1996年、36歳の女性と13歳の少年が起こした「メイ・ディセンバー事件」はアメリカ社会に大きな衝撃を与えた。23年後、事件を映画化する企画が持ち上がり、女優のエリザベスは、事件の当事者であるグレイシーとジョーを訪ね、役柄のリサーチを始めるが・・・。
映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』は、アメリカで実際に起きた事件を基に、『エデンより彼方に』(2002)、『キャロル』(2015)などの作品で知られる異才トッド・ヘインズ監督が、複雑なキャラクター、複雑な人間関係を重層的に見つめた作品だ。
ナタリー・ポートマンがエリザベス、ジュリアン・ムーアがグレイシーをそれぞれ演じ、『バッドボーイズ フォー・ライフ』(2020)などのチャールズ・メルトンがジョー役を務めた。
2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作品。第81回ゴールデングローブ賞では作品賞、主演女優賞、助演女優賞、助演男優賞に、第96回アカデミー賞では脚本賞にノミネートされた。
ちなみにタイトルの「メイ・ディセンバー」とは、「親子ほど年が離れたカップル」という意。
目次
映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』作品情報
2023年製作/117分/R15+/アメリカ映画/原題:May December
監督:トッド・ヘインズ 製作:ナタリー・ポートマン、ソフィー・マス、パメラ・コフラー、クリスティーン・ベイコン、グラント・S・ジョンソン、タイラー・W・コニー、ジェシカ・エルバウム ウィル・フェレル 製作総指揮:マデリン・K・ルーディン、トーマス・K・リチャーズ、リー・ブローダ、ジェフ・ライス、ジョナサン・モンテペア、サミー・バーチ、アレックス・ブラウン、トーステン・シューマッハー、クレア・テイラー 原案:サミー・バーチ、アレックス・メヒャニク 脚本:サミー・バーチ 撮影:クリストファー・ブロベルト 美術:サム・リセンコ 衣装:エイプリル・ネイピア 編集:アフォンソ・ゴンサウベス 音楽:マーセロ・ザーボス キャスティング:ローラ・ローゼンタール
出演:ナタリー・ポートマン、ジュリアン・ムーア、チャールズ・メルトン
映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』あらすじ
23年前、ジョージア州サバンナで、当時36歳の女性と13歳の少年が起こした“メイ・ディセンバー事件”は全米に衝撃を与えた。
当時36歳だった女性グレイシーはアルバイト先のペットショップで知り合った13歳の少年ジョーと性的関係を結び実刑となった。
グレイシーは少年との子供を獄中で出産し、刑期を終えてふたりは結婚。「犯罪か、純愛か」とタブロイド紙の格好の餌食になるが、夫婦は地元に住み続け、今では地元の人からも受け入れられ平穏な日々を送っていた。
そんな中、この事件をモデルにしたインディーズ映画の企画が立ち上がり、グレイシー役を演じる女優のエリザベスが、グレイシーとジョーを訪ねてやって来る。事件から既に23年が経っていた。
夫婦は3人の子供に恵まれ、獄中で生まれた長女は現在大学生。あとのふたりは双子の兄妹で、高校の卒業を控えていた。2人はまもなく親元を離れ、大学に通うことになっていた。
グレイシーは、エリザベスを快く迎え、彼女をホームパーティーに招待した。グレイシーとジョーはウオーターフロントの大きな美しい家に子供たちと2匹の愛犬と共に暮していた。
終始、和やかな雰囲気だったが、送られて来た一個の小さな小包がまだ事件の余波を感じさせた。排せつ物が入っているというその箱は、これまでも度々送られて来たらしい。ただし、今ではその数も随分減ったという。
グレイシーは地元の人々から多くのケーキの注文を受けるなど、忙しくも充実した日々を送っているようだった。一方、ジョーはレントゲン技師として地元の病院で働いていた。
役作りのため、エリザベスはしばらくこの地に滞在することになっていた。グレイシーとジョーと食事をともにしながらふたりに質問をしたり、彼らの娘が卒業式に着るドレスを選ぶのにグレイスと一緒に店にでかけていくなど、交流を深めながら、エリザベスは冷静に夫婦を観察していた。やがてエリザベスはグレイシーの表情や、手振り、身振りを真似し始める。
