『タンジェリン』(2015)、『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2018)、『レッド・ロケット』(2021)などで知られるアメリカ・インディーズ界の鬼才ショーン・ベイカ―監督の最新作『ANORA アノーラ』は、ニューヨークのストリップクラブで働く若きダンサー、アノーラの等身大の生きざまをリアルかつエネルギッシュに描いた作品だ。
主演のマイキー・マディソンは、ロシア御曹司と衝動的に結婚するも、現実の壁に直面する「シンデレラガール」をパワフルかつ繊細に演じている。
本作は第77回カンヌ国際映画祭(2024)で最高賞であるパルムドールを受賞。さらに、第97回アカデミー賞(2025)では作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、編集賞の5冠に輝き、ショーン・ベイカー監督はアカデミー賞史上初となる単一作品で最多4つのオスカーを獲得するという快挙を成し遂げた。
『ANORA アノーラ』は、社会の周縁に生きる人々の物語を描き続けてきたベイカー監督の集大成とも言える作品であり、ひとりの女性が笑いと涙の狭間で揺れ動く人生劇場を鮮やかに描き出している。
目次
映画『ANORA/アノーラ』作品情報
2024年製作/139分/R18+/アメリカ映画/原題:Anora
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー 製作:アレックス・ココ、サマンサ・クァン、ショーン・ベイカー 製作総指揮:グレン・バスナー、ミラン・ポペルカ、アリソン・コーエン、クレイ・ペコリン、ケン・マイヤー 撮影:ドリュー・ダニエルズ 美術・スティーブン・フェルプス 衣装:ジョスリン・ピアース 音楽監修:マシュー・ヒアロン=スミス
出演:マイキー・マディソン、マーク・エイデルシュティン、ユーリー・ボリソフ、カレン・カラグリアン、バチェ・トプマシアン
映画『ANORA/アノーラ』あらすじ
23歳のアニー(本名アノーラ)は、ニューヨークでストリップダンサーとして働いている。キュートで明るい彼女は店の売れっ子だ。ある日、彼女はオーナーからロシア人が来店しているから相手をしてくれと頼まれる。
片言だがロシア語が話せるアノーラが、客のところに行くと、店では普段みかけないタイプの華奢な若い男性が座っていた。イヴァンと名乗るその男性は片言の英語で、アノーラも片言のロシア語で会話を交わした。イヴァンはアノーラのことを気に入り、アノーラに高額な報酬を支払い、専属の「契約彼女」として一週間過ごすことを提案する。
一万五千ドルで契約した二人はパーティーやショッピングなど贅沢な日々を送り、勢いでラスベガスまで出かけていく。
楽しい一週間が過ぎようとしていた時、イヴァンはロシアに帰らなければならないと語った。父の仕事を手伝う約束をしたのだという。でも結婚してアメリカ人になればロシアに帰らなくて良いのでは? イヴァンは、アノーラに結婚しようと持ちかける。
ふたりはラスベガスの24時間空いている教会で結婚式をあげ、夫婦となった。「私たち結婚したのよ!」とふたりは道行く人に声をかけ、喜びを爆発させる。
イヴァンのブルックリンの豪邸で暮らし、高価な最高級の指輪まで贈られ、幸せの絶頂にいるアノーラだったが、イヴァンの両親といっこうに会えないことが気になっていた。 お父さんたちは私のことをどう思っているの?と尋ねてもイヴァンは言葉を濁すばかり。
そんなある日、家のチャイムを鳴らす者がいた。週刊誌にイヴァンとアノーラの仲睦まじい姿が激写されて掲載されたことがロシアの両親の耳に入り、激怒した両親が、アメリカで暮らすお目付け役の部下たちに息子の様子を見に行くよう命じたのだ。
やって来たのはアルメニア人のガーニックと用心棒のイゴールという男だった。自分はもう大人なのだから干渉されたくないと怒りを爆発させていたイヴァンだったが、結婚証明書を見せてくれたらさっさと退散すると言われ、証明書をガーリックに手渡す。ガーリックは証明書を撮影し、スマホで送信。受け取ったのはイワンの名付け親であるトロスだった。彼はロシア系教会の司祭で、洗礼の儀式の真っ最中だったが、イヴァンの母親に結婚は事実だと伝えると、激怒した母親から今すぐ結婚を無効にするようにと命じられ、儀式を放り出して出かける羽目になる。
両親が明日、家までやってくると聞かされたイヴァンは、トロスが家に到着する前に、ひとり家から逃げ出し、アノーラは取り残されてしまう。自分も逃げようとするアノーラと彼女を捕まえておけと言われたイゴールがもみ合っているうちに、部屋の高級な置物の数々が粉々になって床に散らばった。さらにアノーラが暴れたせいでガーリクの鼻が折れ、イゴールが暴れるアノーラをなんとか抑えているところにトロスが到着した。
すったもんだの挙句、ようやくアノーラが静かになり、4人はイヴァンを探すため、車に乗り込んでニューヨーク中を回る羽目に。トロスたちは明日の朝一番に裁判所で結婚を無効にする手続きを取るために、一方、アノーラは、イヴァンとの変わらぬ愛を確かめるために、懸命に行方を追うが・・・。
映画『ANORA/アノーラ』感想と解説
(ラストに触れております。ご注意ください)
