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1990年代前半の台北を舞台にした台湾のエドワード・ヤン監督の青春群像劇『エドワード・ヤンの恋愛時代』が29年の時を経て4Kレストア版としてリバイバル公開されている。
エドワード・ヤン作品では『カップルズ』(1996)と共に、なかなか観る機会に恵まれなかった作品だけに今回の上映は貴重な機会だ。
経済的に急成長した台北に暮らす若い男女が、儒教的道徳観と、新しく入ってきた西洋的個人主義の狭間で葛藤する2日半が、騒々しくも鮮やかに描かれている。
映画『エドワード・ヤンの恋愛時代』作品情報
1994年製作/129分/台湾映画/日本初公開1995年 原題:獨立時代 (英題:A Confucian Confusion)
監督:エドワード・ヤン 制作:ユー・ウェイエン 製作総指揮:デビッド・サン 撮影:アーサー・ウォン 、リー・ロンユー 、ホン・ウーショウ 美術:ツァイ・チン、 エドワード・ヤン 音楽:アントニオ・リー
出演:チェン・シャンチー、ニー・シューチュン、ワン・ウェイミン、ワン・ポーセン、ワン・イエミン、ヤン・ホンヤー、チェン・イーウェン、ダニー・ドン、リチー・リー、チェン・リーメイ
映画『エドワード・ヤンの恋愛時代』あらすじ
1990年代前半の台北。財閥の娘、モーリーはカルチャー・ビジネス会社の代表を務めているが、経営状況は芳しくなかった。
そんなモーリーのオフィスになさけない顔をしてやってきたのは人気劇演出家のバーディだ。新作を準備している彼は、記者たちのインタビューを受けてきたばかりなのだが、そこでかねてからの盗作疑惑を追及されたという。
モーリーの姉の夫である小説家の初期の作品をちょっと拝借しただけなのだが、近ごろは著作権がうるさいらしく彼はすっかりしょげかえっていた。
モーリーの姉はモーリーの婚約者であるアキンと結婚するはずだったのだが、小説家と大恋愛をしたため、モーリーがアキンと結婚することになったといういきさつがあった。
それほどの大恋愛だったにも関わらず、姉は今、夫と別居中で、人気テレビ番組のキャスターという仕事柄、それが世間にバレないよう非常に気を使っていた。
モーリーの右腕として働くチチはいつも笑顔の愛らしい女性で、役所に勤めるミンという恋人がいた。モーリー、チチ、バーディ、ミンは皆、同じ大学の同級生だ。
ミンの同僚のリーレンは、工期が遅れた業者から、違約金を支払えないと泣きつかれて困っていた。25日遅れを7日にしてやっても払えないという。
チチから電話がかかってきた。ミンの父が夕飯を一緒に食べようと言っているという。ミンは父をひどく嫌っていた。父はかつて汚職で逮捕されたことがあり、母とも離婚していた。断ろうとするミンだったが、チチの仕事の話らしいということで渋々承知する。
モーリーのところにアキンの顧問コンサルタントのラリーがやって来た。彼は会社の経営状態を調べて、彼女のワンマン体制を批判した。このような状態ではアキンに増資はさせられないという。
ラリーが帰る際、彼が社員のフォンと親し気な様子を見て取ったモーリーはチチを呼んでフォンをクビにするよう命じる。
驚くチチ。チチはフォンをいきつけのレストランに誘う。クビを言い渡されて涙ぐむフォンを励ましながら、彼女が俳優志望なのを思い出したチチはバーディのところに行ってみたらと助言する。そこにミンとリーレンがやって来た。チチはミンと出て行き、リーレンは残ってフォンの隣に座った。
夜、ミンとチチはミンの父親が経営する料理店で、一緒に食事をした。父の内縁の妻が、チチの仕事を紹介してくれたのだが、ミンはどうしてもその場になじめなかった。
帰りのタクシーの中で、ミンは新しい仕事がみつかったのだからモーリーの後始末に追われるような今の仕事は早く辞めるようにとチチに言い、ちょっとした口論になってしまう。
