1946年の終戦直後のローマを舞台に、家父長制の軛のもとで生きる主婦デリアの過酷な日常と娘の幸福を願う姿を描いたイタリア映画『ドマーニ! 愛のことづて』。イタリアの国民的コメディエンヌ兼女優パオラ・コルテッレージの初監督作品で、自身が主演も担った意欲作だ。
本国イタリアで600万人を動員し、ハリウッド大作を抑え2023年イタリア国内興行収入第一位の大ヒットを記録。さらに、イタリア版アカデミー賞と言われる第69回ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞では最多19部門にノミネートされ、主演女優賞、助演女優賞、新人監督賞、脚本賞の主要4部門で最優秀賞に輝くなど、作品の完成度と社会的影響力が高く評価された。
『ザ・プレイス 運命の交差点』(2017)のヴァレリオ・マスタンドレアや『待つ女たち』(2015)のジョルジョ・コランジェリ等が共演している。
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映画『ドマーニ! 愛のことづて』作品情報
2023年製作/118分/G/イタリア/原題:C'e ancora domani
監督:パオラ・コルテッレージ 製作:マリオ・ジャナーニ、ロレンツォ・ガンガロッサ 脚本:フリオ・アンドレオッティ、ジュリア・カレンダ、パオラ・コルテッレージ 撮影:ダビデ・レオーネ 美術:パオラ・コメンチーニ 衣装:アルベルト・モレッティ 編集:バレンティーナ・マリアーニ 音楽:レーレ・マルキテッリ
出演:パオラ・コルテッレージ、バレリオ・マスタンドレア、ロマーナ・マッジョーラ・ヴェルガーノ、ヴィニーチョ・マルキオーニ、ジョルジョ・コランジェリ、エマヌエラ・ファネッリ
映画『ドマーニ! 愛のことづて』あらすじ
1946年5月、戦後まもないローマ。デリア(パオラ・コルテッレージ)は家族と一緒に半地下の家で暮らしている。夫イヴァーノはことあるごとにデリアに手を上げ、意地悪な義父オットリーノは寝たきりでいつも大声でデリアを呼び、わがまま放題だ。
デリアは夫の言葉と腕力による暴力に日々、悩みながらも家事をこなし、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を助けていた。多忙で過酷な生活ではあるが、市場で青果店を営む友人のマリーザや、デリアに好意を寄せる自動車工のニーノと言葉を交わす時間が唯一の心休まるときだった。
長女マルチェッラは貧しいがゆえに学校に行かせてもらえず、若くして働きに出ていたが、裕福な家の息子ジュリオと付き合っており、ある日ついにプロポーズされる。イタリアのしきたりに沿って彼の家族を貧しい我が家に招いて昼食会を開くことになったが、ジュリオの両親はデリアが作った料理に文句たらたらだ。
それでもジュリオがマルチェッラにぞっこんで、正式に両親たちの目の前で結婚を申し込んでくれたため、デリアは大きな喜びに包まれる。ところが、デザートを出す際、誤って転んでしまい、デザートが台無しになってしまった。イヴァーノはかんかんに起こり、昼食会はあっけなく終わり、デリアはイヴァーノにさんざんな目に合う。
そんなデリアのもとに1通の手紙が届いた。自分に手紙など来るはずがないのに。その頃、ニーノは仕事がうまく行かなくなり、町を出ていく決心をしていた。
デリアはマリーザに、今度の日曜日、マリーザのところに行くと言って家を出るから話を合わせてくれと頼む。マリーザは仕事以外、自由に外出もできないデリアのことを理解していたので、快く引き受けてくれた。
当日になり、まずは家族と礼拝に行こうとしていたデリアだったが・・・。
映画『ドマーニ! 愛のことづて』感想と評価
物語は、戦後間もないローマの半地下の家に暮らすデリア(パオラ・コルテッレージ)が、夫イヴァーノ(ヴァレリオ・マスタンドレア)の暴力で目覚めるシーンから始まる。挨拶の「おはよう」に対してビンタが飛んでくるこの冒頭は、デリアにとって暴力が日常の一部であることを示している。
