映画『白夜』は、セーヌ河岸とポンヌフを背景に、偶然出会った若き男女の、恋と愛にうつろう四夜を描くロベール・ブレッソン監督の1971年の作品だ。
1969年製作の『やさしい女』に続きドストエフスキーの短編小説を原作としており、舞台を19世紀ペテルブルクから、現代のパリに移し、ブレッソン独自のミニマリストなスタイルで演出されている。
他のブレッソン作品と同様、俳優はプロではなく素人が起用されている。主人公のジャックを演じたギョーム・デ・フォレは、当時、天体物理学を学ぶ大学生だった(現在は天体物理学者)。下宿人を演じたジャン=モーリス・モノワイエも、現在、哲学者として活躍しているという。
マルトを演じたイザヴェル・ベンガルデンは当時、モデルだったが、その後、俳優となり、ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』(1973)やヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』などに出演している。
日本では1978年に劇場初公開され、2012年に35ミリニュープリント版、2025年には4Kレストア版が全国順次公開中。
目次:
映画『白夜』作品情報
1971年製作/83分/フランス・イタリア合作映画/原題:Quatre nuits d'un rêveur(英題:Four Nights of a Dreamer)
監督・脚本:ロベール・ブレッソン 原作:フョードル・ドストエフスキー「白夜」 撮影:ピエール・ロム 録音:ロジェ・ルテリエ 美術:ピエール・シャルボニエ 編集:レイモン・ラミ 音楽:ミシェル・マーニュ
出演:イザヴェル・ベンガルデン、ギョーム・デ・フォレ、ジャン=モーリス・モノワイエ、ジェローム・マサール
映画『白夜』あらすじ
若き画家ジャックは、ある夜、セーヌ川の橋の上で自殺を図ろうとする女性マルトを見かけて駆け寄り、彼女を救う。
二人はその後も夜ごと会う約束を交わした。マルトは、一年後に会うことを約束して別れた恋人が約束の日になっても現れず、絶望して自殺を図ろうとしたらしい。ジャックはマルテに惹かれつつも、彼女の心がまだ過去の恋人に囚われていることを感じ取り、マルトが彼と出会えるよう献身する。だが、三夜目になっても男は現れない。
四夜にわたる出会いと対話を通じて、二人の関係は微妙に変化していくが・・・。
映画『白夜』感想と解説
(ラストに言及しています。ご注意ください)
ギョーム・デ・フォレ扮するジャックがヒッチハイクしようと手を挙げているところから映画は始まる。大型トラックなど車が渋滞しているカットや多数のヒッチハイカーをとらえたカットの後、ジャックの元に車が一台止まる。運転手が「どこまで」と聞いている様子だが、男は手をあげて「さてね」といったふうのポーズをとるだけだ。それでも運転手はジャックを乗せる。次いでジャックが草むらを歩いていくシーンへ。彼は途中ででんぐり返りをし、上着を脱ぎ肩にかけて歌いながら歩き、出くわした家族にうさんくさそうに眺められている。彼はのちにこの時の出来事を「郊外での息抜き」と称している。
ジャックは再びヒッチハイクで街に帰って来て、日が落ちて暗くなってきた通りを歩いていく。ブレッソンは街のきらめきをフォーカスをぼかして撮り、タイトルロールの間、その丸い様々な色の光が絵のように点在して煌き、転がっていく(実際は通り過ぎる車のライトなのだが)。
夜の街を歩いているジャック。とにかく彼はよく歩く。彼は「遊歩者」なのだ。彼の姿がフレームアウトすると、画面は切り替わって振り返るジャックのバストショットとなる。ポンヌフの欄干にもたれた女がいる。その女を見ながらもジャックは背中をみせて遠ざかる。カメラは女の足元を映して靴を脱ぐ様子を撮る。飛び降りようとする女のもとへかけていくジャック。その様子を見たらしい別の男たちが車を降りてやって来る。さらに向かいの車道にも車が止る。警察の車かもしれない。「やっかいなことになる」とジャックは女の腕をつかむのだが、その様子がそれまでの軟な佇まいからは想像もつかなかったような力強さではっとさせられる。
次の夜、約束通り再会した二人はそれぞれの生活を語る。ジャックは店の中で買い物をしている女性に目を釘付けにされたかと思えば、別の女性に心動かされてあとを追ったりと、すぐに恋をしてしまうことを告白する。彼は画家で、黒い太い線に原色の色を塗りつけていくというマチスのような作品をアトリエで描いている。そんな彼のアパートのチャイムをしつこく鳴らすものがいる。彼は長い時間かけて、そこに置かれた食器などを片付け、絵のキャンバスを全て裏返し、やっとドアをあけると美大のころの同級生だという男が部屋にはいってきて、自身の藝術論を一方的に語って帰っていく。
