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映画『Riceboy ライスボーイ』(アンソニー・シム監督)あらすじと解説/亡き父の視点と画面比率に隠された演出の意図とは!?

1990年代、カナダへ渡った韓国人シングルマザーのソヨンと息子ドンヒョン。人種差別やアイデンティティの葛藤に直面しながらも懸命に生きる二人の姿を描いた映画『Riceboy ライスボーイ』は、本作が二作目の長編監督作となるアンソニー・シムの半自伝的な作品だ。

 

本作で最も印象的なのは、浮遊するような独特のカメラワークと、物語の展開に合わせて変化する画面の横幅だ。なぜカメラは第三者のように母子を見守るのか? なぜ物語の舞台が韓国に移るとスクリーンは広がるのか?

 

本記事では、映画『Riceboy ライスボーイ』に隠された視覚的ギミックと、タイトルに込められた真意、そして日本の姥捨て山を想起させる「高麗葬」の逸話から紐解く母子の救済について詳しく解説する。

 

次:

 

映画『Riceboy ライスボーイ』作品基本情報

項目 内容
原題 Riceboy Sleeps
製作年 2022年(日本公開2025年)
監督・脚本・出演 アンソニー・シム(サイモン役でも出演)
出演 チェ・スンユン、イーサン・ファン、ドヒョン・ノエル・ファン
製作国 カナダ

 

映画『Riceboy ライスボーイ』あらすじ

(C)2022 Riceboy Sleeps Production Inc.

韓国の孤児院で育ち、成人後、都会に出て休みなしで働いていたソヨン(チェ・スンユン)は店に来ていた除隊したばかりという学生と恋に落ちる。

幸せな日々を過ごし男の子を産むが、そのころ恋人は心を病み出しており、入院先で自殺してしまう。

 

ソヨンは幼い息子ドンヒョン(幼少期はドヒョン・ノエル・ファン、青年期はイーサン・ファンが演じる)を抱えて生きていくためにカナダのバンクーバー郊外に移住せざるを得ず、工場で懸命に働きながらドンヒョンを養う。

 

小学一年生のドンヒョンは昼食にキンパを持ってきたことでクラスメイトにからかわれ、「ライスボーイ」というあだ名をつけられてしまう。

 

9年後、ドンヒョンは16歳になっていた。学校の授業で自身の家族のルーツを調べて発表するという課題を与えられるが・・・。

 

映画『Riceboy ライスボーイ』感想と評価

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「幽霊の視点」:亡き父という精神的なカメラワーク

1990年代のカナダを舞台に、韓国から移住したシングルマザーと、その幼い息子の異国で生きる不安と成長、アイデンティティの揺らぎ、そして彼らが自身のルーツを再発見する旅が描かれる映画『Riceboy ライスボーイ』は、韓国系カナダ人監督アンソニー・シムによる、極めて個人的かつ普遍的な力強さを持つ半自伝的作品だ。

 

当時の時間と場所を鮮明に表現するために16ミリフィルムが使われているが、映画を観てすぐ気づくのは、カメラが常に被写体の周囲を浮遊するように動き続け、時には物陰から覗き込むような挙動を見せることだ。

例えば、序盤、狭い廊下を進む幼いドンヒョンのあとをゆっくりと追いかけていたカメラがひょいと右手のソヨンの部屋をのぞき込むように動いたり、ソヨンがキムチを漬けている際、カメラはドギョンが台所に来て彼女の手伝いをしているのを静かに見守ったと思いきや、わざわざぐるりと回って、別の入口から台所に戻ったりするのだ。

 

ソヨンの視線になってドギョンを観るだとか、逆にドギョンの視線でソヨンを観るということはまったくなく、あたかもカメラ自体が意志を持った第三者であるかのように感じられる。まるで幽霊のような、と連想したところで気づいてしまった。これはドギョンの亡くなった父親の視点なのではないか。

 

実際、アンソニー・シム監督はこのカメラワークを「亡き父親の視点」だと断言している。*1

それが撮影監督のクリストファー・ルーと共にシム監督が選択した視覚的手法なのだ。

 

「亡き父親の視点」という設定は、観客を登場人物の極めて私的な空間へと誘い、観客もまた、まるで自分たちの家族を見守るような気持ちで、ソフィアたち母子の移民という存在の揺らぎと親子の情愛を見守ることを意味している。

 

さらに、ソフィアが病院で末期癌の宣告を受けるシーンなど、多くのシーンでカットを割らない長回しが採用されている。この印象的な病院のシーンでソフィアは医師が語る医学用語をよく聞き取れず、何度もゆっくり話してほしいと述べ、時にわからない単語を辞書で調べようとする。カットを割らないことで、観客はキャラクターと同じ時間、同じ空気を共にし、主人公たちの沈黙や心の揺らぎといった、言葉にならない複雑な感情の機微をダイレクトに受け取るのである。

 

窮屈さと解放:アスペクト比の変化

本作における視覚的なハイライトの一つは、物語の舞台がカナダから韓国へと移行する際、アスペクト比(画面の縦横比)が変化することだ。

カナダでの生活は、ほぼ正方形に近い比率、1.33:1 (4:3)で描かれ、登場人物が抱える内面的な閉塞感とその後の解放を、視覚的に鮮やかに表現している。

カナダは物理的には広大な土地だが、移民として生きるソヨンとドンヒョンにとって、その社会は狭く、実際、画面には自宅と学校と工場という限定的な場所しか登場しない(ドンヒョンが成長するにつれて、彼の行動範囲は広がりをみせるが、母親の方はほとんど変わらない)。

