濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021)で音楽を担当した音楽家・石橋英子が濱口監督にライブ用映像を依頼したことからスタートしたプロジェクトは、最終的にライブ用サイレント映像『GIFT』と、長編映画『悪は存在しない』を誕生させた。
映画『悪は存在しない』は、長野県の美しい田舎町を舞台にしている。ある日、町中にグランピング施設建設の話が持ち上がる。穏やかな世界に突然現れた計画は、思わぬ波紋を呼び、息を呑む結末につながって行く。
主演の巧役に、当初はスタッフで参加していた大美賀均を抜擢。娘の花に新人の西川玲が扮し、企業側のスタッフ男女を、小坂竜士、渋谷采郁がそれぞれ演じている。
目次
映画『悪は存在しない』作品情報
2023年製作/106分/日本映画
監督・脚本:濱口竜介 企画:濱口竜介 石橋英子 プロデューサー:高田聡 エグゼクティブプロデューサー:原田将、徳山勝巳 撮影:北川喜雄
録音・整音:松野泉 美術:布部雅人 編集:濱口竜介、山崎梓 音楽:石橋英子 カラリスト:小林亮太 助監督:遠藤薫 製作:石井智久
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雅人、山村崇子、長尾卓麿、宮田佳典、田村泰二郎
映画賞:第80回 ベネチア国際映画祭(2023年)銀獅子賞(審査員グランプリ)受賞
映画『悪は存在しない』あらすじ
長野県、水挽町(みずびきまち)。豊かな自然に恵まれた人口約6000人の街は東京から車で数時間で来られる場所にある。
そこで生まれ育った巧は、娘の花を育てながら、「便利屋」として、薪を割ったり、うどん屋を経営する隣人のために沢の清流を汲んだりして暮らしている。
彼の自宅に置かれたピアノには、巧の妻で花の母親と思われる女性が映った家族写真が飾られているが、女性の姿はどこにもない。
巧は仕事に夢中になるあまり、花を学校に迎えに行く時間をうっかり忘れることがあった。花もそのことを心得ていて、ひとりでカラマツ林を歩いて帰り、後から追い付いてやって来た巧に、覚えた木の名を披露してみせた。
巧は、ウコギの茎には毒があるから気を付けるようにと語って聞かせ、鹿の通り道を教えた
或る日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。その説明会があるというので、巧や区長の駿河たちは会場に足を運んだ。
プレイモードという会社から髙橋と薫という男女二人の社員が来て、説明を始めたが、計画は住民にとって、納得できない点が多すぎた。
建設予定地の浄化槽の設置位置が村の水源を汚染すること、夜間に管理人を置かないことで推測される山火事の可能性など、計画はあきらかに杜撰で、にも関わらず、工事の着工日は間近に迫っていた。
プレイモードは芸能プロダクションで、企画はコンサル頼み、コロナ禍の補助金目当てに着工を急いでいるのは明らかだった。
会場のムードは一瞬険悪になるが、巧が立ちあがり、「まだ誰も賛成も反対もしていない。今度は社長とコンサルタントの社員を連れて来てもう一度話し合おう」と提案し、説明会は終了した。
東京に戻った髙橋と薫はコンサルタントとオンライン会議をする中で、計画は十分でなく、住民の不安も理解できるので、一旦白紙に戻してはどうかと提案する。
しかし、既に土地を買っていること、補助金が自分たちの給料になることなど今更取りやめなど出来ないと社長は主張し、コンサルは夜間の管理人を設けることで住民を説得するしかない、便利屋の男性にその役割を担ってもらうのはどうかと提案する。
今から車を飛ばしてすぐに頼めるか聞いてこい!という社長の命令で、髙橋と薫は再び、水挽町へと向かうが・・・。
映画『悪は存在しない』感想と解説
カメラが梢を見上げながら林の中を移動して行くショットから映画は始まる。石橋英子による荘厳なスコアが流れる中、その光景を観ていると不思議なことにカメラがどんどん下へ下へと降りていくようにも見え、また、観方によっては、木々が高く跳ね上がって行くようにも見える。
この眩暈がするような魅惑的なショットに導かれ、私たちは美しい田舎町"水挽町“の奥深くに連れていかれる。
樹冠の間から薄い日の光が差し込み、巧(大美賀均)が湧き水を汲む水場には自生の陸わさびが生えている。
鹿の水飲み場である湖や、鹿の足跡が刻まれた雪原には幽玄な雰囲気が漂い、巧と娘の花(西川玲)が暮らす家は、素朴なぬくもりが感じられる。
巧は自身を「便利屋」と称し、うどん屋を営業している佐知と和夫の夫婦のために湧き水を汲んで運んだり、薪を割ったりして暮らしている。
小学生の花は、樫や松が生い茂る林を闊歩し、木々や植物の名前を覚え、牛に餌をやり、発見と観察の日々を過ごしている。
まさに楽園という趣だが、時々、聞こえてくる鹿狩りの銃声が一抹の不安を生む。本作において、銃声は全部で三回響く。石橋英子のスコア自体もどこか不穏で、突然音楽が鳴りやむと、銃で傷ついた鹿が流したと思われる血の痕が発見される。
そんな中、彼らの住む町にグランピング場が建設されるという話が持ち上がる。説明会に集まった住民たちは、東京から来た「プレイモード」の社員、髙橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の説明に納得がいかない。
