急激な経済発展を遂げ、多彩な国籍の人間が集まる街、台北。レッドフィッシュ、ホンコン、トゥースペイストと新人のルンルンのティーンエイジャー四人組は、この街でのし上がって行こうと虎視眈々だ。ところが、レッドフィッシュの父親が借金を作って雲隠れしてしまい、借金取り立てのヤクザたちはレッドフィッシュを誘拐しようと企む。そのころ、突然いなくなってしまった恋人を追いかけてパリから台北に到着したマルトは、ひょんなことから四人組と関わることになるが・・・。
エドワード・ヤン監督の『カップルズ』(1996)は、伝統的な価値観や社会の構造が揺らぎ始めた1990年代を舞台にした前作『エドワード・ヤンの恋愛時代』の主題を引き継ぎ、多国籍都市となった台北とそこにうごめく人々の姿を鮮やかに描き出した作品だ。
エドワード・ヤンは1960年代の戒厳令下の台湾を舞台にした『牯嶺街少年殺人事件』(1991)の少年たち、チャン・チェン、ワン・チーザン、クー・ユールンを現代に再登場させ、マルト役にオリヴィエ・アサイヤスの『冷たい水』(1994)や、フランソワ・オゾンの『8人の女たち』(2002)などで知られるヴィルジニー・ルドマイヤンを配し、見事なアンサンブルを生み出している。
劇場公開はもちろん、ソフトは廃盤、配信でも長らく見ることのできなかった本作だが、このたび、台湾の映画機関TFAIにより4Kレストア版として修復され、2025年4月18日(金)より日本で待望の劇場リバイバル公開が始まった。
目次
映画『カップルズ』作品情報
1996年製作/120分/PG12/台湾映画/原題:麻將 (英題:Mahjong)
監督・脚本:エドワード・ヤン(楊徳昌) 製作:ユー・ウェイエン(余為彦) 製作総指揮:デビッド・サン(孫大偉) 撮影:リ・イジュ(李以須)、リー・ロンユー(李龍禹) 編集:チェン・ポーウェン(陳博文) 録音:ドゥー・ドゥージ(杜篤之)
出演:ヴィルジニー・ルドマイヤン、クー・ユールン(柯宇綸)、チャン・チェン(張震)、タン・シャンシェン(唐従聖)、ワン・チーザン(王啓讃)、アイビー・チェン(陳欣慧)、ワン・ポーセン(王柏森)、チャン・クオチュー(張国柱)、エレイン・チン(金燕玲)、キャリー・ン(呉家麗)、クー・パオミン(顧寶明)、イエ・チュエンチェン(葉全真)、ニック・エリクソン、ダイアナ・デュピス
映画『カップルズ』あらすじ
1990年代、台湾の首都・台北は、急激な経済成長を遂げ、多国籍の街として活気づいていた。伝統的価値観が弱体化して途方に暮れる人々がいる一方、一攫千金を夢見て、猛烈な競争が繰り広げられていた。
レッドフィッシュ、ホンコン、トゥースペイスト、そして新人のルンルンは、4人組の青年ギャング団としてフラットの一室をシェアし、リーダー格のレッドフィッシュの指揮のもと、金と成功を求めて詐欺的行為を繰り返していた。
すらりと背が高くイケメンのホンコンは女性を誘惑し、トゥースペイストは通称“リトルブッダ”としてニセ占いで稼いでいた。仲間に加わったばかりのルンルンは、運転手を務めているが、のちに通訳としても活躍することになる。彼の父は、ゲストハウスを経営していて、そこに出入りする外国人の英語を聴くうちに、自然と覚えたらしい。
彼らがハードロックカフェでカリスマ美容師のジェイに偽占いの話を持ち掛けていた時、マルトという女性が現れる。彼女はイギリス人デザイナーのマーカスを追って無鉄砲にもパリからひとりでやって来たのだ。
マーカスはかつてはロンドンで活躍する著名なインテリアデザイナーだったが、仕事に失敗し破産したため台湾に逃げて来た男だった。現在の恋人アリスンと飲んでいたところに突然マルトが現れて驚いた彼は、マルトに冷たくあたる。アリスンは台北で仕事をする上で重要なコネなのだ。
傷心の面持ちでタクシーに乗ろうとしたマルトが運転手から料金を吹っ掛けられているところに出くわしたレッドフィッシュとルンルンは彼女を自分たちの軽トラックに乗せ、ホテルまで送ってやる。
