映画『フランス』(原題:FRANCE)は、『ジャネット』(2017)と『ジャンヌ』(2019)のジャンヌ・ダルク二部作などで知られるブリュノ・デュモンが、主演にレア・セドゥを迎え、現代のパリを舞台にして撮った作品だ。
選りすぐりの最新フランス映画を紹介する企画「第4回映画批評月間~フランス映画の現在をめぐって~」にて、フランスの人気雑誌『レザンロキュプティール』の編集長ジャン=マルク・ラランヌによるセレクション作品の一本として上映され、話題を呼んでいる。
「フランス」とは、レア・セドゥが演じるヒロイン、フランス・ドゥ・ムール(France de Meurs)のことだが、そこには当然のごとく国名と掛け合わせる意図があるだろう。
第74回カンヌ映画祭コンペ部門出品作品で、『カイデ・ドュ・シネマ』誌では、2021年度ベスト10の第5位に選ばれている。
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映画『フランス』作品情報
原題:France 2021年製作/134分/フランス・ベルギー合作映画 監督・脚本:ブリュノ・デュモン 撮影:デビッド・シャンビル 出演:レア・セドゥ、ブランシュ・ガルディン、ベンジャミン・ビオレイ、エマヌエーレ・アリオリ、ユリアーネ・ケーラー、ガエタン・アミエル、ジェワド・ゼマール、マーク・ベッティネッリ ●第74回カンヌ映画祭コンペ部門出品作品。
映画『フランス』のあらすじ
国民的人気を誇るニュースキャスター、ジャーナリストのフランス・ドゥ・ムール。
彼女が行く先では誰もがスマホをかざして写真を撮り、一緒に写真を撮らせて欲しいと声をかけてくる。
紛争地にも果敢に乗り込み、銃を構える男たちにインタビューする彼女の仕事ぶりには誰もが一目置いていた。
家に帰れば、夫と息子が彼女を迎える。夫は小説家だが、フランスより稼ぎが少ないことに引け目を感じているようだ。息子はわんぱく盛りで反抗的だ。家にいても彼女があまり休まることはない。
怖い物知らずの彼女だったが、ある朝、息子を学校に車で送っていった際、一瞬よそ見をしてスクーターと衝突してしまう。
スクターに乗っていた青年は怪我をして入院を余儀なくされ、仕事も辞める羽目になってしまった。フランスは心を痛め、お詫びのために病室を訪ねると、移民である青年の両親はちっとも声を荒げず、逆にフランスが来てくれたことに感謝を述べる。
フランスは見舞金を自腹で払い、夫と口論になる。青年は退院し、フランスが買ったスクーターにも乗れるまでに回復した。
この出来事をきっかけに彼女はこれまでの生き方を変えようと考え、ニュースキャスターを引退する。
慈善事業に顔を出すようになるが、支援者からはお前の来るところではないと毒づかれ、同じボランティアからも露骨な態度を取られ、涙ぐむフランス。
次第に心を病むようになり、療養地で休暇をとるが、そこでも人々は遠慮なく彼女にカメラを向け続ける。
そんな中、彼女は一人の男性と出会う。テレビを観ないという男性はフランスのことを知らず、フランスは彼に急速に惹かれていきついに恋仲になる。
しかし、ある日、タブロイド紙に療養中の彼女のことをすっぱ抜いた記事が掲載され、フランスは愕然とする。男は記者で、身分を隠して彼女に近づいたのだ。
悲しみと怒りの中、フランスはルーにテレビに復帰すると宣言し・・・。
映画『フランス』の感想・レビュー
映画は、レア・セドゥ扮するニュースキャスター、フランス・ドゥ・ムールがエマニュエル・マクロン大統領の会見で誰よりも先に指名を受けて質問するところから始まる。
フランスにとっては大統領がどう答えようがもう問題ではない。一番に質問したことが全てだ。会場の隅に立つアシスタントのルーと目で合図を交わしながら、彼女は鼻高々の様子だ。
国民的スターである彼女は、アフリカの紛争地でも果敢に取材し、ジャーナリストとしての評判も高いが、彼女の頭の中にはニュース映像が初めから出来上がっていて、その素材が欲しいだけで、本当に現場の緊張感を訴えたいわけではない。
実際、彼女がカメラマンに指示して撮ってきた映像が編集されて流れるが、断片的な演出がこんなふうにつながるのかと感心してしまう。これは映画制作にまつわるブリュノ・デュモン監督の自戒の念が込められたセルフパロディーのようにも見える。
一見、有能で裕福な人気ジャーナリストと、ニュースメディアの高慢な思い上がりを追求するメディア批判が主題のように思えるが、フランスが朝の渋滞時に交通事故を起こして、移民家族の息子に怪我を負わせたことで、がらりと様相が変わってくる。
被害者やその家族に対してフランスが行う謝罪には嘘がないように見えるし、彼女はこのことで本当に悩み、誠実な態度を取り続ける。
困っている人々の役に立ちたいと思う心も本物だし、心無い言葉を一般人からかけられて傷つく一面にも偽りはなく、キャスターとして見えていた外観とはまったく違った人格が現れている。
人間の持つ多面性を扱っているのは明らかだが、しかし物語はそう単純ではない。彼女はこれほどの裏切りはないという経験を味わった後、逆にそれをパワーにするかのようにキャスターに復帰するのだ。
復帰した彼女は紛争地を再び訪ね、スタッフすら危険に晒しながら、まさに決定的場面を撮るために奔走する。深刻な現状を真摯に伝えるというよりは、この場を自分自身で演出するのだという欲望が勝っており、実際、カメラの前と後ろで、彼女はまったく違った姿を見せている。
ここには成長も変化もない。あるのは傲慢と誠実さ、真実と嘘、虚栄と謙虚、善意と悪意という、相反する感情が怒涛のように交錯する感情の集大成のような姿だ。
一方、フランスを囲む人々は、むしろ実に単純なコマとして描かれている。アシスタントはただの高慢ちきだし、逆に交通事故の被害者家族は善良過ぎる。フランスを写真に撮ろうとする人々はひたすら邪悪に描かれている。そうすることで、フランスの多層的な面をより際立たせようとしているかのようだ。
フランスが視聴者から「右翼なのか、左翼なのか」と尋ねられる場面があるが、どちらかに振り分けるなんてそんな単純なものではないのだ。こうした点はまさにフランス(女性の名前)がフランス(国家)と重なる風刺的な部分といえるかもしれない。
フランスは番組中に「なぜ、リポートの中でいつも自分を映すのですか?」と問われる。彼女のリポートには、必ず、相手に質問をする彼女が登場するのだ。その時の彼女の目の前には、当然、取材相手はおらず、カメラしかない。
そのカメラが映画内カメラだとしたら、本作の撮影監督、デビッド・シャンビルによるカメラはしばしばフランスであるレア・セドゥの顔を画面いっぱいのアップで捉えている。苦渋に歪んだ顔、はらはらと涙を流す顔、言葉では表現し難い顔、そうした感情が炸裂したかのような様々な表情を私たちは何度も目撃する。
その鬼気迫る表情からはそれが演技であるということを忘れさせるものがある。それは皮肉でも風刺でもない、本物の感情のカタログのようだ。