浄化槽の位置から考えられる水質汚染の問題、夜間に管理人を置かないことによる森林火災の危険性等々、どう見ても杜撰な計画と言わざるを得ないのに、会社側がひどく急いでいるのは期間内に着工しなければコロナ禍の補助金が下りないからだ。そこには事業への理念や信念もなければ、自然や住民への敬意も配慮もない。こうしたことは、今の世の中、本当にあちこちで目にする事案といってもいいかもしれない。
区長の駿河(田村泰二郎)が語る、「水は常に下へ下へと流れるものだ。上流でしたことは下流に住む人々に必ず影響を与える。だからこそ上の者には責任が伴うのだ」という言葉は、現代の拝金主義社会への戒めの言葉のようにも聞こえる。
しかし、濱口監督は本作をおおっぴらな社会批判として描くのを避けており、グランピング場を巡る住民と「よそ者」である企業の対立のドラマにもしていない。説明会が終わったあと、物語の焦点は意外にも二人の社員にも及び、それによって私たちは本作のタイトルを改めて思い出すことになるのだ。
髙橋と黛は、住民の数々の指摘に自分たちが勉強不足だったことを素直に認め、コンサル会社の担当に計画の不備を訴え、一旦、計画を白紙に戻すべきだとまで主張している。だが、社長が首を縦に振るわけがない。彼は彼で会社を守らなくてはならない。「便利屋さん(巧)に管理人をやってもらうのはどうか」というコンサルからの提案に乗り気になった社長は、今から交渉に行ってこいと言って二人を再び水挽町へと向かわせる。
水挽町に向かう車中の二人の会話はとりとめのないもので、ユーモラスでさえあるが、そこから見えてくるのは、彼らは仕事の上でこれまで多くのストレスを抱え、深く傷ついて来たということだ。ここで彼らはぐっと身近な存在になる。
髙橋が水挽町に急速に魅かれていき、自分の生きる場所はここかもしれないと思い始めるのもそうした背景があるからだ。
巧の言葉を借りれば水挽町は、かつて土地を持っていなかった人が政府から開拓用に与えられた町で、いわば、皆、よそ者だという。その中で自然を破壊してきたとも述べている。何が悪で何が悪でないのか。巧は「大切なのはバランスだ」と言う。
巧は髙橋と黛に、グランピング場建設予定地は鹿の通り道だと語る。鹿が人間を見ればすぐに逃げ出すのなら、鹿はその道を通らなくなるかもしれないと髙橋は言い、巧が、じゃぁ鹿はどこに行くのかと尋ねると、髙橋はどこか別のところへと答える。
この会話自体は、グランピング建設計画で、会社側と住民側の間で、なんとか歩み寄れるポイントはないか模索している中でのもので、髙橋の答えも熟考されたものでなくほとんど習慣的な反応に過ぎなかったろう。本作の全てにおいて、だれも「悪気はない」のだ。
だが、このあと、三人の乗る車は、林の影の多い道へと入り、やがて、巧の顔に影がかかり、一瞬、彼の顔は暗くて見えなくなる。この後、夜にさしかかる場面が出てくることになるのだが、月が出ていたり、夜空も青みがかっていたりして、この車の中の影ほど、暗いシーンは他にない。暗いというよりは、もう完全に黒なのである。
巧の表情を見えないようにしたのはなぜか。彼は相変わらずポーカーフェイスのままだったのではないかと推察されるのだが、それでも顔を覆ったのはなぜか。
ラストの出来事自体は、「もしもあの時」という偶然が積もり積もった結果、起こった出来事と言えるかもしれない。プレイモードの二人がやって来なければ、花が森をひとりで歩き回らなければ、そもそも巧が花の迎えの時間を忘れなければ、というように。
しかし、あの出来事は、自然を商品に貶めることに対する謙虚さの欠如、環境を支配しようとする人間の傲慢さがもたらすものの代償として象徴的に描かれたものではないのか。
先ほど「悪気はない」という言葉を使ったが、実際、本作に登場する誰かを悪人と指定することはできないだろう。それでもこの作品のタイトル「悪は存在しない」は反語的な使われ方をしているといわざるをえない。ここでの「グランピング」のような自然の摂理と著しくバランスを逸した突貫工事的な計画はいつも性懲りもなく立ち現れて来る。巧はそうしたものの代償として何かが起こることを咄嗟に予知したのかもしれない。
濱口監督は常に絶妙な会話劇を構築してきた作家だが、本作もまた、説明会での企業と住民とのやり取りや、車内での会話などは、それぞれの経験や考えをリアルに伝えていて、まるでドキュメンタリーを観ているかのような面白さだ。映画を観る者もやすやすとその中に取り込まれ、まるで自分もあの集会所に座っていたかのような気分になりさえする。
住民のひとりは、グランピングを訪れる人々はストレスを投げ捨てに来るのだと語る。それはここで生活している人間とは真の交流は生まれないことを意味し、昨今、問題になっているオーバーツーリズムとも深く繋がっているようにも思える。
一方で、ラストの数分はほぼ言葉がない。見せるもの、見せないもので全てを表現している。この衝撃的な数分間に、自然の摂理に従うとはどういうことなのかが鮮やかに詰め込まれている。
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