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映画『ガール・ウィズ・ニードル』あらすじと解説/第1次世界大戦後のデンマークでの実話を基に、多層的な悪を見つめる

映画『ガール・ウィズ・ニードル』は、第1次世界大戦後のコペンハーゲンを舞台に、デンマーク史上最悪と言われる連続殺人をモチーフにした作品だ。

 

監督を務めたのは、スウェーデン出身でポーランドで映画制作を学んだ鬼才、マグヌス・フォン・ホーン。本作は彼の長編監督第3作にあたる。マグヌス・フォン・ホーンの作品は、社会の中でしばしば使い捨ての駒のように扱われる人々を主人公にしており、本作も無慈悲な社会でないがしろにされている女性が主人公だ。

 

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マグヌス・フォン・ホーンのクールな演出に加え、『EO イーオー』(2022)などの作品で知られる撮影監督ミハウ・ディメクによるシュールで悪魔的なモノクロ映像と、作曲家フレゼレケ・ホフマイアによる力強く幽玄な音楽が、作品に背筋も凍るような鮮烈な印象をもたらしている。

 

『MISS OSAKA/ミス・オオサカ』(2021)などのヴィクトーリア・カーメン・ソネが主役のカロリーネを演じ、数々の映画賞に輝く名優トリーネ・デュアホルムのほか、ベシーア・セシーリらがキャストに名を連ねている

 

本作は2024年カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品作品、第97回アカデミー賞国際映画賞にノミネートされた。

 

目次

 

映画『ガール・ウィズ・ニードル』作品情報

(C)NORDISK FILM PRODUCTION / LAVA FILMS / NORDISK FILM PRODUCTION SVERIGE 2024

2024年製作/123分/PG12/デンマーク・ポーランド・スウェーデン合作映画/原題:Pigen med nalen(英題:Girl with Needle)

監督:マグヌス・フォン・ホーン 製作:マリウシュ・ブロダルスキ、マリーヌ・ブレンコフ 製作総指揮:ヘンリク・ツェイン、ロネ・ジェルフィグ 脚本:マグヌス・フォン・ホーン、リーネ・ランゲベク 撮影:ミハウ・ディメク 美術:ヤグナ・ドベシュ 編集:アクニェシュカ・グリンスカ 音響:オスカ・スクリーヴァ 音楽:フレゼレケ・ホフマイア

出演:ヴィクトーリア・カーメン・ソネ、トリーネ・デュアホルム、ベシーア・セシーリ、ヨアキム・フェルストロブ

 

映画『ガール・ウィズ・ニードル』あらすじ

(C)NORDISK FILM PRODUCTION / LAVA FILMS / NORDISK FILM PRODUCTION SVERIGE 2024

リネン工場で「お針子」として働いているカロリーネは、家賃滞納を理由に、突然アパートから追い出されてしまう。ようやく探し当てた部屋は床に雨漏りの水がたまり、ゴミだらけ、埃だらけのひどいものだった。

 

第一次世界大戦に従軍した夫のペーターは一年以上も消息が知れず、死亡宣告を受けていないため未亡人手当を受け取ることもできない。

 

カロリーネは工場長のヨルゲン・キッツラーに窮状を訴える。彼は彼女に同情し、夫の行方をつてを頼りに調べてくれるが、やはり何もわからないと言う。ふたりは、急速に近づき、欲望の突き進むまま結ばれ、カロリーネは妊娠する。それはカロリーネにとって絶望的な状況からの脱出を意味し、彼女はヨルゲン・キッツラーに結婚を約束させる。

 

そんな矢先、戦争が終結し、消息不明だったペーターが帰って来る。彼は顔面に大きな怪我を負い、仮面で顔を隠していた。カロリーネは彼を部屋に連れて行くが、彼女の出した手紙を読んでいながら返信してこなかったペーターに腹を立て、今、新しい恋人がいて妊娠もしているのだと言って彼を追い出してしまう。

 