一方で、女性=マルト(イザベル・ヴェンガルテン)は母親と二人きりの生活をしており、アパートの一室を間貸ししている。
下宿人とマルトの部屋。ドアは閉じられて、隙間から光が漏れている。マルトは部屋の等身大の鏡に自身を映し、服を脱ぐ。裸身が映る。すると静まり返った部屋に隣の部屋から壁をたたく音が響く。このシーンの緊張感とエロチシズムが素晴らしい。
そっとのぶを静かに回し、彼の部屋の前に立つマルト、鍵穴を覗こうとするが、彼の気配を感じたのかあわてて自分の部屋に戻る(その時のドアノブに写っている彼女の姿! そのちょっと前に火にかけているやかんに写っている彼女の姿も印象的なのだ!)。続いて彼女の部屋のノブを回し、鍵がしまっているのを知って自身の部屋に戻る下宿人。静けさの中に彼らの激しい動悸が聞こえてくるかのようだ。
下宿人が出て行くことを知ってマルトは彼の部屋に飛び込み、私も連れて行って、と請う。無理だと言う彼。連れ出してと迫るマルト。男はドアに向かい、がっちり施錠する。この後のシーンが素晴らしい。母親が帰ってきて、マルトを呼ぶ。その母が歩き回る音と呼び声を耳にしながら(そしてドアの隙間に母の気配を感じながら)二人は部屋の中で全裸で、まるで彫刻のように抱き合うのだ。
男はエスカレーターを上がり、そこに飛行機の音が重なって、彼が旅立ったことが示される。一年後に迎えに来る、という彼の言葉を信じていたマルトは彼が来なかったことに絶望して死のうとしていたのだ。そんな彼女を励ますために、ジャックは彼女の友人を通しての手紙の受け渡しを買ってでる。
そのアパートメントのドアを彼は何度か出たり入ったりするが、そのたびに彼はきちんとドアを閉める。また、彼女の友人の部屋のドアも開けてはまたすぐに閉められる。ブレッソンの1959年の作品『スリ』は主人公が犯罪に手を染めていて、その証拠を部屋に置いているにもかかわらず、部屋に施錠をしない。きわめて無用心だったのだが、『白夜』では、ドアはいつもきちんと閉じられていて、誰もがそこで静かに外に漏れないように息を潜めて生きているように思える。マルトと下宿人が始めて会話を交わすエレベーターも閉ざされたままであった。
さて、ジャックはもともとテープレコーダーに言葉を録音するのが習慣だったのだが(そしてそれを再生しながら絵に色を重ねていく)、マルトに出逢ってからは「マルト」と呼び続けそれを録音し、再生する。バスの中で胸に隠したレコーダーを再生して「マルト、マルト、マルト・・・・」という音声が流れ、前の客の中年の女性たちは怪訝そうに顔をしかめる。
そして彼の目の前には「マルト」という名の店がそびえている。奥のガラスの向こうに見えるバスがフレームアウトすると画面は切り替わって、「マルト」という名のついたボートがセーヌ河に浮かんでいる。
彼は「遊歩者」である上に「夢想家」なのだ。本作の原題「Quatre nuits d'un rêveur」は、「ある夢想者の四夜」という意味だ。
「遊歩」と「夢想」は、彼の絵画表現に直結している。放浪と空想から得たインスピレーションをキャンバス上に展開させることで、彼の絵画は創造されるのだ。しかし、今や彼の遊歩も、夢想も、全てマルトに繋がっている。バスの中で録音を再生するのも、マルトのことで頭がいっぱいだからだ。公共の空間であることすら、忘れ去ってしまうほどに。
それなのに、マルトはジャックに「あなたを信用できるのはあなたが私に恋をしていないからよ」などと言う。それはなんと残酷な言葉だろう。
二人が会っている夜、セーヌ河にバトー・ムーシュがふいに現れて、画面を横断する様が俯瞰で撮られている。ボサノバを奏でるヒッピー風の楽団を従えて。ふいの登場はバトー・ムーシュだけではなく、街中でフォークソングを演奏する何組かの奏者たちもそうだ。そして、最後、「今日だけは彼を愛する。でも明日からはあなたを愛するわ」と言うマルトのもとに現れる元下宿人の恋人もそうだ。
彼にキスして、再びジャックの下に走ってきて何度かキスすると恋人の元に走っていくマルト。それはまだ幼い彼女の精一杯の誠意で優しさだろう。
そしてジャックはアトリエで絵を描き続けながら、彼女が再び彼の元に走り寄ってくれることを夢想しているのである。かなり本気で。しかも前向きに。言葉を録音し、それを再生する。それがまた観ているものの胸をしめつけるのだ。恋とはなんと・・・。
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