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映画『レベッカ』(1940/ヒッチコック)「不在」という名の支配――Rの呪縛と心理的サスペンスの原点

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映画『レベッカ』は2026年3月31日(火)にNHKBSプレミアムシネマにて放映(午後1:00~午後3:11)

 

サスペンスの巨匠、アルフレッド・ヒッチコック。彼がイギリスからアメリカへ渡り、最初に手掛けた映画『レベッカ』(1940)は、私たちが知る「ヒッチコック・タッチ」とは一味違う、重厚なゴシック・ロマンの香りを纏っている。

 

ダフネ・デュ・モーリアの傑作小説を原作に、名もなき後妻が直面する、目に見えない前妻の影。

今回は、当時の批評家たちの言葉を借りながら、本作が映画史に刻んだ「不在の恐怖」とその演出の妙を紐解いてみたい(※後半にはネタバレを含みます)。

 

目次

 

映画『レベッカ』作品基本情報

項目 内容
原題 Rebecca
製作年 1940年
製作国 アメリカ合衆国
監督 アルフレッド・ヒッチコック
製作 デヴィッド・O・セルズニック
出演 ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・フォンテイン、ジュディス・アンダーソン
原作 ダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』
上映時間 130分
受賞歴 第13回アカデミー賞 作品賞、撮影賞(白黒部門)受賞

 

映画『レベッカ』あらすじ

(C)1940 Selznic Internationl Pictures,Inc

モンテカルロで出会った英国貴族のマキシムと電撃結婚した、若く純朴な「私」。

彼女はマキシムの邸宅「マンダレー」へと足を踏み入れるが、そこには亡き前妻レベッカの影が色濃く漂っていた。

 

家政婦頭のダンヴァース夫人は事あるごとに「私」を冷遇し、完璧だったレベッカの思い出を突きつける。次第にレベッカの幻影に追い詰められ、夫の愛すら疑い始める「私」。

 

しかし、ある嵐の夜、海岸に一隻の沈没船が発見されたことで、レベッカの死に隠された驚愕の真実が明らかになる。

 

☟アルフレッド・ヒッチコックの他作品のレビューはこちら

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映画『レベッカ』感想と評価:永遠の不在、変奏されるヒッチコック・タッチ

ラストに言及しています。ご注意ください

 

アルフレッド・ヒッチコックの「レベッカ」を鑑賞して抱いたのは、私たちが「ヒッチコック・タッチ」として一般的に認識している作風とは、いささか手触りが異なるのではないかという奇妙な違和感だった。

 

この感覚の正体を探るべく、植草甚一のスクラップブック『ヒッチコック万歳!』(晶文社)を紐解くと、そこにはまさに本作がロードショー公開された当時の、鋭い洞察に満ちた批評が記されていた。

 

植草は、本作が広範囲な観客層を掴むという明確な目的をもって製作された点に触れ、大衆性を意識し、とりわけアメリカの観客層を標的としたために、従来と比してヒッチコック・タッチを希薄にせざるをえなかったのだと分析する。

「レベッカ」はヒッチコックがイギリスから渡米して初めて撮った作品であり、当時のアメリカの一般観客は、まだ彼の映画の真髄を知らなかった。彼独自のサスペンスの構築法や、ショックによる強烈な働きかけに馴染んでいない観客に対し、ヒッチコックはあえてその「アルコール純度」を薄め、アメリカ人の口に合うように調合したのだ。

 

植草はさらに、本来のタッチと比べて物足りない箇所を具体的に指摘していくが、それは決して本作の価値を貶めるものではない。

 

当時のアメリカ人に受容されただけでなく、『レベッカ』が現在でも世界中で確固とした人気を誇っている事実は、本作の持つ普遍的な魅力を物語っている。

玉の輿という夢想、悲壮感を漂わせる美貌の夫、純朴な若妻、そして謎めいた屋敷と威圧的な使用人。これらの要素はメロドラマとしての強度を保証しており、最後まで画面に姿を現さない「レベッカ」という死者の存在感、彼女を象徴する「R」の刺繍のインパクトは、物語の焦点を見事に形作っている。

 

特に、ジョーン・フォンテイン扮する若き後妻が、姿なき前妻の亡霊に追い詰められていく心理描写は、本作の白眉といえる。

彼女は、広大なマンダレーの屋敷のどこへ行っても「レベッカ」の痕跡に突き当たる。執拗に遺された「R」の文字、前妻の趣味が完璧に守られた調度品。名前すら与えられない「私」は、夫マキシムの愛を信じきれず、完璧な女性であったとされるレベッカと比較し、自らを卑下していく。

この自己喪失に近い劣等感こそが、彼女を狂気的な強迫観念へと突き動かす。スクリーンに一度も映し出されない人物が、誰よりも雄弁に主役を食い、生きている人間を支配するという倒錯した構造は、ダフネ・デュ・モーリアの原作がいかに優れていたかという証左でもあろう。

ヒッチコックがその物語を必要以上に自らのタッチで上書きせず、心理的な浸食をじっくり描こうとしたことは、結果として正解であったと言える。

 

フランソワ・トリュフォーは名著「映画術」(晶文社)の中で、ハリウッド第一作として本作を撮ったことは、ヒッチコックにとって新しいジャンルへの挑戦であり、大きな刺激になったのではないかと説いている。

人物間の葛藤から成る心理ドラマにサスペンスの要素を意識的に持ち込んだこの実験は、その後の彼の作品において、ドラマをより豊かに盛り上げるための効果的な手法として昇華されていく。

トリュフォーが本作のシナリオについて「へまをやってばかりいる女の子の話」と表現し、ヒッチコックが楽しみながら執筆したのではないかと推察している点も、非常に興味深く、また微笑ましい。

 

映像表現に目を向ければ、そこにはやはり非凡な才が横たわっている。

冒頭、霧や朝靄、砂埃が煙のように燻る風景の中、カメラが鉄門を抜けて進み、マンダレーの屋敷が聳え立つシーンは、重厚なゴシック・ロマンの趣を完璧に体現している。

ダンヴァース夫人を演じるジュディス・アンダーソンが微動だにせず待ち構え、そこへジョーン・フォンテインが近づいていく様をカメラが並走するショットは、二人の力関係を峻烈に描き出していた。

 

そして結末、妻の身を案じて車を走らせるローレンス・オリヴィエの視界に、炎に包まれるマンダレーが飛び込んでくるカットも圧巻である。冒頭に立ち込めていたあの煙は、この破滅的な火災をあらかじめ予感させる、運命の伏線であったのだ。

 

ダフネ・デュ・モーリアによる原作本はこちら

 

 

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