2018年に発表した『そして、バトンは渡された』で本屋大賞を受賞するなど、多くの読者の心を掴んでいる小説家、瀬尾まいこの同名小説を、長編映画デビュー作『やくたたず』以来、一作ごとに映画ファンの心をくすぐり続け、『ケイコ 目を澄ませて』(2022)で第72回ベルリン国際映画祭ほか20以上の映画祭に出品されるなど国内外で高い評価を受けた三宅唱監督が映画化。
人には理解されにくい疾患を持つ主人公二人に、NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』で夫婦役を演じた松村北斗と上白石萌音が扮し、素晴らしい演技を見せている。
共演は渋川清彦、芋生悠、光石研、藤間爽子、久保田磨希、足立智充、りょうら。『ケイコ 目を澄ませて』に続き、月永雄太が撮影を務め、16ミリフィルムで撮影された。
第74回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式招待作品。
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目次
映画『夜明けのすべて』作品情報
2024年製作/119分/日本映画
監督:三宅唱 原作」:瀬尾まい子 脚本:和田清人、三宅唱 製作:河野聡、牟田口新一郎、竹澤浩、中村浩子、 津嶋敬介、古賀俊輔、奥村景二、小山洋平、篠原一朗、池田篤郎、宮田昌広 プロデュース・企画:井上竜太 チーフプロデューサー:西川朝子 プロデューサー:城内政芳 撮影:月永雄太 照明:秋山二郎 録音:川井崇満 美術:禪洲幸久 装飾:高木理己 衣装:篠塚奈美 ヘアメイク:望月志穂美 編集:大川景子 音楽:Hi'Spec 音響効果:岡瀬晶彦 助監督:山下久義 制作担当:菅井俊哉
出演:松村北斗、上白石萌音、渋川清彦、芋生悠、光石研、藤間爽子、久保田磨希、足立智充、りょう、宮川一朗太、内田慈、丘みつ子、山野海、斉藤陽一郎
映画『夜明けのすべて』あらすじ
月に1度、PMS(月経前症候群)の影響で気分がふさぎ、他人に厳しい態度を取ってしまう藤沢美紗は、大学卒業後に就職した大手の会社もそのせいで、わずか二か月で辞表を出さざるを得なくなってしまう。
それから5年後。美沙は栗田科学という科学工作玩具の開発、制作、販売を行う会社で、商品管理を任されていた。職場の人たちは、PMSのことも理解してくれており、勤め出してから3年が経とうとしていた。
最近、転職してきたばかりの同僚・山添孝俊は、もの静かな、どちらかといえば不愛想な青年で、よく炭酸水を飲んでいたが、その日、PMSで苦しんでいた美沙は、炭酸水の栓を開ける音がストレスになって、彼にひどいことを言ってしまう。
孝俊は以前勤めていた会社の上司、辻本とビデオ通話をしながら、会社に復帰できないか相談していた。今日の出来事もまったく理解できなかったが、そもそも今の仕事を好きになれそうになかったからだ。
そんな或る日、孝俊が仕事中、発作を起こし、早退することになった。美沙は孝俊がパニック障害を患っており、生きがいや、気力をなくしていることを知る。
社長に言われて、孝俊を家まで送った美沙は孝俊に自分がPMSであることを告げるが、孝俊は、PMSとパニック障害は全然違って同列のものと考えるのは無理があると言う。発言の趣旨を理解した美沙は「PMSはまだまだだね」と笑って会社に戻って行った。
美沙は、孝俊がパニック障害を患ってから電車に乗れなくなったことを知り、しばらく使っていなかった自転車を磨いて、使ってもらおうと孝俊の家を訪ねた。
孝俊は自転車を一目見て、いらない、必要ないと即答するが、美沙は孝俊の格好の方が気になったようだった。ちょうど孝俊は自分で髪を切ろうとしていたところだったのだ。彼はパニック障害になってから散髪屋に行くことも出来なくなっていた。
美沙が髪を切ることを提案し、孝俊は半信半疑でそれを受けたのだが、美沙はざっくり切りすぎてしまう。写メで確認した孝俊は、あまりのひどさに思わず笑い出してしまう。
一か月に一度のメンタルクリニックの診察にやって来た孝俊は、医師に「PMS」について教えて欲しいと頼み、医師から関連本を貸してもらう。
少しずつ理解を深めていく美沙と孝俊。栗田科学が毎年行っている移動式プラネタリウムの司会を美沙が行うことになり、孝俊が、資料を集めて原稿を作ることになった。類型的な言葉ではなく、どうすれば宇宙について、宇宙と私たちについて伝えることが出来るだろう。二人は話し合いを重ねる。
社長は、長年、閉め切っていた倉庫を開け、共同経営者で20年前に自死した弟が遺した宇宙について探求した資料を孝俊に見せてくれた。
その頃、美沙はパーキンソン病を発症し歩くのが不自由になった田舎の母を看護するため、転職を考え始めていた・・・。
映画『夜明けのすべて』解説と感想
