。

この背景には、敗戦による帝国主義日本の終焉が父親という権威の失墜を招いたという時代的解釈が潜んでいるのだが、吾一は父を神聖視し、老師にも完璧さを求め続ける。市川崑はこうした心理を直接的な説明に頼らず、緻密に積み重ねられたショットで表現してみせる。冒頭の警察の取調べ室や寺の寝床は極端に狭く、その閉塞感が吾一の抑圧された精神を明確に映し出している。

 

戦争に関する描写はごくわずかしか登場せず、見習い僧が徴兵される場面と、大勢のGIが賑やかに寺の拝観にやってくる様子で語られるのみだ(後者はそれで終戦がわかるというわけだ。なんと大胆な省略の仕方だろう)。そして、吾一が「吃音」のせいで、徴兵されなかったことがさりげなく伝わって来る。当時、徴兵されないということがどのような意味を持っていたのかを私たちに想像させるのだ。

 

冒頭、逮捕された吾一が刑事に尋問される場面や、回想が始まり、父が綴った手紙を持って寺を訪れた日の途中まで、彼は一切口を開かない。後に「吃音」が原因で語りを避けていたと分かるが、この障碍は、傲慢な学生・戸刈(仲代達矢)の内翻足と対比される。戸刈は障碍を誇示することで女性を支配しようとするが、吾一は「吃音」を内に秘め、自己の不全感を深めていく。

 

宮川一夫の撮影による映像美の魅力は筆舌に尽くしがたい。宮川は伝統的な静的スタイルを用い、引きのカメラで寺院建築の明暗を捉えてみせる。暗い内部と明るい外部が対比されつつ溶け合い、そこから生活の営みが浮かび上がって来る。モノクロ映像は、陰影の美しさを一層際立たせ、特に驟閣寺が炎に包まれる瞬間、火の手は画面を支配する。カメラは炎の動きを丁寧に追い、寺の荘厳な輪郭が崩れゆく様を克明に記録して行く。

 

映画『炎上』は、個人の内面と時代背景が交錯する作品として、単なる悲劇を超えた普遍性を獲得している。吾一の純粋さと破滅は、誰もが抱える矛盾と葛藤の鏡でもあるのだ。