さらにグレイシーの前夫や、グレイシーの弁護士を務めた男性に連絡し、当時のことを質問するエリザベス。彼らの証言から、グレイシーと前夫の間に生まれた子供たちなど多くの人が事件で傷ついたことがわかる。
やがて平穏と思われたグレイシーとジョーの本当の感情が見え隠れし始める・・・。
映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』感想と解説
(ラストに言及しています。ご注意ください)
冒頭、ジョセフ・ロージー監督の1971年の作品『恋』のテーマ曲が流れるが、このスコアは否応なく、観る者に不安を喚起する。本作を支配するのは、こうした「不安」と、物事を理解しようとする際の得体のしれなさである。
今から20数年前、当時36歳のグレイシーという女性が13歳の少年ジョーと性的関係を持ち逮捕された。彼女は少年との子を獄中で出産し、出所後、少年と結婚。このスキャンダラスな事件は、タブロイド紙の格好の餌食となった。これは当時、アメリカで実際に起きた事件を元にしている。
この事件を映画化する企画が持ち上がり、主演を演じることになった女優のエリザベスが役作りのため事件の舞台であるジョージア州サバンナにやって来るところから物語は始まる。
エリザベスはグレイシーとジョーの日常に密着しながら、二人の関係や人となりを観察する。いわば彼女は探偵のような役割で、私たちが、この夫婦について考える上での視点となり、ヒントを与えてくれる存在だ。
グレイシーがエリザベスの訪問を受け入れたのは、エリザベスに自分たちを好意的に捉えてもらい、映画を良いものにしてもらおうという思いがあったからだろう。彼女は今の自分たちの生活に自信があるのだ。確かに20年前は「犯罪」だったかもしれないが、それは「純愛」ゆえの行為で、私達がこうして家族として立派にやってきたのがなによりもの証拠じゃないの、というわけだ。
実際、彼女たちの生活は穏やかで、子どもたちとの関係も上手く行っているようだ。地域の人にも受け入れられており、幸せそのものに見える。
だが、エリザベスの観察が深まるに連れ、徐々にそのカーテンの裏側が見え始める。
グレイシーは夫のジョーに対して、まるで母親のように振る舞っている。ジョーは従順なよくできた「息子」のようだ。一方で、グレイシーは自分が気に入らないことがあれば、子どものように泣きじゃくり、ジョーに慰められている。グレイシーはジョーを支配と依存で縛り付けているのだ。
それはジョーだけではない。高校の卒業式に着るドレスを購入しにやってきた娘がノースリーブのワンピースを試着した際、グレイシーは「腕を出せるなんて勇敢ね」と彼女を褒める。もっとも、これが逆説的な言い回しであるのはいうまでもない。娘はあわててこれは友人のドレスと似ているからと別の服を試着しに行く。グレイシーは決して直接的に否定せず、夫や子供を支配する術を知っているのだ。
13歳のまだ幼い少年がこのような女性に言いくるめられればどうなるのか。彼は自分が彼女を誘ったとずっと思わされてきたようなのだ。グレイシーは彼に責任をかぶせ、自分を正当化する。これは性犯罪者のよくやる手口ではないか。
もっとも恐ろしいのは、グレイシーがジョーに対して行ったことに対してまったく後悔や罪悪感を抱いていないらしいということだ。彼女はいつも自然な佇まいをしていてなんの悩みもないように見える。グレイシーを演じるジュリアン・ムーアの絶妙な表現力には脱帽するしかない。
エリザベスが州の性犯罪者リストを眺めているシーンがあるが、そこにはグレイシーの顔写真と罪状が記載されている。しかし、もはや、グレイシーにはその自覚はないのだろう。家族として長年苦楽を共にし、子どもたちも立派に育て上げ、わたしたちは実に上手くやってきた、この誇らしい私達を見てほしいというのが彼女の偽らざる今の気持ちだろう。
しかし、彼女が行ったことは紛れもない犯罪であり、結婚後も彼女は、ジョーを搾取し続けてきたのである。エリザベスという他者の目が加わったことで、ジョーは長年、気づきながらも封印してきた思いに揺れ始める。彼はまだ36歳なのにもう老年期に入ったかのような気分になることがある。なによりも一度しか経験できない「青春時代」を失ってしまったのだ。