ところが、マルトはホテルの予約もしておらず、金も持ち合わせていなかった。レッドフィッシュは気前よく、3日分の料金を払ってやるが、彼には下心があった。エスコートクラブを運営するジンジャーに彼女を売り飛ばそうという寸法である。
ホテルを出たマルトは、四人組のフラットで寝泊まりすることとなった。ある日、レッドフィッシュはジンジャーにマルトを紹介するために、ルンルンにマルトを連れて来いと連絡するが、密かに彼女に心を寄せていたルンルンは気が進まない。
レッドフィッシュに彼女がいなくなったと嘘をつき、父親のゲストハウスの一室に彼女を住まわせることにするルンルン。だが、そこにヤクザ二人組がやってきて、マルトとルンルンは拉致されてしまう。
レッドフィッシュの父親が、幼稚園チェーンの事業に失敗し、多額の借金を背負った上に姿を隠してしまったため、彼らはレッドフィッシュを誘拐するつもりだったのだが、ルンルンとレッドフィッシュを間違えてしまったのだ。
マルトの活躍で、難を逃れたルンルンだったが、その際、ヤクザから手に入れた銃は、レッドフィッシュが所持することとなる。
その銃が彼の運命を大きく変えることになって行く。
映画『カップルズ』感想と評価
『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994)と同様、『カップルズ』(1996)は90年代の台北を舞台にしている。『エドワード・ヤンの恋愛時代』では「情け」を重んじた社会の衰退と「見せかけ」がものを言う新時代の到来に戸惑い迷う若者たちの姿が描かれていたが、本作における台北の街はさらに複雑に、さらに利己的に変貌しており、人々は、私利私欲に塗れ、富と権力を手に入れようと競い合っている。
『カップルズ』の主要キャストの四人組は『恋愛時代』の登場人物たちよりも10歳ほど若い。パリから恋人を追いかけて来た少女マルトに「高校生?」と尋ねられた少年が返事をせず沈黙したのは、実際はもう少し年上なのに、幼く見られたことを恥じたのか、あるいは高校をドロップアウトしていたからなのか、いずれにしても彼らがそれくらいの年齢であるのは確かだ。
彼らは四人でフラットの一室をシェアし、富と成功を夢見ている。四人はそれぞれの役割を持っていて、リーダー格で口が達者なレッドフィッシュ、ルックスの良さをいかし女性をたらし込む役割のホンコン、似非占い師のリトル・ブッダことトゥースペイスト、そして、最近仲間に加わったばかりのルンルンは運転手謙通訳を担当している。
四人組の様々な詐欺行為に人々が簡単に騙される光景はシニカルな笑いを誘う。しかし、ホンコンにくどかれて彼の部屋で一夜を明かしたアリスンが、他の仲間たちとも関係を持つように迫られるシーンは実にショッキングだ。仲間が持ち帰ったものはなんでも共有するのがルールだというのが彼らの主張だ。レッドフィッシュの巧みな話術に弄され、ホンコンを恋人としてつなぎとめるために彼女はそのルールを受け入れることになるのだが、なんと不快で暴力的なエピソードだろうか。だが、ホンコンはすぐにその代償を払うことになる。四人組がアリスンを人としてでなく「もの」として扱ったように、彼はアンジェラという女実業家とその友人たちに「もの」として扱われるのだ。女たちは「私たちイイものはなんでも分け合う仲でしょう?」と彼らと同じ台詞を吐き、ホンコンはその場で泣き崩れる。
夜も更け行く台北の街を俯瞰でとらえた映像にホンコンの泣き声が重ねられるが、やがてどこかのビルの屋上で囚われの身となったルンルンとマルトが映しだされると、建設中の作業音のような轟音が時たま響くだけで、泣き声は消え去っている。