イヴァーノは戦争のトラウマを言い訳に短気と粗暴さを正当化し、デリアを力と言葉で支配している。一方、寝たきりの義父オットリーノは意地悪でわがままな態度を崩さず、デリアに介護の負担をかけまくっている。
3人の子どものうち、長女マルチェッラは母を心配しつつもその服従的な生き方に苛立ちを見せ、幼い息子たちは父の暴力を真似てけんかばかりしている。
デリアはただ耐えるだけではない。彼女は家計を支えるため複数の仕事を掛け持ちし、朝から晩まで動き回る。貧困と過労に苛まれながらも家族を支える戦後イタリアの女性たちのたくましさを象徴した姿だ。市場で青果店を営む友人マリーザや、デリアに好意を寄せる自動車工ニーノとの交流は、デリアにとって唯一の心の休息であり、女性同士や周囲との連帯が彼女を支える糸口となる。
本作の際立つ特徴は、深刻なテーマを扱いながらもユーモアを散りばめ、観客を悲観の淵に沈ませない演出にある。例えば、デリアが夫から受ける暴力は、時にミュージカル形式で描かれる。振り付けられたダンスと軽快な音楽が流れる中での暴力シーンは、現実の悲惨さを直接的に見せるのではなく、抽象化することで観客に距離感を与えつつ、その日常性を強調する。
さらに、ブラックユーモアの要素も見逃せない。デリアがアメリカの兵士が落とした家族写真を拾ってあげたことから、その兵士と顔なじみになるのだが(言葉が全然通じ合わない面白さは字幕では少しわかりにくいかもしれない)、この関係がどうなっていくのかと思いきや、とんでもない衝撃的な出来事が起こり、思わず吹き出してしまう。大胆過ぎる描写だが、なによりもそこには長女マルチェッラに寄せるデリアの愛が表現されているのだ。
こうしたユーモアは、パオラ・コルテッレージがコメディアンとしてのキャリアで培ったセンスが存分に発揮された瞬間だ。彼女は、単に笑いを誘うだけでなく、当時の女性にとって「当たり前」だった抑圧を観客に再認識させる手法としてユーモアを用いているのだ。
また、本作に散りばめられた映画的な快楽の要素も見逃せない。モノクロのトーンはヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1950)などのイタリアのネオリアリズムを思い出させるし、朝、デリアが窓をあけた瞬間、人の足が見え、ここが半地下だとわかる場面はトリュフォーを彷彿させる。また、デリアが小銭を稼ぐために町を歩くシーンは、長回しの横移動で描かれ、ビートの効いた現代的な音楽も相まって、爽快感を感じさせる。これは黒沢清が山中貞雄の『丹下左膳餘話 百万両の壺』(1935)について語った言葉を思い出させる。
ひとつだけ言えるのは、フルサイズの横移動で音楽に乗って歩く人というのは、なぜかそれまで背負ってきた様々な物語上の設定から突然一気に解放されていくような感じがするということです。世界が急に広がった感じとも言えます。別の言葉で言えば、主人公が不意に自由を獲得したかのように見える、どうもそんな感じがするのです。
(『黒沢清、21世紀の映画を語る』より)
勿論、デリアは自由になったわけでもなんでもないのだが、作り手がこうした感覚をある程度意識して撮っているのは間違いないのではないか。
物語の転換点となるのは、デリアのもとに届く「謎めいた手紙」だ。この手紙が何を意味するのかを伏せたまま、映画は思いがけないラストへと向かう。その構成の旨さには舌を巻く。
これは観てのお楽しみなので、詳細は書かないが、ここで描かれるのは、原題「C'è ancora domani」(まだ明日がある)が示すように、次世代への希望と女性の権利拡大への大きな一歩の瞬間である。
パオラ・コルテッレージは、監督・主演として卓越した才能を発揮し、戦後イタリアの女性たちの声なき声を現代に響かせてみせた。彼女はこの作品で映画監督デビューを果たしたというだけでなく、イタリア映画史に新たな足跡を残したと言えるだろう。
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