「大映4K映画祭」が全国の映画館で順次開催されている。
その中から今回は【大映4K映画祭関連企画 「Road to the Masterpieces」】で上映される1953年の映画『祇園囃子』を取り上げたい。
『祇園囃子』は、『オール読物』に掲載された川口松太郎の原作を依田義賢が脚色し、溝口健二が監督。京都の花街、祇園を舞台に、売れっ子芸妓と彼女を頼ってやってきた舞妓が様々な苦難にあいながらも共に力を合わせて生きていこうとする姿を描いている。
目次
映画『祇園囃子』の作品情報
1953年/大映京都/85分/モノクロ
監督:溝口健二 脚本:依田義賢 撮影:宮川一夫 美術:小池一美 音楽:斎藤一郎 録音:大谷巖 照明:岡本健一
出演:木暮実千代、若尾文子、河津清三郎、進藤英太郎、菅井一郎、小柴幹治、石原須磨男、伊達三郎、田中春男、毛利菊枝、小松みどり、柳恵美子
映画『祇園囃子』のあらすじと感想
祇園の複雑な路地を若尾文子が行く。目的地をみつけたかと思うと、そこからさらに奥へと進んでいく様子が俯瞰で捉えられている。
最終的に彼女が目的地に着く前に、画面はその家の芸者の木暮実千代と、客の田中春男のやりとりへと変わる。田中をあっさりと振るあたり、木暮の玄人ならではの達者さが表れている。その家の暖簾の向こうに若尾が現れるのだ。
カメラは彼女が暖簾をくぐって入ってくるところを捉える。身内から逃げ出して、木暮だけが頼みだと現れた少女を木暮は引き取ることにする。
これまで一人だけで生きてきた女が守るものを得たことで、最初の印象と大きく変わっていくことになる。この物語はまさにそうした変化を描こうとしている。
世話するものができた木暮の行動をカメラは長回しで追う。浪花千栄子の「おかあはん」とともに、八坂さんをお参りする様子は、溝口健二監督の1936年の作品で山田五十鈴が主演した『祇園の姉妹』にも登場していたシチュエーションである。
どちらの作品も二人の女が、何度も何度も立ち止まっては手を合わせてお参りする姿が描かれているが、『祇園囃子』の木暮はまるで子どもを幼稚園に入学させる母親のような浮かれた気分を発散させている(もっとも、ラストを含め、木暮は自身を「母」とは表現しない)。
さらに、初めて若尾がお座敷に出る際のお茶屋などへの挨拶周りも、引きの画面の横移動の長回しで、その晴れの日に活き活きとしている木暮をとらえるのである。
しかし、ひとりぼっちが二人になったがために、多大な困難が彼女たちに押し寄せてくる。
ドライかと思えば、まだ子どもっぽさも抜け切らない若尾は、祇園の路地の入り口(?)にしばしばたたずむ。
そんな彼女のもとに、他の舞妓が走り寄って、励ましていくのは、若尾がある意味その世界のアウトサイダー的な存在だからだ。
しかし、彼女とて、好んでアウトサイダーになりたかったわけではない。ロリコンの客に襲われそうになって、少々過激とはいえ、身を守っただけなのだ。
彼女の父親は、商売に失敗し、体も不自由になり、借金の申し込みに渡り歩いている。娘の保証人になることも拒むような男なのだが、これが、一流どころの手土産だけはかかさない。
こうした身についてしまった習慣を今の境遇(借金を申し込む訪問)でも遂行するこの男のなんともいえなさはこの映画に出てくるろくでもない男たちの中でもある意味特筆すべき性質だろう(もっともこの件に関しては「京都の手土産文化」という伝統も考慮しなくてはならないのだが)。
そして客の男たちよりもさらに際立つのが浪花千栄子の怖さだろう。浪花千恵子はへらへらしたちょっと抜けた役柄や一言多い喜劇的な役回りが多いのだが、ヤクザな怖さを出させれば、抜群の存在感を見せる役者だ。
若尾が祇園の路地の入り口にたつと、祇園囃子が聞こえてきて、祭りを楽しむ子どもたちが花火をしている姿が向こう側に見きれている。
それはあちらの世界とこちらの世界の境界である。無邪気に花火ができた日々はもうとっくに終わってしまったのだ。
木暮と若尾、どこにも行き場のない一人ぼっち同士が肩を寄せて生きていこうとするその姿は悲しいが美しく、悲痛だが温かい。
二人の幸せを願わずにはいられなくなる。