ヨルゲンと共に、彼の母親と対面したカロリーネだったが、母親はいきなり、医師にカロリーネの妊娠が本当なのかを確かめさせた。妊娠が本当とわかっても母親はカロリーネを家に入れるわけにはいかない、この家と関係なくふたりで独立してやっていくのなら何も言わないと冷酷に突き放す。すると途端にヨルゲンは慌てだし、カロリーネは結婚の約束を反故された上に仕事もクビになってしまう。

 

全てを失ったカロリーネが街を彷徨っていると、サーカスのポスターが目に飛び込んできた。そこにはペーターらしき人物の顔が描かれていた。

 

サーカスにもぐりこんだカロリーネはペーターがステージ上で化け物扱いされているのを目撃する。サーカスの団長はこの男に触れてみたい人はいるかと客席を煽っていた。カロリーネは立ち上がり、ペーターの手を取ると、彼にキスした。こうして、ふたりはまたよりを戻すが、生活は苦しかった。

 

ある日、カロリーネは浴場に行き、編み物針で中絶を図るが、ダウマという親切な女性に助けられる。ダウマは、赤ん坊を産んた後、子供が欲しくても恵まれない裕福な人に引き取ってもらえばいいと言う。どうやら彼女はそうした斡旋をしているらしい。子供が生まれたら訪ねて来いとショップカードを渡して彼女は立ち去った。

 

仕事中に産気づいたカロリーネは年配の女性に助けられ、無事に出産する。部屋に連れて帰ると、ペーターはなんてかわいい赤ちゃんだと愛しそうに赤ん坊を抱いた。あなたの子じゃないというカロリーネの言葉も気にすることなく、「この子は大事にしなくちゃいけない」とペーターは応じた。

 

だが、カロリーネはペーターに知られないように家を出ると、浴場で出会った女を訪ねていく。引き取ってもらうには金を払わなくてはいけない。カロリーネが持って来た金では足りなかったが、ダウマは赤ん坊を引き取ってくれた。

 

翌日、カロリーネは再びダウマの家に行くが、赤ん坊はもういなくなっていた。裕福な人にもらわれていったという。カロリーネはお金を払えないから、乳母として雇ってほしいと頼み、ダウマの家に住み込むことになる。ようやく、安全な暮らしを手に入れたように思えたカロリーネだったが・・・。

 

映画『ガール・ウィズ・ニードル』感想と解説

(C)NORDISK FILM PRODUCTION / LAVA FILMS / NORDISK FILM PRODUCTION SVERIGE 2024

物語の幕が開くや、ヴィクトーリア・カーメン・ソネ演じるカロリーネは、住み慣れた部屋を追い出される。住むところを失うことほど怖いものはない。家賃をいくらか滞納していたからといって、長年暮らしている住人に対して予告もなく立ち退かせるとはあまりにもひどい仕打ちだ。夫は戦争の荒波に呑まれ、ひとり残された彼女は、その孤独ゆえに軽んじられたのかもしれない。

やっと見つけた新たな棲家は、荒れ果てた廃墟のごとき部屋だ。新しい家主は彼女を監視し、隙あらば追い出そうとしている。誰もが生き延びることに精一杯で、他人を顧みる余裕などないのだ。

 

この悲劇の源泉は貧困だ。第一次世界大戦の残響が経済を蝕み、煤けた街並みや工場、住まいなどあらゆるものに絶望が色濃く滲んでいる。そんな中、カロリーネは帰還した傷痍軍人の夫に「出ていけ!」と叫び、彼を部屋から追い出してしまう。無慈悲な仕打ちだが、一年もの音信不通に心を閉ざし、彼女は工場長との結婚に淡い希望を託したのだ。それは無情な世界で生き延びるための、魂を削る闘いだった。だが、工場長は母親の反対に脆くも約束を翻し、カロリーネは職さえも奪われてしまう。

 

絶望したカロリーネは浴場の片隅で編み物針を手に中絶を試みる。彼女は工場長との子を妊娠しているのだ。そこで彼女を救ったのが、ダウマという幼い娘を連れた親切な中年女性だった。

