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【小津安二郎生誕120年】映画『早春』(1956年)あらすじと感想/池部良と淡島千景が冷え切った夫婦を演じる再生の物語

丸の内勤めの杉山(池部良)は、一児を亡くしてから妻・昌子(淡島千景)との関係に隙間風が吹くようになっていた。キンギョという綽名の若い女性(岸恵子)と不倫関係にある彼だったが・・・。

 

小津安二郎が『東京物語』(1953)に次いで発表した映画『早春』(1956)は、夫婦を主題にしたいくつかの小津作品の中でも最も深刻な色合いを帯びた作品の一つだ。

小津の戦争体験が今作には特に色濃く反映されていると言われており、復員兵の池部良は疲れ果て、未来に希望を持つことが出来ない。

 

本作に続く作品『東京暮色』(1957)も、『早春』同様、脚本の野田高梧とのコンビによるものだが、『早春』以上に救いのない物語である。この暗い二作は興行的に振るわず、小津と野田コンビは次作に『彼岸花』を制作し、『晩春』や『麦秋』での娘の結婚話という主題に立ち返った。小津初のカラー映画ということもあり『彼岸花』は大ヒットを記録し、小津はその後も『秋日和』(1960)、遺作の『秋刀魚の味』という同様の主題の作品を撮っている。

 

それらは勿論、優れた作品で、小津の代表作として今でも愛されているものばかりだが、ただ、もし、『早春』と『東京暮色』がそこそこヒットして、松竹の上層部が難色を示さなければ、小津と野田コンビは果たしてどんな作品を産みだしたのだろうかと、少し惜しい気がするのである。

 

映画『早春』は、2024年3月2日(土)~3月29日に大阪/シネ・ヌーヴォにて開催される特集上映「生誕120年 没後60年記念 小津安二郎の世界』にて上映される。  

 

目次

映画『早春』の作品情報

©1956松竹株式会社

1956年製作/144分/日本(松竹映画)

監督:小津安二郎 脚本:野田高梧小津安二郎 撮影;厚田雄春 美術:浜田辰雄 音楽:斎藤高順 録音:妹尾芳三郎 阿照明:加藤政雄 装置;山本金太郎 装飾:守谷節太郎 衣装:長島勇治

出演:池部良淡島千景浦辺粂子、田浦正巳、宮口精二杉村春子岸恵子高橋貞二、藤乃高子、笠智衆山村聰三宅邦子、増田順二、長岡輝子k、東野英治郎中北千枝子、須賀不二男、田中春男、糸川和広、長谷部朋香、諸角啓二郎、荻いく子、山本和子、中村伸郎、永井達郎、三井弘次、加東大介菅原通済

 

映画『早春』のあらすじ

杉山正二は丸ビルの「東和耐火煉瓦」という会杜に勤めるサラリーマンだ。会社には蒲田の家から連日、満員の通勤列車で通っている。

妻の昌子とは結婚して8年になるが、幼い子供を亡くしたことが心に重くのしかかり、二人の仲は冷え切っていた。杉山は退社後もすぐに家に帰らず、通勤仲間の青木たちとつるんでいることが多かった。

 

昌子が小さなおでん屋を営んでいる母を訪ねて行った折、杉山は通勤グループの仲間と江ノ島へハイキングに出かけた。杉山とキンギョという綽名の千代はこの日を境に親密になり、ある日、千代に誘惑された杉山は鈴ヶ森の旅館で関係を持ってしまう。

 

杉山にとって初めての外泊だったが、三浦という同僚の見舞いに行き、同じく同僚の木村の家に泊まったと嘘をつくと昌子は素直に信じたようだった。

 

だが、杉山と千代の関係は結局昌子の知るところとなってしまう。杉山が亡くなった息子の命日を忘れていたこともあり、二人の心の隙間は広がるばかりで、昌子は家を出てしまう。

その頃、杉山には岡山に転勤の話が舞い込んでいた・・・。  

 

