アメリカ先住民連続殺人事件を題材にしたジャーナリストのデビッド・グランによるベストセラーノンフィクション『花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』をマーティン・スコセッシ監督が映画化。
舞台は20世紀初頭のアメリカ、オクラホマ。石油を発掘したオセージ族と一攫千金を夢見てその地に群がる有象無象の白人たち。先住民たちが次々と奇怪な死を遂げるが、まともな捜査は一向に行われない。オセージ族のモリー・カイルの親族に起こった悲劇も陰惨極まりないものだった。
レオナルド・ディカプリオ、ロバート・デ・ニーロ、ジェシー・プレモンス、リリー・グラッドストーン、ジョン・リスゴー、ブレンダン・フレイザーら豪華キャストが終結し、驚くべき事件の顛末が語られる。
目次
映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』作品情報
2023年製作/206分/PG12/アメリカ映画/原題:Killers of the Flower Moon
監督:マーティン・スコセッシ 製作:マーティン・スコセッシ、ダン・フリードキン、ブラッドリー・トーマス、ダニエル・ルピ 製作総指揮:レオナルド・ディカプリオ、リック・ヨーン、アダム・ソムナー、マリアン・バウアー、リサ・フレチェット、ジョン・アトウッド、シェイ・カマー、ニールス・ジュール 原作:デビッド・グラン 脚本:エリック・ロス、マーティン・スコセッシ 撮影:ロドリゴ・プリエト 美術:ジャック・フィスク 衣装:ジャクリーン・ウェスト 編集:セルマ・スクーンメイカー 音楽:ロビー・ロバートソン
出演:レオナルド・ディカプリオ、リリー・グラッドストーン、ジェシー・プレモンス、ロバート・デ・ニーロ、タントゥー・カーディナル、カーラ・ジェイド・マイヤーズ、ジャネー・コリンズ、ジリアン・ディオン、ウィリアム・ベルー、ルイス・キャンセルミ。タタンカ・ミーンズ、マイケル・アボット・Jr.、バット・ヒーリー、スコット・シェパード、ジェイソン・イズベル、スタージル・シンプソン、ジョン・リスゴー、ブレンダン・フレイザー、ヤンシー・レッド・コーン、エベレット・ウォラー、タリー・レッドコーン、デジレ・ストーム・ブレイブ、エリシャ・プラット
映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』あらすじ
1920年代、オクラホマ州。
アメリカ先住民のオセージ族は、1870年初頭、カンザスからオクラホマ北東部の岩だらけの誰も住みたがらない地に追いやられ、ひっそりと暮らしていた。
ある日、突如土地から石油が吹き出し、彼らは一夜にして世界でも有数の富を手にすることとなった。
マスコミはオセージ族の裕福な暮らしを面白可笑しく記事にし、白人が彼らの運転手や家政婦を務めていることに世間は震撼した。
もっとも、富を得た彼らも後継人制度によって、後見人の許可がなければ、自由に金を引き出せない者もいた。後見人は白人が務め、その制度の根底には、先住民を見下す人種差別があった。
街には金目当ての白人や労働者が大挙として押し寄せていた。地元の有力者である叔父、ウィリアム・ヘイルを頼ってオクラホマにやって来たアーネスト・バークハートもそのひとりだ。
彼は軍を除隊したばかりだった。従軍中、腹をやられたせいで力仕事ができない彼は、ヘイルに薦められ、オセージ族を送迎する車の運転手になった。
ヘイルはアーネストにオセージ族の女性と結婚すれば、我々にも大金が転がり込んでくるとささやいた。ヘイルは大きな牧場を経営する資産家で、社会貢献に熱心でオセージ族の住民たちにも絶大な信頼を得ていたが、実際のところ頭の中は金で一杯だった。
アーネストはオセージ族のモリー・カイルを車に乗せたことがきっかけで、彼女と知り合う。彼女は感じのいい家に病気の母を看病しながら暮らしていた。アーネストは積極的にモリーにアプローチし、恋仲になった2人はついに結婚する。2人の子どもに恵まれ、幸せな日々が続いた。
ある日、オセージ族のチャールズ・ホワイトホーンという男が殺されているのが発見される。これまでもオセージ族は度々、殺人の被害にあっていたが、先住民の死に時間をかけるのは無駄だとばかり、ほとんどまともに捜査されなかった。今回も警察は動いているようには見えなかった。
