1945年。幼い子どもたちは美しい花が咲き誇る庭やプールではしゃいで遊び、休日になると皆で近くの川に泳ぎや釣りに出かける。そんな幸せいっぱいのドイツ人一家は、アウシュビッツ強制収容所のすぐ隣に住んでいた―。
映画『関心領域』は、『セクシー・ビースト』(2000)、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2014)などの作品で知られる英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督がマーティン・エイミスの小説を原案に2年のリサーチを経て製作した注目の作品だ。グレイザー監督は今作でもその独創的な手法で、人間の本質を鋭く見つめている。
『コールド・ウォー』(2019年)、『イーダ』(2015年)でアカデミー賞に2度ノミネートされた撮影監督・ウカシュ・ザルは、照明を用いず、固定カメラで淡々と人々をとらえるユニークな撮影方法を用い、音楽家のミカ・レヴィと音響デザイナーのターン・ウィラーズ、ジョニー・バーンは不穏で重厚なサウンドを作りだした。
2023年 第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門ではパルムドールに次ぐグランプリに輝き、第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞、音響賞の5部門にノミネートされ、国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞した。
目次
映画『関心領域』作品情報
2023年製作/105分/アメリカ・イギリス・ポーランド合作映画/原題:The Zone of Interest
監督・脚本;ジョナサン・グレイザー 製作:ジェームズ・ウィルソン、エバ・プシュチンスカ 製作総指揮:レノ・アントニアデス、レン・ブラバトニック、ダニー・コーエン、テッサ・ロス、オリ―・マツデン 原作:マーティン・エイミス 撮影;ウカシュ・ジャル プロダクションデザイン:クリス・オッディ 衣装:マウゴザータ・カルピウク 編集:ポール・ワッツ 音楽:ミカ・レヴィ 音響:ターン・ウィラーズ、ジョニー・バーン
映画『関心領域』あらすじ
あるドイツ人一家は、休日に川遊びやベリー積みを楽しみ、夜遅く帰宅し、すぐ眠りについた。
翌朝、子供たちは父のルドルフに目隠しをして手を引いて庭に導いた。待っていたのは妻のヘートヴィヒと他の子供たちで、彼女たちはルドルフの誕生祝いに3人乗りのカヤックをプレゼントした。
ルドルフはそのカヤックに赤ん坊を乗せ、ペンキが塗りたてだからお尻が緑色になってしまうと冗談を言い、家族の祝福に感謝した。
屋敷内は美しく、庭には花が咲き誇り、中央にはプールもあった。そんな中、使用人たちは忙しく動き回っていた。
屋敷の裏口にはルドルフの部下たちが、集まり、彼の誕生日を祝った。その後、ルドルフは、馬に乗ってすぐ隣の職場に出かけて行った。
その職場とはアウシュビッツ収容所である。ルドルフは最高責任者の司令官だ。収容所からは怒号や悲鳴のような声が度々響き渡り、煙突からは煙がもくもくと上がっていたが、ヘドウィグや子供たちはそのことはまったく気にならないようだった。
或る日、ルドルフの自宅のオフィスに、技術者がやってくる。ふたつの焼却炉を稼働させ、効率よく「荷」を償却するシステムの売り込みだ。ルドルフは熱心に耳を傾けた。
休日になるとルドルフは子供たち2人を乗せて近くの川でカヤックを漕いだ。子供たちが泳ぎ、彼が釣り竿を持って川に入った時、彼は何かを踏んづけた。一体何かと手を伸ばしてみるとそれは人間の顎の骨であることがわかる。彼はあわてて子供たちをカヤックに乗せ、帰宅。乳母や家政婦に命じて子供たちの体を洗わせ、自身も顔と体を丹念に洗った。家政婦は浴槽に残る灰を洗い流した。
夜になると、ルドルフは家の戸締りをするのが日課になっていた。たびたび娘が眠れないと廊下に座っているのを見つけ、彼は絵本を読んでやった。別の寝室では、長男がベッドに横たわりながら熱心に何かを見ていた。箱の中には金歯のコレクションが入っていた。
ヘートヴィヒの母親が、娘を訪ねて初めて屋敷にやって来た。ヘートヴィヒは屋敷や自慢の庭を案内し、母親はその贅沢な暮らしぶりに感嘆の声を上げた。ここはまるで楽園のようだ、娘は夢を叶えたのだと。
だが、夜になると母親は、隣から聞こえて来る音に悩まされ恐怖を覚える。彼女は娘にさよならも告げず、朝早く、屋敷を出て行った。
そんな折、ヘートヴィヒは、ルドルフから、副監視官に昇進したことを告げられる。喜んだのも束の間、ドイツのオラニエンブルクに転居しなければならないという。
ヘートヴィヒにとってそれは青天の霹靂だった。絶対この家を手放すわけにはいかない。健康で幸せな理想的な暮らしがあるというのにどうしてここを離れなくてはいけないのか。彼女はルドルフだけがドイツに行き、自分と子供はここに残ると主張する・・・。
映画『関心領域』感想と解説
(ネタバレの部分がございます。ご注意ください)
映画が始まるとすぐに画面はブラックアウトする。ミカ・レヴィによる奇妙で不気味とも言えるスコアに、ささやき声やうめき声のような音が重なって行く。その間、約3分。目の前の黒い画面を前に、何とも落ち着かぬ気分にさせられる。
やがて、小鳥のさえずりが聞こえ始め、ようやく、スクリーンに水辺でピクニックを楽しむドイツ人家族の映像が現れる。彼らは夜遅く車で帰宅し、カメラはまばらに明かりを灯した屋敷の外観をとらえている。