映画『早春』感想と解説

©1956松竹株式会社

小津作品の多くがそうであるように、本作も冒頭に何気ない風景のカットがはいる。家と家の間から煙突が見えているといった、どこでもないどこにでもあるような風景だ。

 

列車が行く。朝の光が漏れてくる一室。男と女が並んで寝ており、女は鳴っている目覚ましを手を伸ばして止める。立ち上がり、カーテンを開き、玄関を開ける。「おはよう」と向かいに住む杉村春子が女(淡島千景)に声をかけてくる。家の前を掃除している杉村が自身の家にはいると、カメラもついて入り、この家の夫婦の様子をさりげなく観客に伝えてみせる。

 

再び薄暗い部屋。ふとんから出る池部良

ついで昭和30年代初頭の日本の通勤風景が描かれる。次から次へと人々が現れ、同じ方向に歩いて行くカット。蒲田駅のそばを人々が進むカット、ぎっしり人の詰まったホームのカット、プラットホーム後方に集まっている若いグループは池部の通勤仲間である。

 

丸の内のビルのカット。窓に向かって並んで煙草を吸っている男。下の通りの様子を表すカット。池部が職場に入ってくるカット。皆が机に向かって仕事をする様子、カタカタ、タイプする音が響く。カメラが無人の廊下を進んでいく。

こうした淡々としたカットの積み重ねの中で、池部が疲労していく姿が、というよりは池部の疲労自体が、ひたひたと観ている者の心に忍び込んでくる。

 

ある休日、通勤仲間とのピクニックで歩き疲れた池辺と岸恵子は、トラックをヒッチハイクして、荷台に乗る。驚き、追いかけてくる仲間のカットと、荷台で楽しそうにしている二人のカットが交互に映し出される。ここは珍しく動きのあるシーンだ。

 

次の場面は一転して、高架下の飲み屋。淡島の母親(浦辺)がおでんを仕込んでいる。池部と淡島は結婚して8年になるが、幼い子供を亡くしたことが心に重くのしかかり、気持ちがすれ違うことが増えて来ていた。

 

池部と岸の不倫シーンは正直、小津映画でこんなシーン見ちゃっていいのかしら、という気恥ずかしさが先行するが、非常に艶のある色っぽいシーンである。それらは年頃の娘を主人公にして、彼女たちの結婚をテーマにした一連の小津作品において、隠蔽されたり、嫌悪されたり、漠然とした不安として現れていたものだ。

 

淡島と池部の夫婦が再生するには「東京」は一度捨てなくてはいけない場所だったのだろう。しかし、赴任地の岡山の勤務先は、山の中に囲まれた黒煙がもうもうと上がる息が詰まるような場所だ。  

 

夫婦が並んで東京行きの列車を見つめるラストシーンは、暗く沈んだ雰囲気が漂っている。しかしこの二人は大丈夫なのではないかという思いが過る。なぜなら、この作品は”結婚の危機”を描きながらも、小津の他のどの作品よりも”結婚”に関して前向きだからだ。

それは笠智衆扮する先輩の存在が大きいだろう。「女房は大切にしなくちゃ。最近、女房には優しくしているんだ」と彼は池部に言って聞かせる。相手へのそうした思いがある限り、夫婦は危機を乗り越えられるだろう。

 

結局のところ、人間は一人である、という懐疑的なテーマが漂う小津作品の中では(家族が家族としてきちんと機能している作品ほどその思想が流れているように思える)、二人で共に歩んで行こうとするところで終わる本作は、ある意味、例外的な作品といえるかもしれない。

 

池部と笠智衆は、川の橋のたもとに座り会話しながら、大学のボート部が練習しているのを眺めている。そのボートが池部と笠の座る位置を通り過ぎて行く様を、ひきのカメラでワンショットで撮っているが、ボートの漕ぎ手にはまだあって、池部にはもうない何かがそのワンショットに示されている。

これも、また、トラックの荷台のシーンと同じくダイナミックな運動を見せ、小津が意図したかどうかは不明だが、「青年期の終焉」を表す印象的なシーンとなっている。

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