レッドフィッシュの父親は破産して借金を踏み倒したため、ヤクザに追われており、ルンルンはレッドフィッシュに間違われてここに連れてこられたのだ。一緒にいたマルトも巻き添えをくらってしまったわけだが、この屋上でのシーンが重要なのは、まずマルトが鮮やかな活劇を見せてくれることと、銃が彼らの手に渡ることである。ヴィルジニー・ルドマイヤン扮するマルトはヤクザの手下から銃を奪い、次いで彼のポケットに入っていた弾倉を鮮やかに抜き去って差し込むと「自由を奪ってなぜ殺すの!」とヤクザに銃を突きつけて叫ぶ。その瞬間、文字通り目を丸くしているルンルンのアップが、大いに笑いを誘う。本作でもっともユーモラスな場面だ。
マルトの女スパイ並みの活躍で手に入れた銃は、レッドフィッシュの手に渡る。彼は他の仲間に対してたびたび、「みんな人の指図を待っているんだ」と語っている。「何かあったとき、誰かのせいに出来たら楽だろう?」と。
こうした台詞や四人組のリーダーとしての彼の手腕は、皆、父親譲りである。冷酷に徹して、莫大な富を築いた父親は、幼稚園チェーンの事業に失敗し謝金を抱え雲隠れしているのだが、レッドフィッシュはこんな状況でも父親は何かちゃんと手を打っているはず、秘策があるはずと信じている。
ところが父親には何の策もなく、あろうことか、純愛とも思しき堅気の女と共に心中してしまうのだ。レッドフィッシュが信じていたものは粉々に砕け散り、その後、父親の友人チウに呼び出された彼は、チウがこのままではお前の父親のようになってしまうと口走った際、逆上し、銃をチウにぶっ放してしまう。ふいの暴力の加速は、冒頭、四人組が盗んだ軽トラックを走らせている際、急に加速度を増して、角度を変え、路上駐車中のピンクのベンツにぶつかる(ぶつける)シーンを思い出させるが、実はそれがあらかじめ仕組まれていた行為であったのとは違い、こちらは究極の感情の爆発として描かれている。あまりにも生生しいシーンであるため、エドワード・ヤンはこのマンションの一角を劇場の舞台のようにしつらえている。背後の窓から外のネオンの明かりが赤とぼやけた緑色に交互に輝く中、少し、段差のある場所で、一連の行為が描かれるのだ。
「殺さないでくれ」と頼むチウに向かって「死にやしないよ」と救急車を呼ぼうとしていたレッドフィッシュは、アンジェラが、10年前に父をだました女とは別人だと聞かされ、チウにとどめの一発を撃つ。アンジェラなんてこの世界に数えきれないほどいるというのに、なぜ、彼女だと信じてしまったのか。『エドワード・ヤンの恋愛時代』と同様、ここでも急速に変化する社会において、信じるものを失い彷徨する魂が描かれるのだ。
搾取と暴力に満ちた資本主義の破滅的な圧力の下でホンコンとレッドフィッシュは号泣しながら退場し、四人組のフラットにはいきがるトゥースペイストと共に、新たな若者が姿を見せ、チームを組もうとしている。なんでも簡単に取り換え可能というわけだろうか。
チームに残るか、残らないかでトゥースペイストと押し問答していたルンルンは、自分がだれかから必要とされている存在であることに突然気が付く。誰かとはマルトではないだろうか。彼は恋愛映画の主人公のごとく、その場を駆けだして行く。
映画のラスト、市場のざわめきの中で、ルンルンとマルトは互いの存在を認め合い、歩み寄って迷わずキスをする。ちなみにキスは四人組の間では縁起が悪いという理由で認められていなかった行為である。
思えば、ハードロックカフェでルンルンがマルトと初めて出会う瞬間の鮮やかなフォーカスの移動シーンから、オーソドックスなボーイ・ミーツ・ガールの物語は始まっていたのだ。
台湾にやって来て、エスコートクラブのオーナーとして成功をおさめたジンジャーという女性がマルトに「ここは望みの叶う街だけど、恋の実る街ではない」と忠告するシーンがあるのだが、それに反してこれほどのピュアな恋が生まれるのも、また、台湾が世界の中心であることを証明しているかのようだ。
エンドロールになると二人の姿はもう見えなくなるが、市場のざわめきだけは最後までずっと響いている。どんなに社会が変化しようとも、決して変わらず、残り続けるものが確かに存在することを告げるかのように。
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