映画『ANORA/アノーラ』は、『チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密』(2012)、『タンジェリン』(2015)、『レッド・ロケット』(2021)といったショーン・ベイカー監督の過去作と同様に、セックスワーカーを主人公に据えた作品だ。社会の周縁に生きる人々の人生をエネルギッシュかつユーモラスに描くショーン・ベイカー監督の一貫したテーマは本作にも踏襲されている。
主人公のアノーラは、ストリップダンサー(希望があればエスコートガールの役目も果たす)として生計を立てている女性だ。ベイカー監督は、セックスワーカーを単なる悲劇の象徴やステレオタイプとして描くことを避け、一人の人間として描くことに重点を置いており、本作でもその視点が貫かれている。また、彼はセックスワークを「仕事であり、尊重されるべきもの」と位置づけているが、あるシーンでアノーラがボスに言い放つように、彼女たちには健康保険も労災保険も保証されておらず、彼女たちが極めて不安定な境遇にいる事実を可視化することも忘れていない。
本作は前半45分くらいまではまさにキラキラした「シンデレラストーリー」として展開する。ロシアの超金持ちの御曹司21歳のイヴァンの振る舞いは、まるで17歳くらいのティーンエイジャーのようでとても成人しているとは思えない。酒と薬のやり過ぎで常にラリっているようにも見える。
ただ、イヴァンは決してアノーラを見下さない。友人たちにも新しいガールフレンドだと紹介し、パーティーにアノーラと職場の友人が来ると、しっかり歓待し、影で彼女たちの悪口を言ったりすることもない。お金の関係として割り切っていたアノーラも彼といると心地よかったに違いない。冒頭、彼女の職場風景が、横移動で映し出されるが、彼女が相手をする男性はほとんどが年上で中には自分の父親くらいの年齢の客も居ることが示されている。イヴァンと彼の友人たちという同世代の人々と一緒にコニーアイランドを駆け抜け、海辺で騒ぐような体験はずっと大人の世界で生きて来たアノーラにとっては久しぶりの楽しいひと時だったのではないか。
ラスべガスで結婚式を挙げたあと、道行く人々に「私たち結婚したのよ!」と叫ばずにはいられない彼らの幸福は本物なのである。だが、結婚してめでたしめでたしで終わるおとぎ話とは違い、映画はその後のシンデレラの夢と現実のギャップを浮き彫りにする。
2人の結婚がロシアのイヴァンの両親の知るところとなり、両親がニューヨークにやって来ると知ったイヴァンはアノーラを見捨てて家を飛び出してしまう。イヴァンは所詮は親に頭のあがらない未熟な「ガキ」だったのだ。アノーラはイヴァンに事情を問いただしにやって来たニューヨーク在住のロシア国籍のアルメニア人の男3人と共に、ブルックリンのイヴァンの豪華な屋敷に取り残される。
ここでのシチュエーションはスラップスティックコメディのような可笑しさに溢れている。自らも出て行きイヴァンのあとを追おうと必死の抵抗を試みるアノーラに三人の男たちは戦々恐々となる。アノーラを演じるマイキー・マディソンのバイタリティ溢れるパワフルな姿が最高だ。
ベイカー監督は、キャラクターたちを単純な善悪の枠に押し込めない。イヴァンのお目付け役であるアルメニア人たちはアニーにとっては彼女の幸せを打ち砕きにやって来た人々だが、実は彼女と同じように社会の構造に縛られた存在=労働者であることが次第に明らかになって行く。ユーモラスでスラップスティックな展開の中にも資本主義社会における階級格差や労働搾取といった問題が組み込まれているのだ。
こうしてアノーラと3人の男たちは行動を共にし、イヴァンを探す珍道中を繰り広げることになる。以前、若者だけで駆け抜けたコニーアイランドをこの不釣り合いな四人が、等間隔で歩いて横切っていくショットに思わず笑ってしまうが、それは、そこはかとない悲しみも宿った泣き笑いの光景でもある。アノーラと彼女の周囲の人々が予測不能な展開の中でドタバタと奮闘する様子は、観客を引き込み、彼らに対する感情移入を促す。観客はアノーラの立場で観ているが、他の3人も決して「悪」ではない。
本作のタイトルにもなっている「アノーラ(Anora)」は、劇中、「光」という意味を持つと紹介されている。しかし、アノーラ自身はこの名前を拒み、「アニー(Annie)」というありふれた名前を選んでいる。彼女は「光」が自分にはふさわしくないと感じているのだろうか。あるいは幼い頃に不幸な体験をしたことを思い出すのだろうか(過去のことは劇中一切触れられないが)。自分の現実が理想とはかけ離れているという認識が、彼女の選択に影響を与えているとも考えられる。
ラスト近く、ブルックリンの屋敷の一面ガラス張りの二階からは、雪が激しく降っている様子が一望できる。非常に美しい光景だが、傷心のアノーラにとって厳寒のニューヨークはあまりにも辛すぎる。ラストは、観る人によってそれぞれの解釈を生むだろうが、これをハッピーエンドとは決して呼べないだろう。だが、これまで気丈に泣くことを我慢してきたアノーラが、堰を切るように泣き始め、その場に「AnnieよりもAnoraの方がいい」と発言していたイゴール(ユホ・クオスマネン監督『コンパートメント No.6』のリョーハ役のユーリー・ボリソフ!)がいることはやはり救いなのだと思う。
この二人が今後どういう関係になるかはまったくわからないし、おそらく付き合ったりする可能性はほとんどないのではないかと推測されるが、アノーラが密かに切望していたであろうお金の関係の先にある「温かさ」がそこには確かに存在していた。
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