ゴア・ヴィダルのテレビドラマを基にレスリー・スティーブンスが脚本を担当し、アーサー・ペンが監督、ポール・ニューマンが実在のアウトロー、ビリー・ザ・キッドを演じた西部劇。テレビ界から映画界に転身したアーサー・ペンの長編映画監督デビュー作であり、ポール・ニューマンの西部劇デビュー作でもある
ニューマンは当時、33歳だったが、実際の年齢よりかなり若く見える。『左きゝの拳銃』が製作された1958年は、他にも『熱いトタン部屋の猫』、『長く熱い夜』、『ポール・ニューマンの 女房万歳!』の3本に出演し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでスター街道を駆けあがっていた頃だ。
『左きゝの拳銃』は従来の西部劇フアンには当初不評で、アメリカでは酷評されたが、国外では評価され、とりわけ、フランスでは激賞された。後のマカロニ・ウエスタンなど西部劇の新たな道を開いた作品として今では再評価されている。
ちなみに実際のビリー・ザ・キッドは右利きなのだが、唯一残っている写真が反転していて長い間左利きだと思われていたという。
映画『左きゝの拳銃』は、2025年6月13日(金) 午後1:00〜午後2:44 NHK BSプレミアムにて放映
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映画『左きゝの拳銃』作品情報
監督:アーサー・ペン 脚本:レスリー・スティーブンス 原作:ゴア・ビダル 製作:フレッド・コー 撮影:J・ペパレル・マーレイ 音楽:アレクサンダー・カレッジ 編集:フォーマー・ブラングステッド
出演:ポール・ニューマン、リタ・ミラン、ジョン・デナー、ハード・ハットフィールド、ジェームズ・コンドン、ジェームズ・ベスト、コリン・キース=ジョンストン、ボブ・アンダーソン
映画『左きゝの拳銃』あらすじ
1880年代のニューメキシコ。西部開拓時代のアメリカ。砂漠をよろめきながら、今にも倒れそうな姿で歩む一人の若い男がいた。通りがかった商人のタンストール老人一行は彼を救い、水を飲ませてやる。馬が死んでしまい、ここまで歩いて来たらしい。
タンストール老人は弱り切った若者を哀れに思い、すぐに仲間として雇うことにした。若者の暗い過去の噂を聞いたベテランの部下たちは内心、不安になるが、老人は新しい部下を信頼し、読み書きができないこの若者に読み書きを教え始める。
若者はウィリアム・ボニーという名だったが、すぐにビリーと呼ばれるようになった。
リンカーンの町では保安官のブラディ、副保安官ムーン、タンストールとライバルの家畜商ヒル・モートン等が結託して、一行を町に入れないために、タンストール老人を殺す計画を立てていた。そうとは知らない老人が峠を越えようとしたとき、彼は無残に暗殺されてしまう。
逃げる一団を目撃したビリーは激怒し、法を犯したくないと気乗りしないチャーリーとトムを説得して、復讐をしに町に出かける。保安官ブラディを撃ち殺したビリーは、すぐにこのことを報告しに戻るが、副保安官ムーンはすぐに町の人々ともに一行の元に押し寄せ、銃撃戦ののち、家に火をつけ、ビリーは全身に火傷を負う。ビリーはメキシコの知人の元に身を寄せ、治療に専念、やがて、チャーリーとトムが合流する。
そんな折、リンカーンの新知事による恩赦が出て、ビリーたちは無罪放免になる。つかの間の平和がやってくるが、ビリーの復讐心は消えてはいなかった。彼らは再びリンカーンの町に乗りこみ副保安官ムーンを撃ち殺した。
保安官殺しによって3人はお尋ね者となるが、ビリーはまだあと一人残っていると息巻く。最後に残ったヒルは、腕のたつパット・ギャレットに保安官になってくれるよう頼むが、結婚式を控えていたギャレットは辞退する。
ギャレットはこの町では絶対騒ぎを起こすなとビリーに忠告するが・・・。
映画『左きゝの拳銃』感想と解説
ポール・ニューマン扮するビリーは、西部劇の主人公というよりは、1950年代に流行したいわゆる「不良映画」に登場する反抗的で複雑な若者像に近い。
冒頭、ビリーは乗っていた馬に死なれ、脱水症状で西部を彷徨っていたところを牛飼いの一行に助けられる。後に札付きのガンマンになる男には見えない哀れな姿で登場してくるわけだが、彼はすぐにリーダーであるタンストール老人を慕うようになる。
彼は子供のころに父を失くしており、11歳の時に母に狼藉を働いた男を射殺していた。幼くしてアウトローとなってしまった彼が、親切でおおらかな老人に父親のような温かさを感じたのも無理はない。もし、老人がリンカーンの保安官たちに殺害されることがなければ、ビリーの人生も変わっていただろうか。
ビリーは殺害を企てた男たちを追うことを決意し、相棒のチャーリーとトムを説き伏せて、共に復讐の道を突き進む。チャリーとトムは当初、法を犯すことに懐疑的で申し出を拒否しているのだが、ビリーに押し切られてしまう。このように、ビリーの衝動的で執着心の強い性格は、常に周りの人々を巻き込み、不幸をもたらすのだ。
それでも眉毛ひとつ動かさず、復讐に燃えるビリーの姿は、魅力的な無法者というよりはアンチヒーローそのものである。優しく手を差し伸べる者に恩をあだで返すようなことばかり行い、大目に見てくれていたパット・ギャレットさえも最後は敵に回してしまう。ポール・ニューマンは多くの場合、クールな表情をしているが、ところどころ満面の笑みを浮かべるシーンがあり、無邪気とは言えないその笑顔ゆえに、なんともとらえどころのない複雑なヒーロー像を作り上げている。
古き良き西部劇のヒーローとは真逆の主人公が、公開当時、アメリカで受け入れられなかったことは容易に想像できる。アーサー・ペンは、あえて脱西部劇的な作品を試みたのだ。この作品は、後の、マカロニ・ウエスタンや、アメリカン・ニュー・シネマに少なからぬ影響を与えることとなる。無慈悲で無軌道のアウトローという点でもアーサー・ペンの『俺たちに明日はない』(1968)につながるものを感じさせる。
タンストール老人が殺されず、親代わりとして存在してくれていたら、ビリーはまっとうな人生を歩めたのだろうかという疑問について、もう少し考察してみよう。
おそらくビリーは、タンストール老人が殺されたことで、自分自身がまっとうな人生を歩めるという幻想を捨てたのだろう。彼の無軌道な行動は、復讐して終わるというものではなく、自己破壊に向かっていく。
そのためにキャット・バレットが新しい父親代わりとなってくれる可能性があったことに彼は気づかなかった。父と成り得たかもしれない男に彼は撃ち殺されてしまうのだ。ビリーを殺したのち、バレットは彼はまだ子供ではないか、なんということか、と嘆いて去って行く。彼は治安を守る保安官として行動したわけだが、それでも、ビリーは父になってくれたかもしれない人に自身を殺させてしまったのである。
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