映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』は、大学のキャンパスを舞台に、孤独を抱えながらも偶然の出会いを通じて心を通わせる若者たちの姿を描いた青春映画だ。
主人公・小西徹と桜田花の関係性を軸に、現代の若者が直面する孤独感や、他者との繋がりにおける不器用さなどが繊細に描かれている。巧みな映像表現、効果的な小道具の使用、そして役者たちの演技力が融合し、観客は彼らの心の揺れに深く共感するだろう。
原作は、お笑いコンビ「ジャルジャル」の福徳秀介が2020年に発表した同名小説。『勝手にふるえてろ』(2017)、『私をくいとめて』(2020)の大九明子監督が脚本も務め、映画化した。
主人公の小西徹を演じるのは、『世界征服やめた』(2025)、『朽ちないサクラ』(2024)などで知られる萩原利久。『少女は卒業しない』(2023)、『ナミビアの砂漠』(2024)の河合優実がヒロインの桜田花に扮し、伊東蒼、古田新太、松本穂香、黒崎煌代、安齋肇、浅香航大等が共演。
目次
映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』作品情報
2024年製作/127分/日本映画
監督・脚本:大九明子 原作:福徳秀介 製作:藤原寛、吉澤啓介、永山雅也、古賀俊輔、松本光司 プロデューサー:中村直史、古賀俊輔 プロデューサー:中澤晋弥、黒田優太、松浦ちひろ 共同プロデューサー:馬場省吾、長坂淳子 撮影:中村夏葉 照明:常谷良男 録音:小宮元 美術:橋本泰至 装飾:貴志樹 衣装:宮本茉莉 ヘアメイク:遠山穂波 VFXスーパーバイザー:田中貴志 音響効果:渋谷圭介 編集:米田博之 音楽プロデューサー:田井モトヨシ DJカラリスト:河原夏子 助監督:成瀬朋一 制作担当:大塚博之 ラインプロデューサー:梅本竜矢
出演:萩原利久、河合優実、伊東蒼、古田新太、松本穂香、黒崎煌代、安齋肇、浅香航大
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映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』あらすじ
想い描いていた大学生活とはほど遠い、冴えない毎日を送る小西。友達は山根という大分県出身の友人がひとりいるだけだ。
ある授業が終わった際、小西はお団子頭の女子学生の凛々しい姿に目が釘付けになった。彼女は授業終了のチャイムが鳴ると一人、颯爽とドアに向かった。ドアを開けようと引いて、少し照れ笑いをしながら「押す」と呟き出て行った彼女。
その後、食堂や、他の授業でも彼女がひとりでいるのを見かけ、小西は彼女が桜田花という名前であることを知る。思い切って声をかけると、ふたりは驚くほど気が合った。すぐに小西は、山根とよく行くキャンパスの穴場ともいうべき屋上庭園に彼女を案内する。
キャンパスに広がる緑の芝生に寝転ぶのは勇気がいるけれど、ここなら安心できる。桜田は向こうは人工芝だからこちらの方が本物だねと言い、小西を驚かせる。なぜなら、ほんの少し前、小西は山根と同じような会話を交わしたばかりだったからだ。「桜田さん!」と思わず小西は叫んでいた。
桜田は校内にある博物館に小西を案内した。関大初の女子学生北村兼子の展示を観ながら、こんなすごい人がいたことをみんなもっと知るべきと桜田は言った。
その後も偶然、学外で会い、ふたりは電車に乗って水族館に向かった。会話が尽きない中、「毎日楽しいって思いたい。今日の空が一番好き、って思いたい」と桜田は言い、再び、小西を驚かせた。それは彼女が9歳の時に亡くなった父の言葉だというのだが、奇しくも、半年前に亡くなった大好きな祖母の言葉と同じで、小西はおばあちゃんの思い出に涙を流し始める。そんな小西を桜田は温かく受け止めてくれた。
小西は昔ながらの銭湯で清掃のアルバイトをしている。店主もその娘さんも温かい人柄で、バイト仲間の同志社大生、さっちゃんともうまくやっていて、ここではのびのびと過ごすことができる。
小西がひとりで勤務する予定だった日、さっちゃんがあわただしくやって来た。小西が二時までに帰りたいというと店主がさっちゃんを呼び出してくれたのだ。もう少しで寝てしまうところやったんやで、とさっちゃんは楽しそうに笑った。
作業が終わりに近づいたころ、小西との会話から、さっちゃんは小西に彼女が出来たことを知る。以前から小西のことが好きだったさっちゃんは、思わず湯舟にダイビングし、そのまま動かなくなり、小西を慌てさせた。
帰り道、さっちゃんは小西への思いを吐露する。小西はさっちゃんのフルネームも知らない自分に気づかされる。また顔を合わせなくちゃいけないから気まずいけれど、もう次は知らん顔しているからねと言い、さっちゃんは静かに去って行った。
翌朝、小西は桜田と喫茶店に居た。この約束のために、昨晩は早く家に帰りたかったのだ。少しでも眠るために。
この喫茶店は膨大なメニューが貼られていて、どれも一癖も二癖もあるユニークな名前がつけられていた。その中に「オムライス」だけがなぜか「オムライス」のままで、異彩を放っていた。その理由を店主に聞きたいのだが、常連にならなければ聞けない気がする。
ふたりはまた午後に会う約束をして別れるが、その後、小西は桜田に会えなくなってしまう・・・。
映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』感想と評価
(ラストと映画の構造について言及しています。ご注意ください)