チチと別れたあと、ミンはリーレンと合流。彼はフォンといい雰囲気になっていた。ミンがフォンを家まで送ることになり、並んで歩いていると部屋に寄っていくよう誘われ、思わずうなずいてしまう。
しかし、彼女のマンションの前に誰かが立っていて、フォンはミンをひとりタクシーに押し込み立ち去らせる。
待っていたのはラリーだった。フォンがクビになったことを告げると彼は既にそれを知っていた。モーリーに聞いたのかとフォンが問うと、なぜだか彼は慌てだす。ラリーはモーリーにも気があり、ちょっかいを出しているのだ。
大陸に行っていたアキンが戻り、ラリーは彼と合流する。自分がモーリーを口説いたことがバレないよう、アキンにはモーリーとバーディの関係が怪しいと吹き込んだ。アキンの嫉妬心がめらめらと燃え上がる。
モーリーのやり方が気に食わないと辞表を突きつけたコピライターを説得していたチチは彼からその笑顔は作り物で感じのいいフリをしているだけだろうと辛辣な言葉を投げかけられてしまう。以前、モーリーの義兄の小説家を訪ねた時にも、笑顔は見せかけだと言われ、チチは傷ついていた。
その夜、チチとモーリーはモーリーの豪邸のプールサイドで語り合う。ふたりは友情を深めるが、翌日、ミンがモーリーを昼食に誘い、チチは新しい仕事が見つかったから、会社を辞めさせたいと話してしまう。
モーリーからそのことを聞かされたチチは、ミンを訪ねていくが、彼は非難されるのは心外だとばかりエレベーターの中でまくしたて、チチは黙ってエレベーターを降りると、タクシーを拾ってそのまま立ち去った。
ミンが職場に戻ると、リーレンが険しい顔をして歩いて来た。彼は例の業者に不正な計らいをしたという理由でクビになったのだ。あわてて上司のところに行くと、この出来事にはちょっとしたたくらみが働いているようだった。上司は「俺が育ててやる」と言い、ミンの肩を叩いた。
モーリーやチチたち大学の同級生たちを取り巻く人間関係は、様々な思惑や誤解を重ね、さらに複雑になっていく…。
映画『エドワード・ヤンの恋愛時代』感想
論語の一節が引用されたあと、「あれから約2000年後、台北はわずか20年ばかりの内に世界で最も富に満ちた都市となった」という字幕が入り、映画はスタートする。
エドワード・ヤンが『牯嶺街少年殺人事件』(1991)のあとに撮った『エドワード・ヤンの恋愛時代』(1994年/原題:独立時代)は、都市が急速に発展する中、グローバリズムと利益至上主義がはびこり、伝統的な価値観や社会の構造が揺らぎ始めた1990年代初頭の台北で暮らす人々を主人公にした群像劇だ。
財閥の実業家、カルチャービジネス会社の代表とその社員、作家、劇作家、公務員、コンサルタントといった職業についた若者たちは、これまでに経験したことのない新しい世界でいささか混乱しているようだ。
なにしろ彼らは四六時中、大騒ぎしており、しゃべりまくるは、怒鳴り合うは、ドタバタと追いかけっこをした挙句、殴り合いさえもする。何組かのカップルが存在するのだが、隙あれば誰かが誰かを射止めようと画策しているし、安泰なカップルは一組もなく、互いに複雑に絡み続ける。「恋愛時代」という日本語タイトルがつけられたのもおそらくこのあたりの様子を指してのことなのだろう。
交錯し合う男女の関係だけを見れば、ハリウッドのロマンチック・コメディーや、エリック・ロメール風の恋愛模様を思わせるが、彼らが大騒ぎしている原因はもう少し別のところにある。「情け」を重んじた社会の衰退と「見せかけ」がものを言う現代社会の中で、彼らはそれぞれ、アイデンティティの危機にあるのだ。
