デイリー・シネマ

映画&海外ドラマのニュースと良質なレビューをお届けします

映画『ナミビアの砂漠』あらすじと感想/山中瑶子と河合優実がタッグを組んだ映画を目撃するということ

2017年に初監督作『あみこ』で第39回ぴあフィルムフェスティバルに選出されPFFアワード観客賞を受賞、第68回ベルリン国際映画祭フォーラム部門に史上最年少で招待されるなど国内外で高く評価された山中瑶子監督

 

その後もオムニバス映画『21世紀の女の子』(2018)の一編『回転てん子とどりーむ母ちゃん』や若手監督育成プロジェクトndjcの短編映画『魚座どうし』(2020)、ドラマ『おやすみ、また向こう岸で』(2019)を発表。『ナミビアの砂漠』(2024)は、河合優実を主演に迎えた待望の本格的長編映画だ。

 

youtu.be

 

2020年代の今を暮らすひとりの女性の恋愛や人生を鋭くも暖かな視点で描き、第77回カンヌ国際映画祭の監督週間で国際映画批評家連盟賞を受賞した。

 

『猿楽町で会いましょう』(2019)の金子大地と『せかいのおきく』(2023)の寛一郎が河合優実の恋人役を演じている他、新谷ゆづみ、中島歩、唐田えりか、渋谷采郁等が共演。

 

目次

映画『ナミビアの砂漠』作品情報

(C)2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

2024年製作/137分/PG12/日本映画

監督・脚本:山中瑶子 製作:小西啓介、崔相基、前信介、國實瑞惠 プロデューサー:小西啓介、小川真司、山田真史、鈴木徳至 協力プロデューサー:後藤哲 撮影:米倉伸 照明:秋山恵二郎 録音:小畑智寛 美術:小林蘭 装飾:前田陽 スタイリスト:高山エリ ヘアメイク:河本花葉 リレコーディングミキサー:野村みき 編集:長瀬万里 音楽:渡邉琢磨 助監督:平波亘 製作主任:宮司侑佑

 

出演:河合優実、金子大地、寛一郎、新谷ゆづみ、中島歩、唐田えりか、渋谷采郁、澁谷麻美、倉田萌衣、伊島空、堀部圭亮、渡辺真起子

 

映画『ナミビアの砂漠』あらすじ

(C)2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

21歳のカナは学生時代の同級生の悩みを聞いたあと、彼女とホストクラブに遊びに行き、その後、待ち合わせしていたハヤシと合流する。彼とわかれたあと、カナは恋人のホンダと暮らしているアパートに帰宅。飲み過ぎて気持ち悪くなっているカナをホンダは手慣れた様子で介抱した。

 

ホンダは細かいところまでカナの面倒をみてくれる献身的で優しい恋人だが、カナのことは何でも分かっているという態度がカナには少々煩わしい。ハヤシから一緒に暮らそうと誘われていたカナは、ホンダの留守中にハヤシと一緒に荷物を持ち出し、ハヤシとの生活を始めることにした。

 

ハヤシが出かけている時、何気なく引っ越しのダンボールを開けていたカナは、ハヤシの持ち物の中から胎児のエコー写真を発見する。

 

新生活に心躍らせたのもつかの間、映像クリエイターとして自宅で仕事をすることが多いハヤシと生活のリズムが合わず、苛立ちが募るカナは次第に暴力的にふるまうようになる。

 

或る日、激昂して部屋を飛び出したカナは、階段を転げ落ちて、車椅子生活を送ることになってしまう。献身的にカナを世話してくれるハヤシだったが・・・。

 

映画『ナミビアの砂漠』感想と評価

(C)2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

冒頭、東京・町田駅のペデストリアンデッキを固定で撮っている。カメラがズームすると一人の若い女性が、カバンから日焼け止めらしきものを取り出して、盛んに首の後ろ部分に塗りながら歩いている姿が捉えられる。その女性が河合優実扮する本作の主人公カナだ。

 

次いで、カナが電子タバコをくわえ、スマホをみながらにやにや笑っているショットがはさまり、賑やかな通りを跳ねるように歩いて、喫茶店で待ち合わせしていた友人と合流する。ウエイトレスに素早く注文してから席につく様子を見ているとどうやらしょっちゅう利用している店らしい。これら一連の描写から、この街が奏でる雰囲気と、街を軽やかに行き来するカナの日常生活が鮮やかに浮かび上がる。

 

友人から共通の知人が自殺したと聞かされたカナは、近くの席の男性のグループが話している会話が気になって友人の話に集中できない。必死で目を見開いて、友人にうなずいてみせるものの、心はノーパンしゃぶしゃぶに持っていかれている。

