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映画『按摩と女』あらすじと感想・評価/清水宏が描く日本の“ヴァカンス映画”

早稲田松竹で「清水宏特集」が開催されている(2023年1月6日まで)

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上映される4作品の中から今回は『按摩と女』(1936)を紹介しよう。

 

映画『按摩と女』は、温泉場で働く按摩が東京から来たいわくありげな女にほのかな恋心を抱くさまを描く清水宏のオリジナル・シナリオ作品。

清水は旅と温泉をことさら愛したというが、本作は軽妙さと哀愁を宿した「日本のヴァカンス映画」ともいうべき作品に仕上がっている。

2008年に『山のあなた 徳市の恋』(石井克人監督)の題名でリメイクされた。  

 

目次

映画『按摩と女』作品情報

1938年/66分/35mm/白黒/松竹大船 

監督・脚本:清水宏/撮影:齋藤正夫/美術:江坂実/音楽:伊藤宣二/出演:高峰三枝子徳大寺伸日守新一佐分利信、爆彈小僧、坂本武、二木連、春日英子、京谷智恵子、油井宗信、飯島善太郎、大杉恒雄、近衛敏明磯野秋雄、廣瀬徹、水原弘志、槇芙佐子、三浦光子、中井戸雅子、関かほる、平野鮎子

映画『按摩と女』あらすじ

©1938 松竹

温泉場を渡り歩いている按摩の徳市は、美しい温泉場の宿「鯨屋」に宿泊する女性に指名される。

東京から来たというその女は少し影があり、何かを恐れている気配がした。徳市は彼女にほのかな恋心を抱く。

 

女は同じく東京から来た子供連れの男と親しくなるが、挨拶も交わさぬ間もなく突然男は去ってしまう。

 

宿では盗難事件が起こっていた。別の宿でも盗難があったと知った徳市は女が関係しているとにらみ、警察に逮捕されないようにと彼女と逃亡を図るが・・・。

映画『按摩と女』感想と評価

(結末に触れています。ご注意ください)

山道を二人の按摩、徳市と福市が杖をついて歩いている。一人は着物姿でもう一人は洋装だ。「どうだ、良い景色じゃないか。目に見えるようだよ」なんて語らいながら前を向いて歩いてくる二人を長回しでとらえている。

二人のバストショットがはさまれると、なにやら遠くからさえずるような音が聞こえてくる。「子どもは何人いるかあててみよう」「8人半だな」と会話していると画面に山道を降りてきた子どもの群れが現れ、按摩たちとすれ違う。「半」というのは赤ちゃんのこと。彼らの聴覚や洞察力の鋭さがユーモラスに提示される。

 

乗り合い馬車が走ってきて、按摩たちはあわてて道路の隅による。馬車の後方には高峰三枝子が座っておりこちらを観ている。隣には爆弾小僧。奥に佐分利信の横顔がちらりと見える。東京からの客だと按摩は言う。  

 

温泉場の風景。白い作業着を羽織り、早速按摩のしごとに出る先ほどの男たち。旅館から旅館へ、カメラがパンし、「鯨屋」の看板を通って帳場に挨拶に出向く按摩(徳さん)をワンカットで撮っている。良く知った旅館の階段を危なげなく登って行き、一つの部屋の前で「こんばんは」と手をつくと、右へとカメラは移動していき、建物の外側から開いた窓の向こうにいる高峰が徳さんを迎え入れるところを撮る。

 

高峰は翌朝も徳を指名する。喜んで出向いた徳だが、高峰は外に出ていて、気づいた彼は立ち止まる。しかし高峰の気配は淡く、儚く、彼は彼女の居場所を掴みきれず途方にくれる。この場面では音が消え、研ぎ澄まされたような空気が感じられる。

 

子どもを媒介に高峰と佐分利は言葉を交わすようになる。すぐに東京に帰ろうとしていた佐分利は、滞在を1日、また1日、引き伸ばす。恋ともいえぬ何気ない心の触れ合いの芽生えがある。

 

観ていて、これは、ヨーロッパのヴァカンス映画とは多少ニュアンスは違うかもしれないが、日本式のヴァカンス映画といって良いのではないかと思った。海ではないが、美しい川のせせらぎが頻繁に出てくるせいもある。

 

田中絹代笠智衆らが出演している清水の1941年の作品『簪』もまた、日本のヴァカンス映画と呼びたい作品だった。田中絹代が複雑な事情を持ちながら、ちょっとした淡い気持ちと寂しさを「つかの間の休息」として味わう姿は、日本の映画監督によるものというよりはジャック・ロジェエリック・ロメールを彷彿させた。

2014年に大阪のシネ・ヌーヴォで「清水宏」の特集上映がなされた時、映画評論家の上野昻志の「ヌーヴェル・ヴァーグは、1950年代末のフランスではなく1930年代の日本の清水宏によって始まっていたのではないか」という言葉がチラシに掲載されていたのを思い出す。

 

ヴァカンス映画は得てして登場人物が時間を持て余していることが多いが、この映画では爆弾小僧扮する子どもの手持ち無沙汰ぶりが印象的である。とにかく退屈なのだ。温泉は子どもにはむかない場所というべきか。

そして高峰が何気なく漏らす、「旅でお知り合いになってすぐにお別れするんだわ」という台詞にすべてが現れている。何かが芽生えそうな手前で佐分利は突然去ってしまう。退屈した子どもが帰ろうとせがんだからだ。

子どもの「さよならー」という挨拶に、高峰が川にかかる狭い渡しを急いで渡っていく姿を引きの画面で撮っているが(彼女がそのような行動をとるのは予想していなかった)、乗り合い馬車は既に出発しており、カメラは高峰の視線となって、その馬車が木立のむこうを過ぎていく様子を追っていく。  

 

雨。「鯨屋」と書かれた番傘をさしている高峰のバストショット。継いでたおやかに流れる川の水面のカット。そして彼女は、佐分利が去った日に渡った橋を傘をさしながら渡っていく。ここも音はカットされていたのではないか(?)。

それは彼女の存在の希薄さと脆さと危うさを表している。そんな時の彼女は、研ぎ澄まされた感覚の持ち主である按摩ですら見つけることの出来ない存在となっているのだ。

 

按摩の徳は女が、巷の宿屋荒らしではないかと疑っており、警察の調査が行われると聞いて、彼女に逃げるよう促し、二人は裸足のまま、宿屋を抜けて走る。裸足のアップ。しかしそれは誤解であった。

彼女が何かに過敏だったり、恐れているように感じたという按摩の印象は正しかったが、それはしつこく追ってくる「旦那」から逃れてきたせいなのだ。彼女にとっての休暇はすなわち逃亡なのであった。

そんな彼女は按摩に別れを告げ、乗り合い馬車に乗り、次の場所へとあてもなく旅立っていく。今度は按摩の心の目となってカメラは去っていく乗合馬車を追う。

出てくる人物、一人一人が孤独を抱えていて、一瞬心を触れ合わせるが、また離れ離れになっていく。やはりこれは日本のヴァカンス映画と呼ぶのがふさわしいだろう。

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