『CURE キュア』(1997)、『回路』(2001)、『ドッペルゲンガー』(2003)などオリジナルの作品を送り出しJホラーに多大な貢献を果たして来た黒沢清監督。
映画『Chime』は、料理教室の講師として働く男に起こる超然とした恐怖を描き、観る者を悪夢の世界へ引きずり込む42分の作品だ。
料理教室の講師、松岡を吉岡睦雄が演じ、松岡の妻を田畑智子、刑事役を渡辺いっけいが演じている。
映画『Chime』はDVT(デジタル・ビデオ・トレーディング)プラットフォーム・Roadsteadオリジナル作品第1弾として製作・限定販売され、その後、2024年8月2日より全国順次公開中。
第 74 回ベルリン国際映画祭ベルリナーレ・スペシャル部門出品作品。
目次
映画『Chime』作品情報
2024年製作/45分/R15+/日本映画
監督・脚本:黒沢清 プロデューサー:川村岬、岡本英之、田中美幸 共同プロデューサー:村山えりか 撮影:古屋幸一 照明:酒井隆英 録音:反町憲人 美術:安藤秀敏 スタイリスト:清水奈緒美 ヘアメイク:有路涼子 VFXプロデューサー:浅野秀二 VFXディレクター:横石淳 リレコーディングミキサー:野村みき サウンドエディター:大保達哉 編集:山崎梓 音楽:渡邊琢磨 キャスティング:北田由利子 助監督:成瀬朋一 制作担当:大川哲史 配給:Stranger
出演:吉岡睦雄、小日向星一、天野はな、安井順平、関幸治、ぎぃ子、川添野愛、石毛宏樹、田畑智子、渡辺いっけい
映画『Chime』あらすじ
料理教室の講師として働く松岡卓司は、有名レストランのシェフになることを切望している。
ある日、生徒の1人である田代が「頭の中でチャイムが鳴って、誰かがメッセージを送ってきている」と、不思議なことを言い出す。
松岡はまともに取り合わず、料理に関する簡単なアドバイスだけをしてその場をしのぐが、別の日、田代は今度は「僕の脳の半分は入れ替えられていて、機械なんです」と言い出し、それを証明すると叫んで包丁で自分自身を切り付け絶命する。他の生徒は悲鳴を上げながら逃げ惑い、松岡は驚きの余り、腰をぬかしてしまう。
田代の事件のあと、生徒たちが皆やめてしまったのか、その日の生徒は菱田明美ひとりきりだった。いつもの調子で淡々とレッスンを続ける松岡だったが、明美は丸鶏が気持ち悪く、調理したくないと言い出す。
「では切らなくてもいいですよ」と松岡があっさりこたえると、明美は納得するまで説明して欲しいと屁理屈をこね出した。
松岡は彼女のそばにいき、おもむろに包丁を振りかざし・・・。
翌日、出勤してきた松岡を料理教室のスタッフが出迎えた。菱田明美が家に帰らず、行方不明になっていると言う。
ところが、もう一人のスタッフが階段を降りて来て、「菱田さん、もう教室に来ていますよ」と言うではないか。
あわてて、教室に向かった松岡にスタッフは「ほら、あそこ」と指を指す。ところが菱田の姿はない。松岡は混乱するが、その時、スタッフが恐怖に顔を引きつらせ叫び始めた。彼女の視線の先を追った松岡もまた恐怖で顔をゆがめた。一体何が起こったのか。そして何が起ころうとしているのか。
映画『Chime』感想と評価
スクリーンに映し出される何かよくわからない空間がビルの天井部分だと判明した途端、カメラはゆるゆると下降し、ドアの向こうで料理教室が開かれている光景が現れる。その冒頭から、映画は観る者をひどく不安にさせる。
料理教室という平和で楽しそうな空間が、「黒沢清によるホラー」ということを念頭に置いた途端、あっという間に危険極まりない不穏な空間に変貌する。料理教室に包丁があるということがこれほど恐ろしいとは。一体何が起きるのか。ビルの外を電車が通過するたび、光が部屋の壁を走って行く光景に魅了されながら、来るべき悲劇に戦々恐々となる。
そして実際に悲劇は起きる。まず、明らかに様子がおかしい一人の若い男性が奇妙なことを口走った挙句、自殺し、次いで、料理教室の講師であり、本作の主人公である松岡(吉岡睦雄)が若い女の生徒に何度も包丁を振り下ろし、殺害してしまう。
