第70回読売文学賞を受賞した、平野啓一郎の同名小説を、『愚行録』(2017)の石川慶(監督)、向井康介(脚本)コンビで映画化。
ある男性と再婚した女性は、家族4人で幸せな暮らしを送っていたが、夫が事故で急死。親族に連絡を取ると、夫は彼が名乗っていた人物ではなかったことが判明する。では、夫は一体誰なのか、なぜ、他人の名前を名乗っていたのか?
女性から亡くなった夫の身元調査をして欲しいという相談を受けた弁護士は、様々な人々と接触し、男の過去へと近づいていくが・・・。
主人公の弁護士を妻夫木聡、依頼者を安藤サクラ、夫“大祐”を窪田正孝が演じ、映画は人間のアイデンティテイーの領域へと踏み込んでいく。
目次
映画『ある男』の作品情報
2022年/121分/G/日本映画
原作:平野啓一郎 監督・編集:石川慶 脚本:向井康介 撮影:近藤龍人 照明:宗賢次郎 録音:小川武 美術:我妻弘之 装飾:森公美 ヘアメイク:酒井夢月 VFXスーパーバイザー:赤羽智史 特殊メイク:中田彰輝 音響効果:中村佳央 音楽:Cicada 助監督:中里洋一 スクリプター:藤島理恵
出演:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、眞島秀和、小籔千豊、仲野太賀(太賀)、真木よう子、柄本明、坂元愛登、河合優実、カトウシンスケ、きたろう
映画『ある男』あらすじ
里枝は2人の子供のうち下の子を病気で失くし、そのことをきっかけに夫とうまくいかなくなり離婚。上の子・悠人を連れて故郷の宮崎に戻り、実家の文房具屋を手伝っていた。
そこにある日ふらっと現れたのが、谷口大祐だった。彼はスケッチブックを購入し、その後も時々やってきては、鉛筆や画材を買っていった。
大祐は、最近こちらにやってきて、林業の職についたばかりだった。市役所の職員は、伊香保温泉の旅館の御曹司がなぜこんな遠くまでやってきたのかと訝しがっていたが、勤務態度は極めて真面目で、飲み込みも早かった。
ある日大祐はこれまで描いた絵を里枝に見せにやってきて、「友達になってください」と里枝に向かって名刺を差し出した。やがて二人の仲は深まり、結婚。女の子が生れた。
四年後、家族四人は幸せな家庭を築いていた。悠人もよく大祐に懐き、時々大祐の仕事に遊びに行くこともあった。
ところがある日、一人で木を切っていた大祐は足を滑らせて転倒してしまい、落ちてきた大木の下敷きになって亡くなってしまう。
それから一年。一周忌の法要の日、長年疎遠になっていた大祐の兄・恭一が訪ねてきた。大祐が生前、連絡をしたがらなかったこともあり、葬式のときは、あえて報せなかったのだが、墓のこともあり、里枝が連絡をとったのだ。
恭一は特に悲しそうな様子も見せず、お線香をあげさせて欲しいと仏壇で手を合わせたあと、遺影がないと言い始めた。里枝は意味がわからず、目の前の大祐の写真を指差すが、恭一は「これ、大祐じゃないです」と言い放つ。
愛したはずの夫「大祐」は、まったくの別人だったのだ。
では夫は一体「誰」だったのだろうか。里枝は前夫との離婚訴訟の際に世話になった弁護士の城戸に相談し、夫「大祐」の身元調査を依頼することにした。
城戸は、まず本物の谷口大祐と関係のあった様々な人物に連絡を取り、話をきくが、そこから浮かび上がってきたのは、「戸籍交換」という驚くべきものだった。交換の斡旋を請け負ったという男を城戸は訪ねていくが・・・。
映画『ある男』感想と評価
冒頭、画面に登場するのは、シュルレアリスムの画家ルネ・マグリットの「複製禁止」という絵画だ。
人物の前に置かれた本は鏡に正しく映っているのに、鏡に映った人物は、手前の人物と同じように背中を向けている。まるで、背中を向けた男が二人、縦に列をなしているように見える。
この絵画は、後になって再び登場する。
今度はその絵画を観る男が加わることで、縦にまるで三人の男が並んでいるかのように見える。この強度なショットには少なからず畏怖を覚えてしまうし、映画を見終えたあともそのショットの意味するところに、複雑で落ち着かない感情に陥ってしまう。
この絵画が象徴するように、本作は、人間の存在そのものを問う作品となっている。「自分は一体何者なのか?」という一種、形而上学的な問いが、ミステリーという形を取ることで、スリリングに提示されていく様は圧巻だ。
他人の名前を名乗っていた男の幼年期からの悲痛な人生が弁護士の調査によって徐々に明らかになっていくが、違う人間にならなければ生きられないという人が存在することを全身で表現する窪田正孝が素晴らしい。
また、その過程で、妻夫木聡扮する弁護士が経験する様々な感情にも私たちは心揺さぶられることになる。中には暖かな感情も存在するが、その多くは負の感情のように見える。
弱者への思いやりの無さ、差別主義的な発言など、今の日本人に度々見られる、無意識に(なかにはわざと)他人を傷つけるマジョリティの奢りが、会話の節々に現れ、妻夫木の心に蓄積されていく。
決して彼は相手に感情を見せないし、むしろ笑みさえ浮かべているくらいなのだが、そこに、はちきれんばかりの怒りが渦巻いているのを私たちは確かに“観る”のだ。
一見、問題ないように見える妻夫木の家庭も実は妻夫木の心情に沿わないプチブルジョワの価値観で彼を縛り付けている。彼は、謎の男の調査の中で、自身の息苦しさを自覚していく。
石川慶の演出は基本的に静かなトーンを貫きながら、人間のアイデンティテイーという問題に深く踏み込んでいる。その一方で安藤サクラとその息子の関係にはある種の理想が織り込まれているだろう。
妻夫木聡、窪田正孝、安藤サクラ等、メインキャストはもとより、憎まれ役の眞島秀和、怪演の柄本明、予想以上の存在感を放つ小籔千豊など、役者の力量も際立っており、ここ数年の日本のメジャー映画の最高峰と言ってもいい出色の出来に仕上がっている。