1.33:1 (4:3)というアスペクト比では画面の左右が削られてしまうのだが、それによって生み出されたこじんまりとした距離感は、家族二人の密接な絆を強調する一方、外部の世界から遮断された危うさも示唆している。

 

一方、母と息子が韓国の田舎町にやって来ると、アスペクト比は1.78:1(16:9)へと拡大する。

山々や田園風景が横長に広がるこの変化は、母子、とりわけ、ソヨンの、故郷に戻ったことで感じる安堵と「ようやく深く息を吸うことができた」という解放感を如実に表しているといえよう。

 

とはいえ、これまでドンヒョンにはかたくなに口を閉ざして来た彼らのルーツを辿り、亡き夫の家族と再会するという旅は、決してお気楽なものではない。かつてどのようなことが彼女たちの間で起こったかは言及されないが、おおよその検討はつくだろう。

そのようなわだかまりを抱えながらも、これまでほとんど断絶していた「家族」が再会できたこと、共に食事ができたこと、おいしい米を食したこと、それぞれがいつもよりも開かれた広い気持ちを持てたことが、横長に広がったスクリーンに淡々とながらも和やかに刻まれ(老母だけは最後まで意地を張り続けるのだが)、静かな感動を呼ぶ。

 

亡き父の弟がソヨンとドンギョンを農業用のトラックに乗せて、夫の実家を去る時、カメラは小さくなっていく老父を捉え続ける。これは一見、荷台に乗っているソヨンとドンギョンの視線のように感じられるが、おそらくこの荷台に一緒に乗っている「亡き父の視線」でもあったのだろう。

 

韓国でのシーンでは、カメラワークはカナダでの生活時のように主人公たちの周りで揺れ動いていたものとは若干違い、固定されたロングショットが登場する。それこそまさに、自身の故郷を訪ねてくれた妻、息子に向ける「亡き父」の真っすぐな視線なのだ。

 

古い民話の「反転」と救済

最後に母と息子は「亡き父」の墓を目指して二人で山を登って行く。ソヨンの体調が悪くなり、ドンギョンは一端戻ろうとするが、ソヨンはこのまま帰るわけにはいかないと言い、ドンギョンがソヨンを背負って頂上を目指すことになる。その姿は、ソヨンにプロポーズをした韓国系カナダ人のサイモン(アンソニー・シム監督が演じている)にソヨンが語った「高麗葬」の逸話を思い出させる。

 

「高麗葬」の逸話は、本作のテーマである「親子の情」と「移民としての自己犠牲」を象徴する極めて重要なメタファーだ。

ソヨンが語る逸話の中で、自分が捨てられると知りながら息子が迷わないよう道に松葉を落とす母親の姿は、ソヨン自身の生き方そのものを投影している。彼女はシングルマザーの移民として、カナダという馴染みのない環境で差別や経済的困難に直面しながらも、ひたすら息子のドンヒョンのために働き続けて来た。息子がより良い未来を手に入れられるよう、自らの身を削って準備を整える姿が、この古い民話と重なり合う。

 

ソヨンをドンヒョンが背負って韓国の山を登るシーンは、視覚的にこの「高麗葬」を再現しているのだが、その意味は美しく「反転」されている。

息子が母を背負って歩く姿は「悲劇的な遺棄」ではなく「愛による継承と再生」へと昇華される。ドンヒョンが母を背負って山道を歩く姿は、母が落とした「松葉(愛と教え)」を彼がしっかりと受け取り、今度は彼が母を導く存在になったことを示しているのだ。

 

「Riceboyライスボーイ」というタイトルが意味するもの

ドンヒョンがカナダの学校に始めて登校した日、彼はキンパが詰められたお弁当をクラスメイトから「臭い」とからかわれる。こうした出来事は多くの移民が経験する典型的なトラウマで、まだ幼い子供にとっては耐え難いことだろう。ここでのカメラは、からかうクラスメイトたちと、一人俯くドンヒョンの間を、まるで「亡き父」が助けを求めてさまようかのように不安定に動く。その後、母からお弁当で何が食べたいと問われたドンヒョンは「韓国料理以外のものを」とリクエストし、以降、お弁当はサンドイッチになる。

 

しかし、よほど初日のインパクトが強かったのか、ドンヒョンを「ライスボーイ」と呼ぶ子供がいて、ドンヒョンにとってコメは屈辱的なものになってしまう。

 

だが、終盤、自身のルーツである「亡き父」が育った田舎町を訪ね、広々とした稲田を眺め、おいしいご飯をご馳走になることで、コメは「恥ずべきもの」から「自分たちを育む聖なるもの」へと反転する。

映画のタイトルとしての「Riceboyライスボーイ」には、移民の苦しみと、自身のルーツの誇りという二つの意味が含まれているのだ。

 

結論:見守り続ける「愛」の形

映画『Riceboyライスボーイ』は、アンソニー・シム監督が自身の魂を削り出すようにして作り上げた、極めて個人的でありながら、あらゆる人々の心を捉えて放さない感動作だ。16ミリフィルムの粒子に刻まれた、常に動き続ける「亡き父の視点」は、私たちが物理的に誰かを失ったとしても、その愛と眼差しが常に私たちを見守り、導いているという希望を表している。

 

本作の映像技術は、技術的な卓越性を誇示するためのものではなく、言葉で言い尽くせない移民の孤独、親子の葛藤と絆、そして「自分が何者であるか」という問いに対する、映画的な回答だ。

観客は、この「幽霊のようなカメラ」を通じて、ソヨンとドンヒョンの過酷な道のりを共に歩み、最終的には自分自身のルーツや、愛する人々との繋がりを再発見することになるだろう。本作が提供するカタルシスは、映画館を出た後も、フィルムの粒子のように私たちの心の中に残り続ける。

 

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