会話が重なりあう様子が巧みな音響で表現される一方、なぜか一瞬、カナたちを差し置いてノーパンしゃぶしゃぶを話題にしている男性たちにカメラが向けられる。なんとも人を喰った瞬間だ。

さらに言うと、ずっと後になってカナがハヤシ(金子大地)に唐突に語り始める「日本は少子化と貧困でオワコンなので目指すのは生存です」という言葉も、実は最初のこの喫茶店のシーンで他の客の誰かから漏れた台詞なのだ。カナはその言葉もしっかりと記憶していたようだ。

 

カナのそんな一つに集中できない、引き裂かれたような感覚は、恋人のホンダと暮らしながら、新たな恋人ハヤシと隠れて会っている彼女の二股生活にもつながっているだろう。

 

ホンダはカナが酔って帰って来るのにも慣れっこのようで(女友だちと会っていると彼は信じていてカナを疑っていない)、手際よく介抱して彼女を寝かせつける。優しく面倒見のよい彼氏のようだが、ただ、ピルまで飲ませているのにはいささか違和感を覚える。カナは彼といると楽なのだろうが、自分の身体のことまで細かくパートナーに管理されているのに抵抗はないのだろうか。

 

そうしたカナの心理面は映画を通して具体的にはほとんど説明されない。ホンダと別れる踏ん切りがついたのは、ホンダが職場の旅行で上司に風俗に行くことを強引に誘われ、断れなかったことを正直に告白して謝罪してきたことが直接の原因のようだ。彼が風俗に行ったこと自体に彼女が本気で腹を立てたり、傷ついたかどうかはよくわからない。もしかしたら、それを告白することで正直な良い人になろうとしている彼がいやだったのかもしれないし、真意は不明だ。

 

こうしてカナはハヤシとの生活を始めるのだが、映像クリエイターという肩書を持つハヤシは、一見、ちゃらい遊び人に見えるが、実は彼は、高学歴のいいところの御曹司なのだ。

 

そのことはハヤシとカナがハヤシの両親が主催のキャンプに招待された際にそれとなく語られている。ここでカナはとびきりの手持無沙汰感を味わう。

 

そこには誰も知り合いがなく、ハヤシ自身も居心地が悪いのか、他の人々と距離を取ったり、ハンモックで眠ってしまったりして、カナはほとんど放っておかれている。

 

ここに集まっている人々はいわゆる特権階級の人ばかりだ。ハヤシの母親も含めカナにも愛想よく話しかけてくれ、いわゆる社交辞令に長けている人たちなのだが、その間には決定的に埋まらない溝がある。

カナの背景よりもハヤシの背景をより鮮明に描くことでカナという人物像をより濃密に浮かび上がらせようという試みが面白い。

 

カナとハヤシは、口喧嘩が増え、やがて頻繁に取っ組み合いの喧嘩を始めるようになる。その中でも印象的なのは憤怒のあまり部屋を飛び出したカナが階段を転げ落ちて、車椅子生活を送ることになる一連のエピソードだ。首にコルセットをつけ、声も出なくなった彼女をかいがいしく世話するハヤシ。それはある意味、カナにとって理想の生活だ。それゆえ、彼女の身体が回復していくにつれ、ハヤシは冷たくなっていくようにカナには感じられ、動けるようになっても目の前の煙草を取って欲しいとねだって、ハヤシから自分で取れるでしょと突き放されている。

 

なんてやっかいな手のかかる女なんだ、我儘もほどほどにせよと感じる方もいるだろう。「自分に正直に生きている」だとか「既存の価値観から自由である」という言葉で擁護するのも違う気がする。だが、カナだけが一方的に悪いのだろうか。

 

ハヤシはカナと暮らしていても、まるで独り暮らしのような時間の過ごし方をしている。2人で暮らしていても溶け合うのでなく個々として立っているのが大事だなどと弁明するが、それはまるで俺の時間に合わせろと言っているようなものだ。

 

そもそもカナがハヤシに執拗に絡むようになった原因のひとつが、偶然見つけた胎児のエコー写真であることは間違いない。林が以前付き合っていた人との間に子供が出来て、結局中絶したらしいことは、カナがハヤシに詰め寄った際、明らかになる。

 

まだその写真を突きつけていないとき、お腹がすいたというカナに対してハヤシはカナのお腹に耳を近づけて、お腹はそう言ってないよというくだらない行動をする。それがまたカナを怒らせるのだが、カナにとってその行為は、妊娠や妊婦を想起させる行為であるのは明白だ。