重い症状が一か月に一回必ずやってくる藤沢美沙(上白石萌音)と、いつ発作が訪れるかわからない不安を抱える山添孝俊(松村北斗)。人には理解されにくい疾患を抱え生きづらさを感じている男女が、お互いを理解することによりフォローし合える関係を築いていく。映画『夜明けのすべて』はこの上ない優しさに満ちた映画だ。
何か劇的な事件が起こるわけでもなければ、二人の関係が恋愛になることもない。日常が淡々とした調子でスケッチされていくのだが、その日常の光景がなんと豊かに感じられることだろう。
二人にとってPMSとパニック障害は、それぞれ終わりの見えない恐怖であり、そんな彼らの不安や苦しみも丁寧に描写されるが、映画はあくまでも優しく、暖かく、時にユーモラスに二人を包み込んでいる。
二人が勤める栗田科学の社屋は、朝は明るい光が差し込んで来て、職場の人々の温かさとシンクロしているようだ。
疾患を抱えている人の本当の辛さを理解することは難しくても、受け止めて歩み寄ることは出来る。ひとりひとりのちょっとしたフォローがあれば、人は少し生きやすくなる。
栗田社長(光石研)も孝俊の元上司である辻本(渋川清彦)もそれぞれ、弟、姉を自死で亡くした哀しみを胸に秘めている。誰もが何かを抱えて生きているし、痛みを知っているからこそ、人は誰かに優しくできる可能性を秘めている。
これは映画によるささやかだけど確かな提言ともいえるだろう。平和な世の中を作るというのはどういうことなのか。本作は、一見おとなしい顔をしているが、実は最も政治的な作品なのかもしれない。
「栗田科学」という存在が、明らかに青山真治の『サッド・ヴァケイション』(2007)の「間宮運送」を継承していると感じた方も多いだろう。光石研と斉藤陽一郎がキャスティングされているとなるとなおさらだ。
「継承」は本作の大きなテーマのひとつだ。移動式プラネタリウムのイベントのために、美沙と孝俊がよりよいものを作ろうとすることで、かつて、社長・栗田和夫の弟・康夫(斉藤陽一郎)が取り組んでいた宇宙への探索の膨大な資料を目にすることになる。彼らがイベントを手堅くまとめるだけで終わらせていたら、このちょっとした知的な財産は誰の目にも留まらず、倉庫の中でずっと眠り続けていただろう。
康夫が遺した「夜についてのメモ」は美沙によってイベントに参加した人々に披露され、夜明けについて、人生について、しみじみとした思いを私たちに抱かせる。
「継承」という意味では、美沙が会社の人たちにおみやげを買う行為は、いつの間にか、孝俊に引き継がれている。美沙のこの行為は月に一度の症状で迷惑をかけたと感じた際、お詫びとして行っている面も強いのだが、正月に地元で余分に買ったお守りなどを見るにつけ、彼女は人が喜んでくれるのを見るのが嬉しいのだと思う。勿論、見返りを求めたり、お礼を言ってほしいからではない。人間は誰かのために何かすることで幸せを感じられる生き物なのだ。
引きの固定カメラで延々と長回しで撮っている見事なラスト。一番最後に社屋から出て来た孝俊が、「コンビニに行くんですけど、何かいるものありますか?」と言っている声がかすかに聞こえて来る。この時、美沙は転職して既にいないのだけれど、かつて美沙がいた気配だけが仄かに漂っているように感じられる。
美沙の姿は、劇中、中学生が放送部の課題で制作した栗田科学のドキュメンタリー作品の中にも残されている。誰かが居た証が残る、それがフィクションであろうと、ドキュメンタリーであろうと、それこそが映画の神髄であり、あぁ、映画っていいなと思える瞬間だ。
原作にないプラネタリウムという題材は、間違いなく、私たちの視野を広げてくれる。果てしない宇宙の中では、人間、ひとり、ひとりの存在はちっぽけな取るに足りないものだとも言えるが、この広大な世界の一員であると考えれば、孤独ではないとも感じさせてくれる。
孝俊が発作を起こして早退する際、美沙と並んで歩いていると前からやって来てすれ違う自転車に乗った三人組の女子高生や、孝俊の恋人の大島千尋(芋生悠)が、順番待ちの飲食店の店先で孝俊に電話している時に、背中を向けて通り過ぎていく数人の人々など、これから知り合うこともないだろう名もなき人たちの存在すら気になってしまうのは、まさにプラネタリウムのもたらす効果かもしれない。
映画を観ながら、心がじわりと温まる瞬間を何度も感じたが、そのたびに、まぁ落ち着きなさいと言うかのように静かな自然を捉えた景色や、遠くを電車が通過していくショットなどが挿入される。『ケイコ 目を澄ませて』にも様々な魅力的な景色が挿入されていたが、それらとは雰囲気が全く違っている。慈愛に満ちたというのだろうか、冷たさが一切感じられないショットばかりだ。
冒頭のポツポツと街灯が灯っただけのまさに夜明けのビル群の光景から始まって、鮮やかに煌めく夜の摩天楼の風景、そして、自動車のフロントガラスに降りつける雨の雫が時折きらっと光る瞬間すら、とてつもなく愛らしく美しい。