ずば抜けた嗅覚を持つ少女がある香りを嗅いだ時、彼女は母と叔母の記憶の中にタイムスリップする!
ジャック・オルディオール監督の『パリ13区』でセリーヌ・シアマと共に共同脚本を務めた新鋭レア・ミシウス監督の長編映画第二作である本作は、D・リンチ、S・キューブリック、ジョーダン・ピール等の影響のもと、SF、ホラー、恋愛、青春というあらゆるジャンルを取り込んだハイブリッドでまったく新しいクィア映画だ。
主役のジョアンヌを演じたのは『アデル、ブルーは熱い色』のアデル・エグザルコプロス。彼女の娘で鋭い嗅覚を持つヴィッキーを演じたサリー・ドラメはレア・ミシウス監督に見出された新鋭。ヴィッキーの叔母、ジュリアには歌手として活躍しているスワラ・エマティが抜擢された。
目次
映画『ファイブ・デビルズ』の作品情報
2021年製作/96分/G/フランス映画 原題:Les cinq diables/The Five Devils 監督:レア・ミシウス 脚本:レア・ミシウス、ポール・ギローム 美術:エステ・ミシウス 撮影:ポール・ギローム 音楽: フロレンシア・ディ・コンシリオ 編集:マリエ・ロタロット 衣装デザイン:ラシュール・ラウ メイク:アリス・ロバート キャスティング:ジュティス・シャリエ
出演:アデル・エグザルコプロス、サリー・ドラメ、スワラ・エマティ、ムスタファ・ムベング、ダフネ・パタキア、パトリック・ブシテー
映画『ファイブ・デビルズ』あらすじ
アルプス山脈を臨むフランスの小さな村「ファイブ・デビルズ」。
この村で8歳のヴィッキーは水泳インストラクターの母ジョアンヌと消防士の父ジミーと3人で暮らしている。
学校に行くといつも数人の子どもたちから執拗ないじめを受けるヴィッキーにとって大好きな母の側にいる時間は何より大切なひとときだった。
ヴィッキーは、人並み外れた嗅覚を持っていた。カビや土の匂い、動物の匂い、母の本の珈琲のしみの匂いすら嗅ぎ分けることが出来た。彼女は匂いを調合して再現し、それを瓶に詰めてコレクションするのを密かな楽しみにしていた。
そんなある日、父の妹のジュリアが家にやってきて、しばらく滞在することになった。再会するのは10年ぶりだという。母は、なぜかひどく当惑している様子だった。
ジュリアの帰還に村全体もざわつきを見せていた。ジョアンヌの父は何度も電話をかけてきて、母を困らせる。彼はジュリアのことを「放火魔のレズビアン」とののしっていた。
ジュリアに敵意を感じたヴィッキーは、ジュリアの鞄の中身を密かに探索し、その中から黒いボトルを取り出した。
ヴィッキーがそのボトルのふたを開けた途端、彼女は意識を失って倒れてしまう。気がつけば、そこは村の集会所だった。体操クラブのメンバーが練習に勤しむ姿が見えた。
その中に、17才の母の姿があり、母の同僚のナディーヌもいた。そこに17歳のジュリアが新しくクラブに加わる光景が展開していた。ヴィッキーは、母とジュリアの記憶の中にタイムリープしたのだ。
その後もヴィッキーはあのボトルを開けて匂いをかいでは、母とジュリアの記憶にタイムリープを繰り返し、母の秘密を知ってしまう。母はジュリアと恋に落ち、この村を出ていく約束を交わしていた。
不思議なことにヴィッキーの姿はジュリアにしか見えないらしく、ヴィッキーを見たジュリアは毎回、「また女の子がいる」と大層怖がり、中には彼女が精神的にまいっているのではないかと考える人もいた。
そしてついに10年前のクリスマスの日にヴィッキーはタイムリープする。集会所では華々しく体操クラブの発表会が行われていた。今まさに恐ろしい事件が起ころうとしていた・・・。
映画『ファイブ・デビルズ』感想と考察
【ネタバレになっている部分もございます。十分気をつけてお読みください】
タイムリープする少女を描く寓話
いきなり断末魔の叫び声が聞こえてくる不穏なオープニング。ついで、燃え盛る炎の手前で背中を見せているレオタード姿の少女たちのショットへと続く。そのうちの一人が振り向く。アデル・エグザルコプロスだ。彼女は17才と27才のジョアンヌを演じている。