ところが、それからまもなく、モリーの姉のアナの遺体が発見される。彼女は頭をピストルで撃たれていた。
モリーは警察が動いてくれないため、探偵を雇うことにした。しかし、町にやって来た探偵は何者かに脅され、モリーに何も告げず撤退してしまう。モリーはヘイルに相談するが、ヘイルは前払いだったのなら、とんずらしたのだろうと述べるだけだった。
悲劇はさらに続いた。モリーの妹、ミニーが亡くなったのだ。「消耗性疾患」による病死ということだったが、元気だったミニーがそんな病気になること自体、モリーには信じることができなかった。
ミニーの夫はビル・スミスという白人だった。彼はアナの事件を独自で捜査していた。ミニーが亡くなったあとはモリーのもう1人の妹リタと結婚。医師であるジェームズとディヴィドのショーン兄弟から譲り受けた家で暮らし始めた。アーネストはビルとはあまり馬が合わなかった。
ある晩、アーネストの車が盗まれる。アーネストは保険を請求し、盗んだ男は逮捕された。それからまもなくアーネストはヘイルから呼び出しを受ける。
ヘイルはアーネストがわずかな保険金目当てに男に車を盗ませたことをひどく怒っていた。それは彼が命じたことに含まれていない案件だったからだ。ヘイルはアーネストの尻を鞭で打ち始めた。アーネストはヘイルの本当の恐ろしさを身をもって知ることとなった。
それからしばらくして、人々が眠りについていたある夜のこと、身の毛もよだつショッキングな出来事が起こった。一連の事件は明らかにモリーの親族を狙った連続殺人事件だった。その光景を呆然と眺めるアーネストだったが・・・。
映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』感想
(結末に触れています。ご注意ください)
1920年代アメリカ・オクラホマで起きた先住民連続殺人事件を描く本作は、まず先住民・オセージ族の土地にまつわる複雑な背景をテンポよく流れるようなカメラワークで示していく。
ぐつぐつと地面にオイルが湧き立つショットのあと、勢いよく原油が噴出し、それらを浴びながら喜びの舞をするオセージ族の姿がシルエットとして浮かび上がる。オセージ族の広大な領土に幾つもの堀削機が聳える風景を俯瞰で捉え、継いで、その景色とは真逆な緑が広がるウィリアム・ヘイルの牧場がこちらも俯瞰で映し出される。
裕福になったオセージ族の華やかな姿と、それでも後見人制度によって財産を白人に管理されている彼らの現状が判りやすく語られ、金の匂いに誘われて殺気立った白人たちが列車を降りて大量に街になだれ込んでくる姿が荒々しく描写される。
更に、この地ではオセージ族の命の価値は非常に小さく、長年に渡って、オセージ族が殺される事件が絶えないにも関わらず、まともな捜査がされない現状が示される。
デビッド・グランによる原作は、オセージ族のある女性が数日前から音信不通になり、妹が安否を心配しているところから始まる。先住民のオセージ族を襲った連続殺人事件を、当時の膨大な資料や人々の証言を丹念に読み取り綴ったノンフィクション作品で、その描き方はまるでミステリ小説のようだ。全貌が判明した際には、犯人の意外さにすっかり驚かされたものだ。
原作が中途まで犯人は誰かという本格ミステリ的な展開で進んで行くのに対し、映画の方は加害者である白人たちを主人公にして進んで行く。こちらはまるで倒叙ミステリともいわんばかりの展開で、実に大胆なアレンジがなされている。
加害者たちの行為は残酷そのものであり、レオナルド・ディカプリオ扮するアーネスト以外の人物たちは、皆、ためらいなく殺しをやってのける(親玉のロバート・デ・ニーロ扮する土地の有力者・ヘイルはそもそも自分では手をくださない)。その非道を非道とも思っていないような振る舞いはマーティン・スコセッシが『グッドフェローズ』などの作品で探求して来たギャング映画を想起させる。
彼らは、先住民を人と見なさず、まるで動物をハンティングするように扱う。その根底には根深い選民意識と人種差別がある。先住民は金を持つ価値がなく、その分、自分たちが持つ方が有益であるというのが彼らの考えだ。恐ろしいのはアメリカ国家がオセージ族に後見人制度を強いたのも同様の思考によるものだということだ。
