三宅唱監督がシム・ウンギョンの迷える心の旅をユーモラスに描く『旅と日々』。そのコメディ的魅力について解説!
つげ義春の短編「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を原作に、『夜明けのすべて』、『ケイコ 目を澄ませて』の三宅唱監督が独自の軽やかさで紡いだ映画『旅と日々』。
主人公の脚本家・李を演じるのはシム・ウンギョン。脚本を担当した作品の上映後の質疑応答で「才能がない」と漏らしてしまった彼女は、迷いを抱えたまま雪の町へと旅に出る。そこで出会うのが、堤真一演じる宿の主人・べん蔵だ。厳しくも美しい雪景色の中、最初はぎこちなかった二人だが妙に馬が合い、ふとした小さな冒険が、李の心を静かにほぐしていく。
映画のあらすじ、キャスト情報、そして本作が放つ独特の可笑しみと温度感を詳しく紹介。
原作「海辺の叙景」収録本はこちら
目次:
映画『旅と日々』作品基本情報

映画タイトル:旅と日々
英題:Two Seasons, Two Strangers
製作年:2025年
監督・脚本:三宅唱
原作:つげ義春「海辺の叙景」、「ほんやら洞のべんさん」
撮影:月永雄太
編集:大川景子
音楽:Hi'Spec
上映時間:89分
出演:シム・ウンギョン、河合優実、高田万作、斎藤陽一郎、佐野史郎、堤真一
映画祭・賞:第78回ロカルノ国際映画祭インターナショナルコンペティション部門金豹賞受賞
映画『旅と日々』あらすじ

脚本家の李(シム・ウンギョン)は、自身が脚本を担当した映画の上映後、質疑応答の場で衝動的に「自分には才能がない」と口にしてしまう。
迷いを抱えたまま雪国へ旅に出た彼女は、宿を予約していなかったせいであちこちで宿泊を断られ途方に暮れる。あるホテルの紹介で、日が沈む前になんとかべん蔵(堤真一)が営む宿にたどり着くが、そこは思った以上に古びており、李以外の客は誰もいなかった。
最初はぎこちなかった二人だったが、共に過ごす内に李の心に徐々に変化がもたらされる。
静けさの中に潜むユーモアと、人が自分自身を見つめ直す瞬間が優しく描き出されていく珠玉の一編。
原作「ほんらや洞のべんさん」収録本はこちら
映画『旅と日々』感想と評価
湿度たっぷりの濃密な世界が展開する河合優実・高田万作出演の映画内映画

『旅と日々』は、正方形に近い1:1.37のスタンダードサイズを採用しているが、冒頭、そこに映し出されるのは、枠内にぎゅうぎゅうに詰め込まれたような東京の街並みだ。そこに余白といえるものはひとつもなく、コラージュでできたアート作品のようにも見えるくらいだ。
これ自体に特に意味などないのだろうけれど、私にはそれが「言葉」を綴ることで頭がいっぱいになっている李(シム・ウンギョン)の脳内のようにも感じた。
彼女がつげ義春の『海辺の叙景』を原作に数年前に脚本を書いた映画は、映画内映画として画面に登場し、驚くほど質感のある、湿度たっぷりの濃密な世界を見せてくれる。
海の青色と生い茂る草木の強烈な緑色が鮮やかに煌めき、風の通り道に紛れ込んだ渚(河合優実)を強風と轟音が出迎える。優実は親戚を訪ねてやって来たという夏生(高田万作)と人里離れた入江で出会い、しばらく時間を共にした二人は次の日、大雨にも拘わらず約束通り再び入江で合流し、嵐のような海で泳ぎ始める。カメラは荒れ狂う波の中で二人と共に揺れ動き、やがて画面には死の気配が漂い始める。
すぐに私たちはこの作品が大学の大教室で上映されていたことを知ることになる。スクリーンがしまわれ、質疑応答へと移り、ゲストとして監督と共に登壇した李は、脚本家志望だという学生から初見時の印象を聞かれて言葉に詰まり、「自分は才能がないと思いました」と回答する。
何かもっと他の言葉で表現したいことがあったのにうまく言葉が出てこなかった結果、この発言が生まれたのか(日本語が堪能とはいえ韓国から来た彼女にとっては異国の言葉である)、圧倒的な映像と音響に対して、自身の脚本の弱さを感じたのか、いずれにしても、彼女は少し行き詰まっているようだ。魚沼教授(佐野史郎)との会話で、彼女が少し前に健康を損ねていたこともわかる。
そのあとのモノローグでは、「日常とは、身の回りの物事や感情に名前をつけることだ。初めて日本に来た時は、すべてが謎と恐怖に満ちていた。だが新鮮だった物事や感情は、今では言葉に追いつかれてしまった。私は今、言葉の檻の中にいる」といったことが語られている。
コメディエンヌとしてのシム・ウンギョン