黒人の少女(ジョアンヌの一人娘ヴィッキー)が目を覚ますショットを経て、村の空撮へ。一台の車がブリッジを走っている。カメラは車を追っているように見えるが、時々よそ見をして、広大な湖とその周辺の光景をとらえている。と、突然、画面の奥、中央にフレンチアルプスの円錐形の山が表れる。御伽噺のようなその鮮やかな姿に目を奪われながら、これからの映画の展開に自ずと期待が高まってくる。
ジョアンヌが高齢者向きの水中エアロビクスを指導している横で、嬉しそうに母を真似ているヴィッキー。彼女は母が大好きなのだ。
継いで、ふたりは湖へと移動する。母はこの冷たい水の中で泳ぐのを日課にしている。20分が限界で、それ以上になると低体温症になり、死の危険があるという。
ヴィッキーは時間を図るストップウォッチを持っていて、20分が過ぎると、笛を吹き、母に報せるという重要な任務を負っている。
母の行動は、限界に自分を追い立て、自身を痛めつけているかのようだ。母は娘に命を預けているともいえる。
幸せそうな少女に見えたヴィッキーだったが、同年代の子どもたちからは学校のコミュニティーの唯一の黒人であることから、イジメを受けていた。だからこそ、彼女にとって母の愛がこの世のすべてなのである。
しかし、母はいつもほとんど表情を変えず、何か、胸底に大きな悲しみを宿しているように見える。ヴィッキーが何度も母に愛していることを告げるのは、笑わない母への不安がそうさせるのだろう。
孤独な少女が儀式めいたものにのめり込むような物語は珍しいものではない。ヴィッキーもまた密かな遊びに興じている。彼女は並み外れた嗅覚の持ち主で、目隠しをしていても母の居場所がわかるし、ちょっとした本のシミの匂いですら嗅ぎ分けることができる。
彼女は、植物や破棄されたものを集めて、ラベルを貼った硝子壜で香りを調合し、匂いをコレクションしている。母の匂いのコレクションは複数あって数字が記されている。
そんな中、父ジミーの妹でヴィッキーの叔母にあたるジュリアが十年ぶりに帰郷する。彼女が招かれざる客であることは明らかだ。母の戸惑う様子、村全体のざわめきをヴィッキーは直ぐ様察知し、本能的にジュリアのことを警戒する。
ヴィッキーはジュリアの鞄を探り、一本の瓶を取り出す。蓋を開けると、急に意識を失いそのまま倒れてしまう。気がつけば、彼女は、母とジュリアが17才の時の記憶の中にタイムリープしていた。
この展開は、奇しくもジャック・オルディオール監督の『パリ13区』で共に脚本を務めたセリーヌ・シアマの『秘密の森の、その向こう』と類似している。『秘密の森の、その向こう』は、8歳の少女が、森の中で自分と同い年の母と出会い交流する物語だった。
火や水が重要なファクターになっている点も、シアマ作品との共通点を感じさせる。
しかし、可愛らしい、児童小説のような趣があった『秘密の森の、その向こう』とは違い、本作はずっと不穏で悲劇的である。
17歳の母にはヴィッキーの姿は見えず、ジュリアにだけ見えるらしい。ジュリアは少女が見えるとおののき、恐ろしさに顔を歪める。時々表れる得体の知れない少女への恐怖が惨事へとつながるのだ。
母とジュリアは恋に落ちていて、共に村を出ていこうとしている。ヴィッキーはこれまで見たことがないような表情をする母親を目撃する。楽しげに笑い、愛をささやく母を。
ここで重要なのは、ヴィッキーが「このままでは自分が生れてこないかもしれない」という恐怖に取り憑かれることだ。
ロバート・ゼメキスの『バック・トゥー・ザ・フューチャー』では、両親の若い頃にタイムスリップした主人公が、若き両親が結ばれないかもしれないという事態を目撃して、自身の姿が消えてしまわないうちになんとか二人を引っ付けようと奔走する。
だが、ここでは、若い母と叔母の恋が成就すれば自分は生まれないかもしれないと少女は考えるのだ。その彼女の強い恐怖心、拒絶心が、ジュリアになんらかの形で届き、彼女にだけ少女の姿を見させたのだと解釈することは出来るだろう。