彼女は菓子店の看板を掲げながら、裏では違法な養子縁組仲介業を運営しており、望まれない赤ちゃんを引き取り、良家の人に斡旋していた。

カロリーネは出産後、子を彼女に委ねる。手数料を捻出できず、翌日再び訪ねたとき、子はすでに影も形もなかった。養子として貰われていったという。

カロリーネは懇願の果てに、乳母としてダウマの家に身を寄せることを許される。子を売る罪の重さを知りつつも、苦しむ女たちを救う一筋の光だと、彼女は信じたのだ。

 

安堵の港に辿り着いたかに見えたカロリーネだが、物語はここから静かに、だが冷酷に暗い深淵へと突き進んで行く。彼女の心に寄り添い、不安をそっと煽りながら、妖しくも魅惑的に響くフレゼレケ・ホフマイアの音楽が素晴らしい。

 

この物語は、1913年から1920年にかけて25人の乳児を殺めたデンマーク人女性ダグマー・オーバーバイの真実を織り込んだものだ。マグヌス・フォン・ホーン監督は過度に悪を擁護することもなく、罪を社会の影に薄めることもせず、ただその深みを直視する。悪とは何か、その問いを観客の心に静かに投げかけるのである。

 

この物語で唯一の光と呼べるのは、カロリーネの夫ペーターだろう。デンマークは第一次世界大戦で中立を保ったが、南ユトランドの若者たちはドイツのために戦い、多くの命が散った。顔に深い傷を刻まれながら帰還したペーターは、カロリーネに追い出され、サーカスのテントに身を寄せる。

そのことを知ったカロリーネはテントに紛れ込み、彼が怪物と嘲られているのを目撃する。カロリーネは思わず彼に近寄り、二人はよりを戻す。彼は彼女が生んだ子を、それが自身の血を引かぬ子でも、愛おしげに抱きしめ、この子は大切にしなくてはいけないよと語るのだ。だが、彼女は子をダウマに委ねてしまう。

 

サーカスの観客たちは戦争に行った若者など気にもとめない。敬意を払わないだけでなく、傷ついた容姿を見て笑うのだ。本作を構成するのは幾重にも重なる悪の層だ。冒頭、ミハウ・ディメクによるシュールな映像が魂を揺さぶる。次々と人の顔が浮かんではライテイングによって変貌するその奇妙な映像はその後も何度か繰り返される。これは人間の醜さの集合体を表しているのだろうか、あるいは醜くならざるを得ない状況下にある人間の無言の叫びなのだろうか。

 

望まれぬ子が溢れ、子を手放した母たちが罪悪感に心を裂かれること、その重荷が女性たちにのみ降りかかること。これらが物語の静かな鼓動となる。子を買う者もまた女性だ。ダウマは子を連れてきた母たちに「正しい選択だった」と囁き、自身の罪を薄め、母たちの傷を癒そうとする。ダウマはつらくなるとエーテルで意識を霞ませる。カロリーネは、やがてエーテル中毒に陥ってしまうのだが、まだその初期に、ダウマと映画館で笑い合うシーンは、互いの痛みを忘れようと寄り添う切ない瞬間として心に強く残る。

 

目を背けたくなる場面が続くが、フォン・ホーンはこれを大人向けのおとぎ話だと語っている。或いはグランギニョルの血と涙の舞台と呼ぶべきか。だが、ここに描かれた現実は、決して遠い幻ではない。

 

驚くべきことに、かくも深い悪を描きながら、物語の後味は悪くない。カロリーネは知らないうちに共犯者となってしまうのだが、ダウマが共犯の存在を否定したため、裁きの場を逃れる。法廷で被告席に立つダウマをまっすぐ見つめるカロリーネと、そんな彼女に気が付くが顔色ひとつ変えないダウマ。その瞬間の心の深淵は語られない。その空白こそがこの物語の魂なのだ。

 

 

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