そこで彼女は旅に出ることにする。それは言葉の檻から出て、言葉から解放される旅となるのだろう、と誰もが考えるところだが、三宅唱監督はいきなり「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という有名な一節=「言葉」を私たちに思い出させるショットを用意していて意表をつく。このように、つげ義春の「ほんやら洞のべんさん」を原作とした映画の後半部には、ウィットに富んだユーモラスなシーンがそこかしこに散りばめられている。
李が、老夫婦が経営している食堂でうどんをすすっているときに眼鏡が曇る画のそこはかとない可笑しみをはじめ、強風に帽子を飛ばされて、慌てて拾いに走る李のあたふたした素早いコミカルな動きが笑いを誘う。シム・ウンギョンのコメディエンヌ的魅力を三宅監督が目いっぱい引き出している。
李が突き出た土手から川を見下ろしているのを引きの画で撮っているシーンでは、川に数羽の鴨がいるのが見え、土手にいる黒ずくめの服装をした李のコートが風になびいている。ただ立っているだけのこのシーンですら、どこかユーモラスだ。
この光景を見た時、彼女が黒ずくめであることと鴨がいたこともあってか、唐突に彼女が「からす」のように見えたのだが、次第にその佇まいが私にはチャップリンのように見えるようになっていった。彼女が身に着けたロングコートが大きめの燕尾服に見えたのもある。
何を突拍子もないことをとお叱りを受けそうだが、これがあながちまったくの間違いではないのだ。
キネマ旬報のインタビューで三宅監督は、シム・ウンギョンをキャスティングしたことについて次のように発言している。
ウンギョンさんを見ながら、バスター・キートンの映画を見ているときの感覚が蘇ったんです。キートンの全力疾走アクションではなく、彼の作品に必ずある、所在なさげな表情でちょこんと座っている姿。その印象をウンギョンさんが喜ぶかどうか分からないけど(笑)、でキートン的な純粋な美しさを感じていました。
そうなのだ、チャップリンではなくキートンだったが、観るだけで微笑みが零れてしまうような喜劇王の雰囲気をシム・ウンギョンが纏っていることは確かなのだ。
李がひとりで雪景色を進んで行く際、三宅監督は、バスター・キートンの「無声映画」を展開させているのである。これほどの言葉からの脱出はないだろう。
新しい視点の獲得

予約をせずに現地にやって来た李は、宿泊所を見つけることが出来ず、日が落ちたころ、なんとかホテルに紹介してもらった山の向こうの宿舎に到着する。ここからは、地図にも載っていない古びた宿の主人べん蔵(堤真一)との絶妙なやり取りが展開する。最初は思いもよらなかった宿の雰囲気(何しろ、同じ部屋で弁蔵が爆睡しているのだ)に戸惑うが、二人はなんとなく馬が合うようで、べん蔵ととりとめのない会話を交わすうちに次第に李は本来の明るい性格を取り戻していく。
シーンの合間には三宅の前作『夜明けのすべて』に続き撮影を担当した月永雄太による様々な雪景色をとらえたショットが挟まれる。『夜明けのすべて』では、心を打つ物語に息継ぎの猶予を与えるかのようにいくつかの街の風景が映し出され、人間が暮らす街の温かさを伝えていたが、ここでは一切の言葉を失うような静謐なショットが続く。
さらに月永は、夜遅く雪の中を行くべん蔵と、彼の奇行に付き合わされて10メートルほど遅れて必死についていく李の姿をかなりの引きの画で撮っている。
べん蔵は李から隣の池で錦鯉の養殖でもやればいいのにと言われ、突然、夜の九時前に李を連れて隣町に出かけ、立派な一軒家に忍び込む。カメラは家の中に移動し、窓辺でくつろぐ猫が庭をそろそろと進んで行く二人の姿を目撃しているという実に愉快なショットをはさみ、この冒険をコミカルに見せて行く。
結局、目的は意外なことで果たせず、力を落とすべん蔵だったが、李にとってこの”冒険“は得難い体験となり、彼女を苦悩から解放していく。
宿に帰って饒舌になる李に対して「おめぇはべらべらとよくしゃべるのう」とべん蔵はつぶやくのだが、この際、李は「雪の中を歩いていく私たちを遠くから撮るとどんなふうに見えるんでしょうね」と口にする。
それはまさに私たちが先ほど見たばかりの光景でもあるのだが、李は自分自身を俯瞰するという新しい視点を獲得すると共に、そうした観点が創作の源になるという知見を得るのだ。
彼女がその境地に達する手助けをしたものに魚沼の双子の弟(佐野史郎二役)がくれたカメラがあげられるだろう。魚沼が急逝し、『海辺の叙景』の監督と共に弔問に訪れた際、彼女は魚沼のコレクションのカメラのひとつを受け取るのだが、最初、彼女は「いいです」といって、その行為を断っている。それは遠慮しているというよりは、全くカメラというものに関心がなく、必要性を感じていなかったからだ。結局、形見分けとして受け取った彼女は、ペンをカメラに持ち替えて風景を切り取り始める。後に李がカメラを「犯行現場」に落としたせいで、パトカーの訪問を受けることになってしまうのだが、カメラがそのためだけの小道具だったわけではないのは明白だ。
それはまた、この作品の「夏」編と「冬」編の間に挟まれる弔問シーンが、ただの二つの章の「つなぎ」ではなく、必然のものであったことを意味しているだろう。
脚本を書くには「物語がないと始まらない」とべん蔵に語っていた李。だが映画は時として、こんなショットを撮りたいというところから動き出すものでもある。旅に目的がなくてもいいように、物語がないところから脚本を始めてもいい。この風景を離れた場所から撮ったらどんなふうになるかというある意味カメラマンと同じような視点で脚本を作っていってもいい。とにかく、もっと自由でいい。
『旅と日々』という作品は、「ことば」を仕事にし、言葉にがんじがらめになった脚本家が、創作に対して自らが作ったしばりから解放され、映画に対する広い見地を獲得していく話だと言えるのではないか。そして本作は三宅唱監督のある種の「映画論」とも言えるのではないか。
ラスト、宿をあとにして、深く積もった雪の中を歩いていく李。足を動かすたびに膝まで埋もれるような不自由さの中、彼女はまるでおどけて踊っているかのように見える。その姿はまさにチャップリンのようではないか。コメディエンヌとしてのシム・ウンギョンの本領が発揮された心和むシーンで映画は終わる。
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