前者の死は、彼が「脳の中が入れ替えられている」という妙なことを口走っていたことから、人間の複製を造り上げ、本物と入れ換わっていく異性生物による侵略を描いたドン・シーゲル監督の出世作『盗まれた街/ボディ・スナッチャー』(1956)を想起させる。
また、後者の松岡の犯罪は、場当たり的に見える分、『CURE キュア』の萩原聖人扮する間宮邦彦のような存在を想像させる。松岡が有名レストランの面接を受けていたカフェで、突然、男が隣の席の女性をナイフで襲おうとするエピソードもあり、それもまた、間宮のような何者かの存在の可能性を思わせる。
だが、本作ではそのような謎の解明はなされないし、筋の通った展開もないに等しい。唯一一貫しているのは松岡という人物の性格で、彼は他者とのコミュニケーションを取れないのか、あえて取ろうとしないのかは判然としないが、他者の声に耳を傾けず、面倒なことは全て避け、一方的な会話を行うだけなのだ。とにかくこの男は、自分を煩わせるものに耐えられないのだ。
松岡には妻子がいて、3人は一見、仲睦まじく食卓を囲むが、すぐに機能不全家族であることが見えて来る。松岡と中学生の息子の会話を聞いた妻(田畑智子)はおもむろに立ちあがり、空き缶を詰めたゴミ袋を中庭に持ち出し、リサイクルボックスにぶちまけ、空き缶を踏みつぶし始める。この行動はその後も何度か登場し、その心をかき乱すけたたましい音は家の中にいる松岡のところにも当然響いている。
それは『CURE キュア』に登場する洗濯物が入ってないのにも関わらず回され続ける洗濯機の轟音のバリエーションである。
だが、松岡の性格、崩壊した家族、自分の地位への不満といった彼の危機的状況が物語の不可解さを説明してくれるかもしれないと期待しても無駄だ。彼はさらなる恐怖に直面することとなる。
黒沢清はかつて「幽霊」を描くのに、人間には似ているが、人間が絶対行わないような奇妙な動きをする異形の存在を生みだした。『回路』や、ドラマ「学校の怪談」シリーズの一つ『花子さん』(1994)などの作品で観られるものだ。一方で、『岸辺の旅』(2015)になると、死んだはずの夫が変わらぬ姿で突然現れたりもする。
だが、『Chime』では、「幽霊」はそのような形では登場しない。長回しで教室を巡っていたカメラは、片隅に置かれた椅子をとらえるが、そこには誰もおらず、料理教室のスタッフの女性は首をかしげるのだが、すぐに恐怖で叫び始め、松岡も悲鳴を上げ始める。一体彼らは何を観たのか。ここでは決定的なものが大胆に省力されている。人間の恐怖とはその正体がわからない者に対して堅調になるものだが、見せないということがこれほど恐ろしいとは。
本作で黒沢清が証明したのは、作品を観る者が、省略されているものを補おうとして発揮する想像力こそが、ホラー映画において最も重要であるということだ。
人をこわがらせるには、その想像力をフルに発揮させるものを巧みにおぜん立てすればよい、という信念のもと、本作は構成されている。
その手の内にまんまとはまった我々は、終盤の松岡の家のチャイムがなるシーンの緊張感に耐えられなくなる。チャイムが鳴ってドアをあけるという単純な、ごくごくありふれた日常的な光景をこんなに恐ろしく感じることになろうとは誰が想像しただろう。
ドアを開けても誰も(何も)立っていないのはある意味常套手段だが、通常のサスペンス、またはホラー作品がその後、不意を突くようなショックシーンを用意するのに対して、本作ではドアを開けた途端、耳をつんざく激しいノイズが響く。
どんな音が人間の心の不安を増大させるのかを計算し尽くしたような不快な音だ。
カメラは松岡の視線となって右に振り、左に振り、あたりを見回して、やがて家に戻って行く。そこには黒沢映画でお馴染みのカーテンが光を浴びてフレームに納められている。
何かが見えるようで見えない。でも何かが決定的に変わってしまったことは確かだ。そして私たちはその後に続く悲劇を早くも想像し始めていることに気付くだろう。
(文責:西川ちょり)