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【小津安二郎生誕120年】映画『東京物語』あらすじと感想/小津映画における家族の儚さと人間の孤独について

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2023年は小津安二郎監督(1903-1963)の生誕120年、没後60年にあたる記念すべき年だ。第36回東京国際映画祭TIFF)では近年デジタル修復された作品を中心に特集上映が組まれ、また2023年12月8日(金)からBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下りにて「小津安二郎 :モダン・ストーリーズ selected by ル・シネマ」と題した特集上映の開催が予定されている。

 

今回は特集上映にもラインナップされている小津の代表作の一つ東京物語(953)を取り上げたい。

※映画『東京物語 デジタル・リマスター版』が小津の誕生日であり命日でもある2023年12月12日にNHK BSで放送される(13:00~15:18)。

 

 

映画『東京物語』作品情報

(C)1953 松竹株式会社

1953年製作/135分/日本映画(松竹)

監督:小津安二郎 製作:山本武 脚本:野田高梧小津安二郎 撮影:厚田雄春 照明:高下逸男 録音:妹尾芳三郎 美術:浜田辰雄 音楽:斎藤高順 編集:浜村義康 衣装:佐藤耐二 装置:高村利男 装飾:守谷節太郎 現像:林龍次

出演:原節子笠智衆、東山千恵子、山村聰三宅邦子杉村春子香川京子、大阪志郎、東野英治郎中村伸郎、高橋豊子、安部徹、三谷幸子  

 

映画『東京物語』あらすじ

(C)1953 松竹株式会社

尾道で暮らす周吉、とみの老夫婦は子どもたちの顔を見に、二十年振りに東京を訪れることにした。

 

途中、大阪に寄り三男の敬三に会ったあと、東京で医師をしている長男幸一、美容院を営んでいる長女志げを順番に訪ねたが、二人とも仕事で忙しく、十分に両親の面倒を見ることが出来ない。志げの家にこもったままだったとみは、戦死した次男昌二の妻、紀子に連絡をとってみた。すると紀子は翌日、仕事を休み、東京を案内して回ってくれた。

 

両親の帰りを待っていた幸一と志げは、お互い三千円ずつ出してふたりを熱海旅行に送り出すことに決め、両親もそれに従った。

 

夫婦は子どもたちに散々させたことを気にしながらも、一抹の寂しさを覚えた。幸一が医学博士の称号を持ちながら、思いのほか小さな診療所の町医者をしていること、志げの美容院も思っていたほど楽でない様子に、ふたりは少し失望していた。周吉はそんな思いを振り切るように「うちはまだましなほうじゃよ」と、とみと語り合う。

 

熱海旅行を終え、志げのところに戻って来た両親だったが、今夜は志げの家で集会があるという。周吉は同郷の友人の家に泊めてもらうことにし、とみは紀子のアパートで過ごすことになった。とみは紀子の優しい心遣いが何よりも嬉しかった。

 

東京を発った夫婦は大阪の敬三を再び訪ねた。帰りの列車でとみの体調が悪くなったからだった。とみは回復し、周吉とふたりで尾道へ帰って行った。

 

まもなく尾道から子どもたちの元に電報が届く。電報には「ハハキトク」と記されていた・・・。  

 

映画『東京物語』解説と感想

(C)1953 松竹株式会社

吉田喜重は、『東京物語』で、東京で暮らす子どもたちが田舎から出て来た両親をもてなすのを面倒がって熱海旅行に行かせてしまうことに対して、その著書『小津安二郎の反映画』(岩波書店)で以下のように述べている。

 

(P193)老夫婦にとって本当の子どもである長男や長女を不実であると責めることはできなかっただろう。みずからが生んだ息子や娘であるからこそ、年老いた両親をないがしろに扱うことができたのであり、親子であることのきずな、いかなるものでも破棄しえぬ揺るぎない信頼が無意識のうちに働いていることを、われわれは見逃すわけにはいかない。そして死んだ次男の嫁にはそうしたことが許されず、優しく振舞わざるをえないのは、言うまでもなく老夫婦と嫁が義理の親子であり、他人の関係でしかなかったからである。

 

本稿ではこの吉田の記述を参考に、『東京物語』という作品が描いているものについて探っていきたい。

 

東京物語』を初めて観た時、穏やかな自立した両親の姿に感心したものだ。戦後のこの時代、親たるもの、子にはもっと威圧的であったと想像できるし、もっと支配的であったはず。「親孝行」ももっと強制されたのではないだろうか。勿論、一部の進歩的な家庭では最早、そのような傾向はなくなっていたかもしれないが、一般的な、とりわけ、地方に暮らしている親世代はまだまだ封建的であったと思われる。

しかし、この両親は子どもたちが日々の忙しさに追われて自分たちを十分もてなさないことにもほとんど文句も言わず故郷へ帰っていく。いわば、親離れ、子離れ出来ている「良い関係」の親子なのだ。

勿論、子どもの方がそんな親に甘えているのか、あまりにもドライだ、と思われる方もいるだろう。しかし「仲の良い親子ごっこ」をしないということは、そんな「ごっこ」をしなくても良い程度には心が通じあっている証拠であり、血の通った家族よりも死んだ次男の嫁が親切なのは、吉田が述べるとおり、彼女が「他人の関係でしかない」からである。

テレビのホームドラマを観てきた世代には、ホームドラマとは家族の仲良しごっこを見せつけるものという概念が定着しており、その視点でこの『東京物語』を観たとき、なんとなさけない子どもたちなのか、それに比べて原節子はなんてやさしい嫁なのだろうか、という思いを抱いた人は案外と多いと思われる(そしてそれは今の時代でもたいして変わらないと断言する)。

しかし、小津は原節子に次のような台詞を語らせている。「わたくしはそんなおっしゃるほどいい人間じゃありません」と。

ここでの原の告白は、観客の気持ちを裏切ると同時に、義理の父親を失望させるものでもあっただろう。どこかで「いつまでも戦死した二男のことを思い続けてくれている優しい嫁」であってほしいという想いは笠智衆の中にあったはずだからだ。

しかし、この台詞、この場面が、単に「わかりやすい物語」や一種のメロドラマを否定したいがためにもうけられたものでないのは明白だ。義母には生前言えなかった本心を義父に伝えた事によって、紀子は「他人」から本当の家族へ一歩近づいたということなのだ。真の心の交流は「常に痛みを伴う」という思想が小津の中にはあったのだろうと思われる。

 

母の死によって尾道に帰って来た子どもたちも、あわただしく東京に戻ってしまい、原も去って、笠智衆だけが一人残される。小津は「家族」を描き続けた作家だが、小津映画における「家族」は、いつかはバラバラになっていく儚いものであった。その根底には家族はあっても、最後は結局自分一人だけだという思想があった。

人間の孤独というものを小津はバリエーションを変えて何度も描いたのだ。

(文責:西川ちょり)

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