一方、ヴィッキーは現実の世界でジュリアを救う。「生まれる前から私を愛していたか」と母に問うヴィッキー。母の絶大な愛を確認した彼女は悪魔から天使へと変貌する。
描き方によっては、例えば、ヨアキム・トリアーの『テルマ』のような特殊能力を持った少女の物語にもなり得たかもしれないが、本作は、SFの要素を多分に織り込みながらも、子どもにとって、母親に愛されることがどれほど大切なことなのかを描いた寓話に仕上げられている。
抑圧からの再生の物語
「ファイブ・デビルズ」という映画のタイトルはとても恐ろしく禍々しい印象を与えるが、映画を観ると、それがフランスの地方都市の名前であることが判る。
人間の持つ「五感」という意味が密かに込められているとも考えられるが、定かではない。
名前のイメージとは裏腹に、水と光に溢れ、美しく透明感あふれる姿を見せている村だが、すぐに小さなコミュニティにありがちな偏狭さが顕になる。
そこにはあからさまな人種差別や、同性愛嫌悪が存在している。ジョアンヌの父は、野良猫に餌をやる優しい人だが、ことジュリアに対しては憎悪を隠そうともしない。彼女が起こした悲劇に対する嫌悪以上に、人種差別と性的指向への嫌悪が大きいようにさえ見える。
そんな土地にジュリアが帰ってきたのはなぜだろう? それはジュリアが何もかも悟ったからなのだ。
なぜ、ジュリアはあれほど恐怖を覚えた少女と同じ顔をしているヴィッキーに驚かないのか。
なぜなら彼女を村に戻らせるきっかけとなった兄からの葉書は家族写真を印刷したもので、そこにヴィッキーも映っていたからだ。あの時の少女は未来からやって来たこと、自身がジョアンヌと別れたために生れた少女であること、そうしたことにジュリアは気づいたのだ。
恐怖というものは得体がしれないから味わうものであり、正体がわかってしまえばもはやそれは恐怖の対象ではない。
ジュリアは、ジョアンヌとやり直すために強い意思を持ってやってきたのだと言える。最初はぎこちなかったジョアンヌとジュリアが、徐々に親密さを取り戻していく様が、若かりし日々の情熱的な時間と交互に描かれていく。27歳と17歳を演じ分けるアデル・エグザルコプロスとスワラ・エマティが実に素晴らしい。
愛する娘を授かりながらも、何かが心の中で欠落し、笑うことを忘れてしまったジョアンヌが、少しずつだが、様々な表情を見せるようになる、その姿がストレートに伝えられていく。
ジョアンヌとジュリアが家族と共に出かけた飲食店で、酔っ払ってカラオケでデュエットするのはボニー・タイラーの「愛のかげり」だ。
ジョアンヌはひどく酔っているので、十分に声が出ないのだが、ジュリアは毅然と歌い上げる。
歌い終わって戻ってきた2人を迎える夫・ジミーは2人の関係をあからさまに皆に報告しているようなものだと皮肉を言うが、この時、2人は、特に、ジュリアは、強い意思を持って、それを積極的に示したのだと言えるのではないか。
離れ離れになっていた十年間、彼女たちが心の中に封印していた思いが切なくも美しい。しかし、強い意思とともにやってきたジュリアだったが、結局は叶わぬ望みだったと失意のうちに家を出る。
彼女を救ったのは、ジョアンヌであり、ヴィッキーでありジミーであった。3人の誰かひとりでも欠けていたら彼女を助けることは出来なかっただろう。
ジミーは女性たちの影に隠れて実に目立たない存在だ。だが、そもそもジュリアに帰るきっかけを与えたのは彼である。最初から妻と妹の恋を再燃させる意図があったとは到底思えないが、意識下ではどうだったのだろうか。
最後に、ラストの意味するものはなんだろう? あの少女はヴィッキーの未来の娘か、姪か。悲劇が繰り返されるのだろうか。しかし、あのびっくり仰天したようなあどけない表情に悲劇は似合わないだろう。
なんでもありのハイブリッド映画に最後はコメディーが加えられたとしてもまったく不思議ではない。もっともさすがにそれは深読みに過ぎるだろうが。
(文責:西川ちょり)