劇作家は実力以上の存在に祭り上げられていることを自覚していてプレッシャーで一杯だし、小説家は、かつて女子学生相手に恋愛ものを量産するベストセラー作家だった自分に嫌気がさしてその反動で誰も読まない作品をせっせと書いては行き詰っている。その妻は結婚アドバイザーのような仕事をテレビでこなしていて、夫と別居していることを隠したがっている。財閥の御曹司は親が決めた結婚相手に本当の愛を求め、フィアンセに会社を持たせているが、彼女はその仕事が実は嫌いで向いていないと告白している。彼女の親友は会社の良心として皆に好かれているが、その笑顔の裏に何かを隠し持っているのではないかと疑われて傷ついている。彼女の恋人も人の良い好人物に見えるがよかれと思ってしたことが全て裏目に出て友人も恋人も失いかけている。
そんな彼らの会話には「うわべだけ」、「みせかけ」「フリをしている」という言葉が飛び交う。それは1990年代の台北に限らず、現代の私たちにも心当たりのありすぎるものだろう。政治はいつからか「やっている感」だけに特化したイメージに成り下がり、愛情や友情という人間関係も真贋に振り回されることから逃れられない。
このように信じるものを見失い、見知らぬ社会で迷子になった人々を描く本作は、主要キャラだけでも10人以上登場するのだが、その混乱ぶりをエドワード・ヤンは驚くほど、スピーディーに明瞭にさばいていく。
人々が出会ったり、別れたりする重要な場所はいくつもあるが、とりわけ目立つのがエレベーターと、エレベーターホールだ。扉の開閉を映さなくてもチンという音だけで誰かの到着が判り、また、その箱に誰かを押し込むことで、強制的な別れにもなる。
人々の会話は主に車の後部座席や、レストランなどで繰り広げられるが、チチとミンはエレベーターの中でやり取りをする。その中には、カメラがチチの横顔だけをとらえ、怒鳴り散らすミンの声だけが響いているという印象的なシーンもある。それとは対照的な2人のエレベーターシーンが別の場面では用意されていて、本作でもっとも洒落たロマンチックな展開となるのだが、それは本作が「エレベーター」の映画であることの証明である。
エレベーターは出逢いと別れの空間であると共に高さを表すものだ。映画の序盤、モーリーは窓を背景にして座っており、窓の向こうには台北の高層ビルが見えている。それは少し霞んだもやっとした風景で、発展した台北の街を象徴するものには見えない。ただ、エレベーターが何度も何度も登場し、勿論、それらは、モーリーのオフィスだけでなく、劇作家のアトリエや市役所、病院のものだったりもするのだが、そのたびに高さを意識させられて、いつの間にか、頭の中に、台北の摩天楼の風景を浮かび上がらせる。
ミンが電話ボックスにいる姿を捉えた、夜のネオン輝く台北の街並みの素晴らしいショットや、車の後部座席に座る人物の背後に映し出される光景といい、台北の街自体が映画の主役の一つといえるが、例えばヤンの1985年の作品『台北ストーリー』に比べると、印象的な台北の景色は少ない。それはあえてグローバリゼーションの社会を表すためなのかもしれないし、また、本作が演劇的なアプローチを行っているせいかもしれない。観る者が勝手に摩天楼を想像してしまうのも、そうした演劇的な要素がなせるものなのかもしれない。
ちなみにヤンは『牯嶺街少年殺人事件』を撮ったあと舞台劇2本を演出している。どちらの作品にも本作でミンを演じたワン・ウエィミンとチチを演じたチェン・シャンチーが出演している。この2本の演劇が本作に大きな影響を及ぼしたことは間違いないだろう。
このように『エドワード・ヤンの恋愛時代』は現代を生きる人間の関係性をつぶさに観察した作品だが、そのスピーディーな展開は緻密で無駄がない。10人もの人々が織りなす喧騒のひと時が展開するわけだが、観終えてどっと疲れるというよりは、逆に清々しさが残り、都会的に洗練された様に少なからぬ興奮を覚える。
くせのある登場人物たちは憎めず愛着さえ湧いてくるだろう。何よりも少しも古びておらず、むしろ時代を先取りしたような実に輝かしい作品であることに数十年ぶりに再見した今、驚きを隠せずにいる。