マーティン・スコセッシはフロンティアの時代から続く暴力と差別に満ちたアメリカの原罪を鋭くえぐり出してみせる。そしてそれは世界各地で争いが絶えない「今」を見据えたものでもあるだろう。
スコセッシと『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994)、『DUNE デューン 砂の惑星』(2021)などで知られる名脚本家エリック・ロスは、脚本を作るにあたってオセージ族の意見を取り入れたという。
幼子の死を弔う儀式から映画が始まるように、オセージ族の文化や習慣を映画は懸命にとらえ伝えようとしている。太陽や月などの生命の力である「ワカンダ」信仰をはじめ、彼らの思慮深さや団結力、あるいは雨が降っても扉を閉めず雨の音に耳を澄ませるようなささやかな慣習までもが詩情豊かに描かれている。
それにしてもなぜ、スコセッシは、原作をこれほど大胆にアレンジしたのだろうか。原作通り、途中まで犯人がわからない描き方でも、上記のようなことを表現することは可能だったろう。それでもこの方法を取ったのは、スコセッシが本当に描きたかったものがそこにあるということだ。鍵を握るのはディカプリオが演じたアーネスト・バークハークという男である。
映画を観る前はてっきりディカプリオはFBIの前身である「捜査局」の捜査官トム・ホワイトを演じるとばかり思い込んでいた。捜査局の局長はあのJ・エドガー・フーヴァーで、本作では名前だけが登場するが、ディカプリオがクリント・イーストウッドの『J・エドガー』で演じた人物であることは周知の通りだ。実際、ディカプリオは当初、トム・ホワイト役を打診されていた。しかし、脚本を読んだ彼はアーネスト・バークハークに興味を持ち、こちらを演じたいと申し出たのだという。
それも当然だろう。ほとんどギャングのような白人たちと、ある意味類型化された被害者としての先住民たちの中で、彼こそが一番人間らしい人物として描かれているのだから。
始めて登場してきた時、彼は叔父に女好きで金にも目がないことを正直に告白している。仲間たちと覆面強盗(強殺はしない)をするようなゴロツキで、モリーに近づいたのも、叔父の金になるという言葉がきっかけだったかもしれない。
しかし、彼がモリーに恋をしていたこと、生まれて来た子どもたちを愛していたことは確かである。何しろ、3番目の子をモリーが身籠ったとき、彼は満面の笑みでそれを報告し、それがまずかったことを叔父の顔つきで知るのだ。彼のあの時の笑顔に嘘はなかったはずだ。また他の白人たちとは違い、彼は先住民への偏見もほとんどなかった。彼は欠点があったとしても、それを補う人の良さがあり、どこにでもいる平凡な男であった。
だが、彼は絶対的「悪」のコマのひとつに成り下がり、忠実に従った行動で複数の人間を非業の死においやったのだ。終盤、捜査局に逮捕されるが、その時も彼は司法取引で無罪放免になる可能性があったのに、簡単に人に言いくるめられ、そのチャンスを逃してしまう。
終盤、捕えられ、裁判にかけられた彼が、本当に家族を愛していたことを涙ながらに語るシーンはディカプリオの正面アップを固定長回しで捉えており、彼の痛切な訴えが、観客に直接響いてくるように設計されている。これは一種のラブストーリーでもあったことがそこでは示されている。
では本作は「贖罪」の映画なのだろうか。否、裁判が終わり、別室でアーネストに面会したモリーは彼にある質問をする。途端、汗ばみ、目を泳がせ、しどろもどろになる彼の顔が先ほどと同じように画面に映し出される。それを見たモリーは黙って静かに彼のもとを去っていくのだ。ここでのディカプリオと、モリー演じるリリー・グラッドストーンの演技は片や動、片や静というまったく相反するものだが、どちらも圧巻といえるものである。
アーネストという人間を見ていると、ハンナ・アーレントがナチスのユダヤ人移送の最高責任者であったアドルフ・アイヒマンの裁判を取材した際に用いた「凡庸な悪」という概念に思い当たる。アイヒマンは悪魔ではなく、上からの命令に忠実に従っただけの平凡な小役人に過ぎず、「思考停止」の人間だとアーレントは述べたが、思考を停止し、命令に盲従したアーネストもまたアイヒマンであったといえるだろう。
ヘイルのような極悪人やギャングたちは恐ろしい存在だが、世の中にはアーネストのような無数のアイヒマンがいる。それこそがスコセッシが描きたかった真のテーマだろう。
(文責:西川ちょり)