市川崑監督の1960年の作品『ぼんち』は、『白い巨塔』や『華麗なる一族』で知られる山崎豊子の同名小説を原作に、大阪船場のぼんちという宿命を負った一人の青年の生きざまを描いた作品だ。四代続いた船場の足袋問屋の一人息子・喜久治を市川雷蔵が軽妙に演じている。
若尾文子、京マチ子、中村玉緒、山田五十鈴等、大映の看板女優が勢ぞろいし、他にも草笛光子、越路吹雪等が出演。喜久治の人生に関わる様々な女性たちとの関係を通して、明治から昭和初期にかけての大阪の商人文化や時代の変化が綴られる。
“ぼんち”とは、浪速言葉で若旦那の意味だが、器の大きいぼっちゃんという意味もあり、本作では「放蕩の限りを尽くしても帳尻が合った遊び方をする伊達男」という意味も込められているという。
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目次
映画『ぼんち』作品情報
1960年/カラー/105分/日本映画/配給:大映
監督:市川崑 原作:山崎豊子 脚本:和田夏十、市川崑 企画:辻久一 製作:永田雅 撮影:宮川一夫 美術:西岡善信 音楽:芥川也寸志 録音:大角正夫 照明:岡本健一 編集:西田重雄
出演:市川雷蔵、中村玉緒、若尾文子、草笛光子、越路吹雪、山田五十鈴、船越英二、京マチ子、中村鴈治郎、倉田マユミ、毛利菊枝、北林谷栄、菅井一郎、潮万太郎、毛利郁子、橘公子、浜村淳、嵐三右エ門、伊達三郎、上田寛、志摩靖彦
映画『ぼんち』概要
明治から昭和初期にかけての大阪を舞台に、四代続いた高級足袋問屋「河内屋」の跡取り息子・喜久治(市川雷蔵)の人生を描いた物語。喜久治は女系家族の商家の跡取りとして生まれ、絶大な権力を持つ母親と祖母に振り回されながらも、自由奔放に数々の女性と関係を結びながら生きて来た。
しかし、時代の変化や家業のしがらみ、女性たちとの関係が複雑に絡み合い、喜久治の人生には思わぬ試練が待ち受ける。伝統と近代化の狭間で揺れる商家の跡取りの姿を、市川崑監督ならではの美しい映像美とともに描いている。
映画『ぼんち』あらすじと解説
冒頭、矢継ぎ早に当時の近代建築のファサードなどが映し出される。そびえ立つ通天閣や映画館の手書き看板、道頓堀のグリコの看板等々。
狭い路地をバイクや自動車が行き交う。ドライバーにののしられ肩をすくめて歩く男は中村鴈治郎だ。彼は落語家で一軒の家を訪ね、仏さんを拝む。彼を贔屓にしてくれていた市川雷蔵扮する喜久治(以下、雷蔵と記す)の奥さんが亡くなったということなのだが、その場にいる二人の子どものどちらの母親でもないという。ここから雷蔵の告白が始まる。
雷蔵の裸の背中、ついで正面からのバストショット。おつきの女に着物を着せてもらっているシーンだ。彼は船場の老舗の足袋屋の若旦那だ。二人の女の足袋が重なるように廊下を進んで行くショットが続く。それはまるで双子のように息が合っている雷蔵の祖母(毛利菊枝)と母(山田五十鈴)の足である。二人は雷蔵の遊びが派手過ぎると説教をしにやってきたのだ。
嫁を取れという祖母。祖母は、「船場のしきたりと世間体」を信仰したモンスターのごとき存在である。実の娘(=雷蔵の母)を常に引き連れており、雷蔵に「血の通った親子なのに、まるで姑と嫁ごっこをしているような」なとど指摘され逆上したりする。自分が選んできた雷蔵の嫁(中村珠緒)をいびり倒し、しきたりに背いたからと産んだ子どもだけを取り上げ、離縁させる。その後は、あえて後妻はとろうとせず、芸姑に女の子を産ませひきとって養子とし、店を守るのや、と虎視眈々である。息苦しさしかない女系家族の世界で、雷蔵は芸者遊びをしながら飄々と生き抜いていく。
雷蔵の若々しく爽やかな容姿が清涼感を与えているせいか、女にだらしないながらも優しさに溢れた若旦那は実に魅力的だ。「いい“ぼんち”になるんでっせ。ただのぼんぼんで終わったらあきません」とおつきの女に言われて育った雷蔵は見事なぼんちに成長していく。
芸姑の若尾、競馬好きのホステス越路吹雪、そして、女将の京マチ子等が恋のお相手だ。若尾が雷蔵の家に挨拶に来るシーンは実に見ものだ。そつなくこなす若尾と粗相のない作法を褒める祖母。バチバチと火花が飛ぶ。一筋縄ではいかない強い女たちだ。
船場が空襲でやられた際は、焼け残った蔵に女が勢揃いして笑わせるが、疎開していた有馬から帰ってきた祖母は、川に落ちて死ぬ。船場が全てであった祖母にとって、船場がなくなったことはすなわち、生きる意味がないということであり、あっけなく他界してしまうのだ。
雷蔵は女たちに、持ち合わせの金を六等分して持って行かせる。目分量で積み重ねられた金を若尾が横から高さを念入りに吟味して取るシーンなどユーモラスなシーンが多いのもこの作品の特徴だ。映画は原作よりもコミカルで華やかな印象が強く、原作者の山崎豊子は当時、「小説とは別物と考えてほしい」と語ったそうだ。
それから一年ほどが経ち、河内の方の寺にやった女たちはどうしているかと訪れた雷蔵が見たものは昼間から風呂に浸かり、その裸身をもてあますように活力あふれた女たちの姿だった。湯気とともに、女たちのむせ返るような生命力が立ち込めている。雷蔵は彼女たちに会わずに帰る。誰も彼を恨まず、文句も言わなかったという。
彼に長い間、使えた下女は、彼の別の人生にも思いをはせ、中村鴈治郎に「旦那が好きだったのか」と問われて慌てて否定する。勿論、それは恋ではなかっただろう。身分が違い過ぎる。しかし、彼はそのように多くの人に愛されたのである。激動の日々とその後の半生について「腑抜けになったおかあはんと子どもたちを抱えてわしがどんなに苦労したことか」と語りながらもどこか飄々と軽やかな男。クランクイン前にはミスキャストだという声が多かったというが、これは市川雷蔵でしか表現できなかっただろう。日本の歴史の一つの時代の終わりを一人の男に託して描いた作品でもあり、スケールの大きな仕上がりに感心させられる。
撮影監督の宮川一夫は、市川崑と頻繁にタッグを組んだ名手で、「ぼんち」でもその真価を発揮している。市川崑のテンポ良いカット割りや独特の構図が、宮川のカメラワークと融合し、映画にモダンで洗練された雰囲気を与えている。