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【小津安二郎生誕120年】映画『麦秋』あらすじと感想 / 小津作品における「結婚」と「家族」について

2023年は小津安二郎監督(1903-1963)の生誕120年、没後60年にあたる記念すべき年だ。第36回東京国際映画祭TIFF)でも近年デジタル修復された作品を中心に特集上映が組まれている。

今回は小津の戦後の代表作の一本である麦秋を取り上げたい。

映画『麦秋』は、『晩春』(1949)で復活した脚本家・野田高梧とのコンビで送る『宗方姉妹』に継ぐ1951年(昭和26年)の作品だ。

28歳を迎えた娘の縁談をめぐり、家族らそれぞれの心情を細部豊かに、繊細に綴っている。  

 

映画『麦秋』作品情報

©1951松竹株式会社

1951年製作/124分/日本(松竹)

監督:小津安二郎 脚本:野田高梧小津安二郎 製作:山本武 撮影:厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:伊藤宣二 録音:妹尾芳三郎 照明:高下逸男 編集:浜村義康 衣裳:斎藤耐三 監督助手:山本浩三 撮影助手:川又昂

出演:原節子笠智衆淡島千景三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子杉村春子、二本柳寛、井川邦子、高橋とよ、高堂国典、宮口精二、志賀真津子、村瀬禅、城澤勇夫、伊藤和代、山本多美、谷よしの、寺田佳代子、長谷部朋香、山田英子、田代芳子、谷崎純、佐野周二

映画『麦秋』あらすじ

北鎌倉に住む老植物学者、間宮周吉の一家は今日もにぎやかな朝を迎えていた。丸ノ内の貿易会社で秘書として勤める紀子は、食事を終えると家を飛び出していく。

築地の料亭「田むら」の娘アヤと紀子は学校時代からの親友だった。2人は友人の結婚式に出席。既に結婚している2人の友人と共に銀座の喫茶店に入ると、彼女たちは夫ののろけ話を始めた。

そんな紀子に縁談が持ち上がる。相手は40歳の初婚の男だという。母の志げは年齢を気にするが、話を持ってきた長男の康一は紀子の年齢なら贅沢は言っていられないと不機嫌になる。

他のものは縁談に前向きになり、紀子も真剣に考え始めるが、兄と同じ病院に勤めている兼吉が秋田に転勤になることを知り、彼こそが自分が結婚すべき相手だと気が付く。

兼吉は妻と死別していて3歳の子がおり、紀子の周囲は見合い相手の方が紀子には相応しいと考えるが、紀子の意思は固かった。

紀子の結婚を機に、周吉と志げは大和に帰ることにした。

初夏の大和で、周吉夫婦は遠くを行く花嫁行列を目に止める。ふたりはその姿を無言で見送っていた。  

映画『麦秋』感想と考察

©1951/2016松竹株式会社

由比ケ浜の波が静かに打ち寄せ、一匹の犬が走って画面から消える。鳥かごがいくつもある家。間宮家の当主、周吉(菅井一郎)が小鳥たちのスリ餌をこしらえている。

ここから朝の食事シーンが始まる。すでに二人、食卓についている。原節子扮する紀子と間宮実(兄夫婦の長男)で、そこに寝ぼけまなこの実の弟が来て紀子に「顔を洗ってない」と言われ、洗いに行く(実はタオルをしぼるだけ)シーンをはさみながら、食事シーンが延々と続く。そこには一切の省略がない。

貴田庄『小津安二郎のまなざし』(晶文社)には次のような記述がある。

 

登場人物の行動にかかる時間を省略することは、彼らの行動を要約することである。小津の映画とは無縁のものである。小津は廊下を歩いたり、階段を登ったりする、そんな取るに足らない時間さえも蔑ろにせず、映画の中で慎重に扱う。小津はこのようにして物語に日常の時間を入念に加えていき、小津固有のリアリズムを知らず知らずのうちに獲得してゆくのである。

 

このシーンで面白いのは、食べ終えて二階にあがってきた原が、会社に出かける準備をするとき、ふと棚に置かれたコーヒーカップに気づいて持っておりていき、流しにちょんと置いて家を出て行くところである。

前夜にちょっと珈琲をいただいてそのままにしていた原は、時間がないという理由でそれを兄嫁に押し付けるわけだ。このさりげないエピソードが紀子というキャラクターを身近な存在として認識させる。そして、これらは全て、間宮家の朝の時間の流れの一つとして描かれるのだ。

 

一方で、歌舞伎の観劇シーンなどは、劇を観ている人間だけを映して舞台を見せない。次の場面では歌舞伎はラジオの中継という形で提示されるだけだ。こうした省略は実におもいっきりが良い。

そして物語は『晩春』と同じく、紀子の縁談話へと進んでいく。縁談とはある意味、逃げ場のない世界といえるかもしれない。どんどんと進められていく四十歳の独身男とのお話がなければ、紀子の選択もまた別のものになっていたかもしれない。

 

小津作品では決して結婚というものが明るく輝かしいものとして描かれない。結婚話しが具体化する前後の家族の生活が「今が一番いい時」と表現され、その時間はごく僅かである。紀子が子持ちの幼なじみとの結婚を決意すると同時に「家族の幸せ」は脆くも崩れてしまう。

子への期待が叶わない気持ち、もっと良家のお嫁さんにもなれたのにという親の忸怩たる想いは、「うちはまだよいほうだよ」と『晩春』、『東京物語』でも語られた諦めにも似た言葉へとつながっていく。  

 

とはいえ、この作品にはコミカルな場面も多く観られる。ケーキ(900円もする!)を食べていると、兄夫婦の子供が寝ぼけて起きてきて、見つからないように、あわてて隠す場面がおかしい。

また、紀子が友人で料亭の娘アヤ(淡島千景)を訪ねると、結局会うこともなかった見合いの四十男が二階に来ているという。一度見て行きなさいよ、といやがる紀子を強引に連れて行くアヤ。二人は旅館の廊下を笑顔でしのび足で進んでいく。その後、シーンは間宮家の台所に切り替わり、先ほどの二人の歩調と同じようにカメラが進んでいく。

 

紀子が上司のもとに退職の挨拶に行くと、「よく見とけよ。東京もなかなかよいぞ」と上司は言い、二人が窓の外を観るシーンがある。すぐ次のシーンで、今度は逆に路上から会社を観るカットがくる。吉田喜重的に言うと、「風景(東京)がこちらを観ている」。

 

それにしてもこの作品のラストの重さはどうだろうか。大和にひっこんだ老夫婦(紀子の両親)は田園の中を行く花嫁行列を観る。それを観る二人の表情も、最後、エンディングまで引きのカメラで撮られどんどん小さくなっていく花嫁たちのショットも、喜びよりは、悲しみの眼差しが強く宿っているように見えるのである。

(文責:西川ちょり)