彼にとってエリザベスは、一種の希望だったのかもしれない。彼女なら自分を不安な場所から救い出してくれるのではないか。しかし、その思いは終盤、彼がひどく傷つけられることであっけなく終わってしまう。
これまで私達にとっては良き「視点」であったエリザベスだが、物語が進むに連れ、次第によくわからない存在になっていく。
それは彼女がジャーナリストでもなければ、小説家や脚本家でもなく、ましてや本当の「探偵」でもなく、「俳優」であることに原因がある。
エリザベスが「物語」と表現して、ジョーに「物語だって!? 僕にとっては人生だ!」と激怒させるシーンがあるのだが、エリザベスは彼らの生活を観察し個人的にジャッジはするものの、それらはすべて演技の糧であり、役作りの材料に過ぎない。彼女にとって、よい演技をすること、良い映画を撮ることが全てであり、欲しいものさえ手に入れば、別に彼らのこれからがどうなろうと構わないのだ。
ナタリー・ポートマンがこのエリザベスという女性のなんともいえない形容しがたさをねっとりと演じていて圧巻だ。
「どんな方法をとっても欲しいものを手に入れる」という点で、エリザベスとグレイシーは驚くほど似ている。エリザベスがジョーを誘惑するのも、役作りの一貫だとしか思えず、その驚くほど勉強熱心な様に、この女性もまた自分の欲望のために倫理的責任感を失っているのだと判断せざるを得ない。
その後、グレイシーの手紙をベッドの上で朗読する際のやり過ぎ感は、もはや、コメディーの境地に達している。
エリザベスとグレイシーが似ているという点で言えば、エリザベスは実際、グレイシーの仕草や、表情を熱心に真似している。映画はその様を鏡を使って表現している。
グレイシーの娘のドレスを購入しに出かけた日。娘は試着室の前で待つグレイシーとエリザベスの前にドレス姿を披露しにやってくる。画面にはグレイシーとエリザベスが並んで映っているが、それは鏡に映った二人を捉えたもので、彼女たちは、実際はカメラの後ろにいる。その鏡は2面鏡でその一面には二人が並んで映っており、もう一面にはグレイシーだけが映っている。グレイシーが画面に二人存在している。非常に奇妙な印象をもたらす構図で、エリザベスがグレイシーの仕草や佇まいを真似していることも合わせて考えれば、まるで本物のグレイシーはどれかという当て物のような光景でもある。
他にも二人が鏡を通して、わたしたちの前に現れるときが二度ほどある。とりわけ、高校の卒業式の前日にレストランで食事をした際、二人がレストルームの鏡を覗き込んでいる場面(私達は鏡に映る彼女たちを観る)では、ふたりはなんと似ていることかと思わせる。エリザベスがグレイシーの化粧まで真似していることもあるのだが、年齢の差もあるジュリアン・ムーアとナタリー・ポートマンがこんなに似ているだなんて、とすっかり驚かされる。
だが、映画の終盤、すっかりグレイシーになるコツを掴んだと得意げだったエリザベスの自信はグレイシーによって粉砕される。事実だと思っていたことは実は嘘で、そこから導いたグレイシー像は誤りだったというのか。グレイシーが嘘をついている可能性もあるが、最早、それを証明する手立てはない・・・。
この展開は、人の深淵な部分を簡単にわかったつもりでいることへの戒めを意味しているのだろうか。あるいは実際のモデルがいる作品を制作するにも関わらずそのモデルに経緯を払わず、配慮もせず、独善的な解釈で表現しようとする作り手=映画人への痛烈な批判なのか。はたまたわかったように映画について語ろうとする批評家への牽制なのか。あるいはまったく別の意図なのか、判断はつかないが、ラストシーンで、映画の撮影に打ち込むエリザベスの姿には、打ち砕かれた自信を取り戻そうとする懸命さが見て取れる。
彼女はおそらく、「一体私の何がわかったというのかしら」というグレイシーの挑戦に対して明確な答えを出そうとしているのだ。
そういう意味で本作は、グレイシーとエリザベスの、そして、ジュリアン・ムーアとナタリー・ポートマンの行き詰まる対決の映画といえるのではないか。
もっとも、女性が少年を誘惑しようとする映画の撮影シーンは、エリザベスの熱心さとは裏腹にどこか安っぽく、淫らで下品なメロドラマにしかならないのではないかと想像させる代物であることが、なんとも皮肉である。