問題は、その家がアウシュビッツ強制収容所に隣接していることだ。塀の上にはよく見ると有刺鉄線が張り巡らされ、煙突からはひっきりなしに煙が上っている。
その日、誕生日を迎えて家族や部下たちから祝福されていたのは、収容所の司令官ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)だ。歴史上実在した人物であり、その家族が強制収容所の隣に暮らしていたことも史実に基づいたものだ。
アウシュビッツ強制収容所で行われていた悪魔のような所業が直截的に描かれることはない。だが、悲鳴や銃の音、焼却炉の轟音や正体のわからない機械音といった尋常でない音が常に響いている。映画は収容所の恐怖の実態を「聴覚的」に表現しているのだ。オープニングのブラックアウトの3分間はそれを端的に表したものだったのだ。
しかし、ヘス家が、それを気にするそぶりはない。ルドルフは家庭では良き父、良き夫として描かれ、妻のヘートヴィヒはこの暮らしにすっかり満足している様子だ。音が聞こえていないはずはないのだが。
初めてこの家を訪ねたヘートヴィヒの母親が、夜中でも絶え間なく響いてくる音に恐怖を覚え、翌朝、さよならも告げずに帰って行ってしまったように音は確実に一家に届いているのだが、一家はすっかりその音に慣れてしまい気にならないようだ。慣れてしまえるのは、収容所に収監されている人々の苦しみに対して驚くほど無関心だからである。
本作には数回、印象的な横移動のショットが登場するが、ひとりの男性が手押し車に荷物を積んでルドルフたちの家まで運んでくる場面もそのひとつだ。当初、商店の店主が日用品を届けにやって来たのだろうと呑気に眺めていたのだが、やがてそうではないことがわかってゾっとさせられた。ヘートヴィヒが高級そうな毛皮のコートをブティックで試着するように羽織ってみるシーンは何気ない描写なだけにより恐ろしい。運ばれて来た物は、全て収容所に連行されたユダヤ人から剥奪したものなのだ。一家はそれらを手にすることになんのためらいもない。一家にとって大切なのは、家族の成功と繁栄だけで、当然自分たちにその権利があると考えている。
ヘートヴィヒにとって、我が家は夢の結晶であり、成功の証である。のちにルドルフがドイツに転移する命令を受けた際、ヘートヴィヒは自分と子供たちはこの家に住み続けると言い張り、ルドルフは単身でドイツに赴任することになる。彼女にとって、せっかく手に入れた我が家を手放すなどありえないことなのだ。彼女はそこが子供たちにとっても「素晴らしい環境」であると本気で信じている。
演じているのはジュスティーヌ・トリエ監督の『落下の解剖学』(2023)でも注目を浴びたザンドラ・ヒュラーだ。この役柄を演じるには葛藤もあっただろうが、氷のように冷徹だが、一方で欲にまみれたある意味人間らしい人物を見事に演じている。
一家の残酷なまでの痛みへの「無関心さ」は特異で異様なものに見える。しかし、彼らがしていることを「自分たちに快適さを与えてくれるものの背後には必ず過酷な労働や貧困、暴力、抑圧された社会状況があるということを認識していながら目を背けて知らんふりをしている」と言い換えればどうだろう。この世の中、そのシステムから逃れることのできる人間が果たしてどれだけいるだろうか。
一家が特別な「怪物」ではないこと、誰もが一家のように「残酷な」人間になる可能性があることをジョナサン・グレイザー監督は提示しているのだ。
映画『関心領域』は非常に凝った構成で、随所に実験的な試みがなされている。例えば、撮影監督のウカシュ・ザルは、俳優たちの演技を先入観なくフラットに捉えるため、家の中と外にカメラを配置し、自然光の中、無人のカメラを前に俳優たちに演技をさせたという。広角に捉えられた家族の日常風景は徹底的に平穏であり、彼らの「無関心さ」を見事に映像として表現している。
また、ひとりの少女が、夜中に囚人の作業場に行き、りんごを置いている姿が映し出されるが、ここはサーモグラフィーを使って撮影されている。それは「監視カメラ」を潜り抜けてまでも勇気ある行動を取る少女の姿だ。また、その画はネガフィルムのようでもあり、ポジフィルムであるヘス家の光景と真逆のものと捉えることが出来る。
さらに、オープニングの黒画面のように、画面が白くなったり、赤くなったりするかと思えば、現代の国立アウシュビッツ=ビルケナウ博物館を無心に清掃する女性たちが突然映し出されるなど、複雑な映像表現と構成が成されている。ある意味、コンセプチュアルアートのようだ。その狙いは明確であり、映像は刺激的である。
無関心で麻痺したヘス一家が、平穏な日常の中で、時折見せる綻びが印象に残る。赤ん坊は常に泣き叫んでいる。赤ん坊は正直だ。尋常でないものを本能的に感じとる力がある。この子はこの環境で真っ当に育つのだろうか。
また二番目に幼い少女は、時々夜、眠れなくてぬいぐるみを抱えながら廊下にうずくまっている。彼女もまた何かにおびえているのだ。ルドルフは娘をベッドに連れて行き、童話を読んでやる。それが魔女を竈に押し込むヘンゼルとグレーテルの物語であるのは実に皮肉だ。
そしてそのルドルフ自身が、何度も何度も吐き気を催して途方にくれている様が、現代の博物館の様子が映される映像と交互に映し出される。知らないふりをしていても、気にならなくても、憎悪で張り裂けそうでも、心に鎧を掛けていても、綻びは生じる。それが本作の唯一の救いなのかもしれない。
(文責:西川ちょり)