『羽生結弦は助走をしない』などの作品で知られるエッセイスト・高山真の自伝的小説『エゴイスト』を、『トイレのピエタ』(2015)、『ハナレイ・ベイ』(2018)の松永大司監督が映画化。
ファッション誌の編集者の浩輔(鈴木亮平)と、パーソナルトレーナー・龍太(宮沢氷魚)の恋物語は、やがて“母”という存在を交えながら、「愛」とは何かという主題に発展していく。
男性同性愛のカップルを主人公にした本作は、当事者の声をもとに、性愛描写も含め、細部にわたるまでリアルな描写に努め、日本のクィア映画として非常に完成度の高いものに仕上がっている。
目次
映画『エゴイスト』の作品情報
2023年製作/120分/R15+/日本
監督:松永大司 脚本:松永大司、狗飼恭子 企画:明石直弓 プロデューサー:明石直弓、横山蘭平、紀嘉久 ラインプロデューサー:和氣俊之 撮影:池田直矢 照明:舘野秀樹 録音:弥栄裕樹、小牧将人 サウンドデザイン:石坂紘行 美術・装飾:佐藤希 スタイリスト:篠塚奈美 ヘアメイクデザイン:宮田靖士 ヘアメイク:山田みずき 久慈拓路 編集:早野亮 音楽:世武裕子 LGBTQ+inclusive director:ミヤタ廉 助監督:松下洋平 制作担当:阿部史嗣
出演:鈴木亮平、宮沢氷魚、阿川佐和子、中村優子、和田庵、ドリアン・ロロブリジーダ、柄本明
映画『エゴイスト』あらすじ
14歳の時に母を失った斉藤浩輔は、憎むほど嫌いな田舎町で、ゲイである自分の姿を押し殺しなから思春期を過ごした。
今は東京の出版社でファッション誌の編集者として働き、気の合う友人たちときままな時間を過ごしている。
そんな中、浩輔は友人からパーソナルトレーナー中村龍太を紹介され、トレーニングを受けることになった
初めてのトレーニングが終わって、喫茶店で浩輔に食生活のアドバイスをした龍太は、病気の母親を養うために今は仕事を掛け持ちしているが、ゆくゆくはトレーナーだけで食べていきたいと語る。
帰り道で寿司屋の前を通った隆太はメニューを見に駆け寄るがすぐ戻ってくる。母親に買って帰ろうと思ったのだが値段が高くて買えなかったのだ。
二回目のトレーニングが終わった際、浩輔は隆太に寿司の入った紙袋を「お母さんに」と言って手渡した。最初は遠慮していた龍太も申し訳なさそうに受け取った。
ふたりで歩道橋を上がっていると龍太が突然キスをしてきた。驚く浩輔に隆太は「浩輔さんは魅力的です」と言って微笑んだ。
その後、浩輔のマンションに移動したふたりは体を重ね、恋人同士になった。
ところが、しばらくして、浩輔は龍太から「終わりにしたい」と告げられ、愕然とする。
龍太は母との暮らしの生計をたてるため、ずっと「売り」をやってきたと告白した。これまでは平気だったのに浩輔にあってから割り切れなくなって苦しいのだと胸のうちを明かした。
それ以後、連絡が取れなくなり、浩輔はネットで龍太らしき人物に目星をつけ、客として彼と会う。
浩輔は毎月10万円を渡すから売りをやめて一緒に頑張ろうと涙ながらに訴えた。
お金は受け取れないと首を振り続ける龍太を説得し、ふたりは再び、恋人同士に戻った。
龍太は、昼は産廃処理の仕事をこなし、夜は食堂の皿洗いに従事していた。浩輔は毎月10万円を龍太に渡し、龍太はいつも申し訳なさそうにそれを受け取った。
ある日、龍太の家に呼ばれ、緊張の面持ちでやって来た浩輔は隆太の母、妙子に温かくもてなされ、亡き母への思いがよみがえる。
しばらくして、妙子がヘルニアの手術をするため入院することになった。手術は成功し、妙子も無事退院。浩輔は龍太に歩いて通院するには病院は遠すぎるから龍太名義の車を買おうと思うと提案する。
少しは自分も負担するという条件で、龍太は同意し、とうとう納車の日がやって来た。
2人でドライブをする約束をしていたのにまだ現れない龍太に連絡を入れる浩輔だったが、電話に出たのは妙子だった・・・。
映画『エゴイスト』感想と考察
(ラストに言及しています。ご注意ください)
鈴木亮平演じる浩輔は、病気で働けない母を養うために仕事を掛け持ちしている宮沢氷魚扮する龍太に献身的な愛を見せる。
高級マンションで気楽な独り暮らしをしている浩輔と、ヤングケアラーで、生活費を稼ぐため(実は)セックスワーカーをして来た龍太の間には明確な経済的格差がある。そのため浩輔の献身の中には金銭の授与というものも含まれている。