物語の大半は、関西大学の清々しいキャンパスで展開する。大学1年時に周囲に溶け込むことに失敗した小西徹は、人々の輪からはずれた日々を過ごしている。雨の日も晴れの日も傘をさして歩くショットが何度も重ねられるが、彼にとって傘は他人からの視線を遮る「武装」なのだ。キャンパスという「見られる」空間での自己防衛の手段というわけだ。
いつもお団子頭でひとり、行動する桜田花は、授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に誰よりも先に教室を去ろうとする。ドアを引いてしまい、照れ笑いを浮かべながら「押す」と呟く桜田。その間、すべての音は止まり、彼女が出て行った途端、教室の喧噪が蘇って来る。この無音の演出は、小西が彼女に心を奪われた瞬間を鮮やかに表現している。
桜田は小西の唯一の友人・山根から「ひとりざるそば女」などと呼ばれている。彼女自身は堂々とひとりでランチを食べているのだが、こんなふうに呼ばれてしまうのは、キャンパス内では「ひとり」がどうしても目立ってしまうからだ。小西が傘で武装しているように、桜田もまたお団子頭で武装している。溶け込むのに失敗した者のキャンパス生活のシビアさが伝わって来る。
小西が思い切って桜田に声をかけると、ふたりは驚くほど気が合い、「この人なら安心して話せる」という信頼感があっという間に芽生える。一緒に訪れた水族館で小西はおばあちゃんの死に対する感情を爆発させるのだが、桜田は父を早くに亡くした自身の体験を重ねながら、彼の感情を、優しく、しっかりと受け止めるのだ。
桜田は二人の関係を「セレンディピティ」――思いがけない偶然がもたらす幸運やその偶然をもたらす能力――と呼ぶのだが、まさにこの言葉こそ、本作の重要なモチーフと言えるだろう。映画のタイトルが画面に現れるのは、映画が始まってかなり後のことになるのだが、それは真の「セレンディピティ」が始まる瞬間なのだ。
小西のアルバイト先である昔ながらの銭湯は、キャンパスとは対照的な居心地の良い場所だ。ここで彼は、同志社大学の学生「さっちゃん」とコンビを組み、営業終了後の風呂場の掃除にあたる。さっちゃんは明らかに小西に恋をしていて、その行動、動きひとつひとつが、好きな人と一緒にいることの歓びに溢れているのだが、小西はその気持ちに全く気付いていない。ある日、さっちゃんは小西に女友達ができたことを知り、失恋を悟る。
アルバイト終了後、オーナーの家の郵便箱にふたりで鍵を返しに行った際、暗がりの街灯の下で、さっちゃんは長い長い小西に対する思いの告白と失恋吐露を始める。その時の彼女と小西の距離は、告白シーンにしてはあまりにも遠く離れ過ぎているように感じられる。このいたたまれなさには、小西のみならず、観ているわたしたちも身じろぎひとつできなくなってしまう。さっちゃんを演じる伊東蒼がとにかく素晴らしい。
アルバイト先は、大学のキャンパスとは違う居心地のいい場所で、人間関係も良好だと思っていたが、小西はさっちゃんに対して、フルネームも知らないほど無関心だったことが判明する。ここでは、人は無意識のうちに人を傷つけてしまっていることを示唆しているといえるかもしれない。
大学のキャンパスと銭湯以外にもうひとつ重要な場所がある。大学の正門を出て商店街に入ると、小西の孤独は軽減される。この商店街は、キャンパスの疎外感と銭湯の安心感の中間点として機能し、そこで出会う犬「さくら」は小西の心の拠り所だ。さくらがキャンパスに時々現れるマスコット的な存在である点も、空間的なつながりを表し、さくらと小西を結びつける。キャンパスを出た時、さくらがこちらを見て尻尾を振っている姿に彼はどれほどの安堵を覚えたことだろうか。
物語終盤、小西は桜田に会えなくなり、絶望の境地に陥る。彼が桜田をずっと待っていた場所は大学の正門前で、そこからはさくらが見えるのだが、その一歩進めば安心できる間(はざま)で小西は桜田を失ってしまう。
桜田が小西を強烈に罵倒するシーンは衝撃的だが、後にそれが小西の想像に過ぎなかったと判明する構成は実に巧妙だ。こうした構成をはじめ、傘、ダンボール、犬の毛、クラゲ、電灯の揺れる紐といった小道具はキャラクターの心情を視覚的に補強する「ギミック」として効果的に使われている。特に、電灯の紐が音楽に合わせて揺れるシーンは、視覚と音の融合で詩的な余韻を生み出している。
終盤の舞台となる南千里の小綺麗な一戸建ての家は、本作の様々な舞台の集大成となる場所だ。小西、桜田、さっちゃん、銭湯の店主、さくらが一堂に会する場と言ってもいいだろう。
ここでは前述したさっちゃんの長い告白シーンにも匹敵する、桜田と小西の長い長い台詞が登場する。
桜田の語りの場面では意表を突くクイックズームがなされる。これもひとつのギミックだが、カメラが吸い寄せられたように、わたしたちもまた、彼女の語りに引き込まれてしまう。これほどの長台詞なのに、ちっとも説明的に感じられない。桜田を演じる河合優実と、小西を演じる萩原利久の圧倒的な旨さゆえだろう。
最後のショットはさっちゃんの存在を強く感じさせる。ゆるゆるとカメラが後退移動し、不思議そうに、後ろを振り返る桜田と、首を伸ばして遠くを観ようとしている小西の姿が小さくなっていく中、水族館のシーンで、死んだ人はいつもそばに「おるねん」と桜田が言っていたことを思い出す。
さっちゃんがおる。さっちゃんがおるねん。と、画面をみながら、つぶやいた人も少なくないのではないか。
人は孤独な存在だが、いつでもきっとひとりぼっちではないのだ。