 

また、ハヤシの両親のキャンプの際、自分と同年代の女性が妊婦であったことも記憶に残されていただろう。妊娠8ヶ月だという女性はもうひとりのカナコという女性と共に、ぎこちない笑顔でカナとハヤシと向かい合っているのだが、カメラは切り返しで、彼女たちを正面から撮り、私たち、観客とも向かい合わせている。

 

さらにハヤシが書いているシナリオの内容が、ニートが子供を拾って育てる話だと判明し、カナはそれは「罪滅ぼしなのか?」と尋ねる。その際、カナは写真をハヤシに突きつけるのだが、ハヤシは「忘れていた」と言い、カナをさらに怒らせる。

 

カナも昔、妊娠したことがあるのだろうか、中絶したことがあるのだろうか、という疑問が浮かぶ。「私、中絶したんだよね」とホンダに言ったのは別れるための嘘だと当初は思っていたのだけれど、もしかしたら、かつて違う相手との間にあったことなのかもしれない。だが、それに関する明瞭な回答は提示されないのでどちらとも断言できない。

 

いずれにしても女性にとって「妊娠」は知らぬ顔などできない問題だ。産むか産まないか、簡単に決められることではないし、産まないことを選択するにしてもそこには様々な理由がある。産まないと決めた女性に外野から様々な軋轢が起こったりもする。21歳のカナにとっては至極重要な問題なのだ。

 

カナが抱えているのは極めてパーソナルな問題であると共に、現代社会における若者たちに共通する息苦しさでもある。刹那的にあっけらかんと生きているように見えても、常に将来への不安はつき纏う。妊娠はその一例であり、ハヤシのように金持ちの親があるわけでもなく、特別なスキルもない人間が東京でこれからどうやって生きていくのかという漠然とした不安がカナにとっては脅威となっていく。

 

彼女はそうした不安をハヤシにぶつけているのだが、ハヤシは理路整然と「僕自身が起こした問題は僕自身が正していくしかないし、それ以上どうすればいいって言うの?」と述べる。それはそうなのだがカナがどういう言葉をかけて欲しいのかを彼は考えることが出来ない。正論を聞きたいのではない。「その気持ちわかるよ」と一言言ってほしいだけなのに、そのやり取りは決して生まれず、ふたりは延々とバトルし合うことになる。男と女、いや、人と人はそう簡単に分かり合えないということを証明するかのように延々と。

 

カウンセリングでも物事は解決しない。なぜならカウンセラーの言葉はあくまでも仕事として放たれたもので、カナにはあまり響かないのだ(だからあえて彼女はカウンセラーを個人的にごはんに行きませんかと誘ってみたのだ)。

 

だからだろうか。カナは二度挨拶を交わしたことがあるだけの唐田えりか扮する隣人と想像の会話をする。「想像」と断定するのはあのシチュエーションがありえないものだからだ。隣人がひとりでキャンプをしているところにカナが通りかかり、二人は会話を交わす。やがて隣人は焚火をまたいで飛び始める。カナもまた笑顔で続く。焚火と女たちの連帯という点で、セリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像』が少しばかり思い出される(あちらは海でこちらは山だが)。女たちは歌も歌っていたが、カナたちも歌を歌う。それがマイク真木の「キャンプだホイ」だというセレクトの絶妙さには感服するしかない。そしてこのキャンプは前に参加したキャンプに比べて遥かにこじんまりとしているものの、遥かに素晴らしい。

 

だが、それはあくまでも空想の中の話だ。カメラがぐるぐる回ると再びハヤシとカナのバトルが展開している。バトルする男女といえばジャック・ドワイヨンの『ラブバトル』(2013)を思い出してしまうが、『ラブバトル』の二人の死に物狂いのバトルが「愛の行為」そのものだったのに対し、こちらのふたりは、まるでスラップスティックコメディのアクションようである。

だが、いくら、思いを分かち合えなくても、二人の隙間を埋められなくても、逆にバトルが続く限り、二人の関係は続くのかもしれない。それを「愛」と呼ぶのかどうかはよくわからないけれど。

 

映画が終わりエンドロールが流れ出すと、ナミビアの砂漠と、そこに集まる動物たちの姿を映したライブ配信の映像が流れ始める。そういえば、劇中、カナが何度か、その映像を観ているシーンがあった。ナミビアの動物たちを観ているカナを、私たちが観ている。作品がそんな入れ子構造で出来ていることにあっと驚いたのはいうまでもない。