龍太は浩輔から母への土産を受け取ること、金銭的援助を受け取ることに対して常に逡巡するが、最終的には浩輔に説得されている。
「エゴイスト」というタイトルを考えるに、おそらくこのあたりのことが最終的にふたりの問題として浮上してくるのだろうと予想していたのだが、物語はそんなありきたりな予想など簡単に踏み越えて、想像もつかなかった領域へと私たちを導いていく。
援助されることに関して、龍太自身は、感謝しながらもどこか戸惑い、負い目を感じていたかもしれないし、割り切ろうと自身に言い聞かせていたかもしれない。しかし、映画は龍太の気持ちにはあえて踏み込もうとしない。
私たちに見えている龍太は、浩輔の視点から見えた龍太なのだ。だから龍太が実際のところどのような感情を持っていたのかはわからないのだ。浩輔が見ていた、愛しくてたまらない龍太像を、宮沢氷魚が見事に演じている。
一方、手持ちカメラで人物に密着するように撮られた映像は、浩輔の感情を背負うかのような役割を担っていく。観る者は、龍太とその母親・妙子のために一途に尽くす浩輔の感情に呑み込まれていくのだ。
浩輔が龍太と深い恋愛関係になったのは、勿論、純粋な恋心から始まっているのだが(歩道橋の階段での龍太からのふいのキスの蠱惑的な感じと言ったら!)、龍太が病気の母を支えながら生きて来たことが大きな要因になっている。
もし、仮に龍太に病気の母がいなければと考えてしまうが、その問いは不毛というものだろう。龍太はそういう境遇にあったのだから。
偏見の塊のような田舎で思春期を居心地悪く過ごした浩輔にとって、母の存在はかけがえのないものだったのだろうと想像できる。その母が病で亡くなった時の無常観は今でも彼の胸の中に消えないでいるのだろう。
大嫌いな田舎にも関わらず仏壇に線香をあげるためだけに足繫く帰る浩輔の姿から彼の母に対する思いの強さが伝わってくる。
そうした点から判断すると、龍太と彼の母親は、浩輔にとって「喪失を埋めるための代替」ではないのかと考えることもできるのだ。
このあたりのことは、鈴木亮平自身が映画のパンフレットのインタビュー記事内で、「僕自身の解釈としてお話したい」と前置きし、次のように語っている。
浩輔は龍太と妙子さんのことを愛してはいるけれど、それはおそらく二人に自分と母を重ねているからであって。ひょっとすると龍太よりも妙子さんのことを、さらにその先にいる自分の母のことを愛しているのかもしれない。そういったことを高山さんはエッセイの中でご自分で分析されていて。この映画ではお金を渡すことが一番わかりやすいエゴに見えるかもしれませが、浩輔が自覚していたエゴの内には、自分は100%純粋に龍太を愛していたわけではなかったという意識も含まれているかもしれません。(後略)
「エゴイスト」というタイトルの意味については、最早これ以上語る必要はないだろう。
しかし、映画の後半は、「代替」というだけでは言い表せない感情、もしくは、「代替」なんだけれど「愛」としか言えないもので画面が満たされていくのだ。
抑えられることのできない愛の感情を愛とは何かわからないまま阿川佐和子扮する妙子に注ぎ続ける浩輔。
感情を揺らす浩輔の姿を松永大司監督は、時に、自動販売機のお釣りの小銭が手につかないといった身振りで表現して見せる。鈴木亮平の凄さはもう改めて表記する必要もないだろう。この小銭ばら撒きのエピソードは、映画の序盤、喫茶店で龍太が見せた姿の反復でもある。
終盤、末期癌を宣告され入院している妙子を毎日のように見舞う浩輔。そんな彼に同部屋の患者は「息子さん?」と毎回尋ねている。そのたびに「違います」と笑って答えていた浩輔だったが、ある日、「息子さん?」と尋ねる患者に妙子は「そうなの」と笑顔で応えてみせるのだ。
妙子にとっても、浩輔の献身はありがたいと感謝しながらもどこかうしろめたいような、心苦しい部分があったに違いない。浩輔からマンションで一緒に暮らそうと提案された際も断ったように守りたい境界もあったろう。それは一人の人間の矜持でもあった。
浩輔が自分に、彼の母親像を投影していることにもおそらく気が付いていただろう。
だが、今彼女は、そんな遠慮や葛藤を全部とっぱらい、浩輔の気持ちにまっすぐに応えることを選んだのだ。
勿論、龍太同様、彼女の本当の心の内はわからないし、あくまでも想像するしかないのだけれど、それでも、このたった一つの言葉によって、一つの愛が受け入れられる瞬間を私たちは目撃したのである。