デイリー・シネマ

映画&海外ドラマのニュースと良質なレビューをお届けします

映画『見はらし世代』あらすじと評価|団塚唯我監督の鮮烈な長編デビュー作

第78回カンヌ国際映画祭〈監督週間〉に日本人史上最年少で選出された新鋭・団塚唯我による長編映画監督デビュー作『見はらし世代』(2025)。

再開発で変わり続ける東京・渋谷の街並みと、ひとつの家族の10年の記憶を重ね合わせた本作は、静かで深い余韻を残すヒューマンドラマだ。

『さよなら ほやマン』(2023)の黒崎煌代が主人公の長男、蓮を演じているほか、『わたし達はおとな』(2022)、『熱のあとに』(2024)などの木竜麻生遠藤憲一井川遥ら実力派キャストが集結。

 

youtu.be

 

再開発によって馴染んだ風景が失われていくように、家族の記憶も変化していくのだろうか? 痛みを伴う感情が、派手な演出や過剰な説明を排し、静かな映像の積み重ねによって語られていく。

目次

 

映画『見はらし世代』基本情報

映画『見はらし世代』

作品名:『見はらし世代』

製作年:2025年

監督・脚本:団塚唯我

出演:黒崎煌代、木竜麻生、遠藤憲一、井川遥、菊池亜希子、吉岡睦雄、中村蒼、中山慎悟等、蘇鈺淳、服部樹咲

上映時間:115分

映画祭:第78回カンヌ国際映画祭〈監督週間〉正式出品

ジャンル:ヒューマンドラマ/家族映画

 

映画『見はらし世代』あらすじ(ネタバレなし)

映画『見はらし世代』

渋谷で胡蝶蘭の配送ドライバーとして働く青年・蓮(黒崎煌代)は、ある日、配達先で父・初(遠藤憲一)の姿を偶然目にする。

母・由美子(井川遥)の三回忌を終えたあと、父は蓮と姉の恵美を残してひとり海外へと活動拠点を移し、成功を手にしていたが、いつの間にか帰国していたらしい。

 

姉・恵美(木竜麻生)が結婚を控え、現実と折り合いをつけながら生きている一方、蓮は父への怒りと悲しみに囚われ続けていた。

やがて3人は、10年前の家族旅行の思い出の場所へと導かれるように集い、過去と現在が交錯していく——。

※当サイトはアフィリエイトプログラム(Amazonアソシエイト含む)を利用し適格販売により収益を得ています。

 

作品の特徴と見どころ

映画『見はらし世代』
街の再開発と家族史を重ねた構造

東京・渋谷の街並みが再開発によって変化していく姿と、バラバラになってしまった家族の時間が巧みに重ねられている。きらびやかな都市景観と登場人物たちの沈んだ感情との対比が成される中、街が変わるように、家族も変わって行くのかがテーマのひとつになっている。

 

幽霊の登場がもたらす“静かな衝撃”

物語の後半、亡き母・由美子が姿を現すシーンは、ホラー的な演出ではなく、あくまで自然で穏やか。都市の光の中に“記憶”が再び姿を現すことで、家族の物語は静かにクライマックスを迎える。

 

団塚唯我監督の鮮烈な演出

26歳の若さでカンヌに選出された団塚監督は、カメラの距離感と構図によって、登場人物の感情を巧みに表現している。

渋谷の再開発という現代的テーマ、家族の喪失と再生という普遍的モチーフ、そして26歳の新鋭・団塚唯我監督による繊細な演出が見事に融合した一作。

 

映画『見はらし世代』感想と考察

変わりゆく都市の風景と離散した家族

映画『見はらし世代』

『見はらし世代』は、夏の休暇の家族旅行から始まる。

高速道路のサービスエリアの天井で明滅する電球を捉えたカメラはやがて緩やかに下降し、建物内の賑やかなフードコートへと私たちを導く。ゆるゆるとカメラが近づいていき、奥の方の席に座る遠藤憲一扮する高野初とその家族らしき姿が視野に入って来るが、カメラは一定の距離を置いたまま動かず、彼らがフードコートを出て車に戻る際も、初の妻(井川遥演じる由美子)が、車が2台通り過ぎるのを待つ間、他の家族より遅れをとっている光景をかなり引いた構図で撮っている。その間、既に自分たちの車のところまでやって来ている遠藤と子供たちは母の方には目もくれず、母親の孤独感を否応なく感じさせるショットになっている。

 

一行が別荘に着くと、まず母親がかなりの荷物を両手に持って画面から消えるが、車から出された他の荷物に子どもたちは一切手を触れようとしない。「お前たちも持てよ」と父に言われても、姉弟とも、何も持たずに行ってしまう。ありきたりと呼ぶにはどこか違和感のある光景が展開する。

 

それでも形なりにも家族そろった別荘での休暇が実現しかけていたところに、東京から初の仕事を左右するコンペに関する電話がかかってくる。初は、この機会が家族にとって経済的に安定する機会になると主張し、東京に戻る必要性を強調する。妻は始めこそ約束と違うと抵抗するが、やがて好きにすればよいと諦めたようにつぶやく。彼が家族よりも仕事を優先する人物であるのは明らかで、妻は自分の希望や願いが夫には通じないことをよく知っている。監督は、由美子の姿を一度もはっきりと映し出さないことで、二人の力関係を明確に描き出している。

 

物語は10年後へと飛び、一家はバラバラになっている。由美子は亡くなり(どうやら自殺らしい)、初は由美子の三回忌が終わったあと、ひとり海外へと赴任し、息子の蓮(黒崎煌代)は胡蝶蘭の配達員として働いている。娘の恵美(木竜麻生)は長年の恋人と結婚を前提に一緒に暮らし始めようとしている。

 

姉弟は既に成人しているが、とりわけ蓮は今も怒りと寂しさと罪悪感に苦しんでいる。蓮が配達の際、ガラス越しに父の姿を見た時に動けなくなってしまう様子がそれを端的に表している。恵美はもっと割り切った考えを持ち社会に適応しているように見えるが、自身の恋愛関係の行く末に懐疑的になり、安心が欲しいと望む様子は、明らかに彼女もまた傷ついていることを示唆している。

 

家族の休暇を引きの構図で、フードコートや駐車場などの風景と共に捉えていたように、子どもたちや日本に帰って来た父親の現在の生活を映画は変わりゆく東京の街並みの中で描いていく。

建築物のガラスやスチールが放つ煌めくような輝きに照らされた東京の夜と、登場人物たちが胸のうちに抱える怒りや憂鬱、罪悪感といった暗い感情が鮮やかな対比をなし、物語に深い象徴性をもたらしている。

街を再開発するということは、既存のコミュニティを失うことであると同時に、生まれ変わり未来を創るということでもある。変わり続ける街の景観を家族と重ね合わせて考えると、家族も何かを失うと同時に新しい何かを生むことが出来るのだろうか。

 

10年後のパートで、父の仕事がランドスケープデザイナーという肩書きであることがあきらかになるが、彼は都市の設計はできても家族生活を設計できない人間として皮肉な視点で描かれている。

 

また、苦しんでいる子供たちとは違い、初は何も変わっていないように見える。彼はホームレスの立ち退き問題で物議を醸している大規模再開発事業に従事しようとしており、反対する従業員に対して、かつて由美子に語った同じ台詞を使用し、彼女の言葉をはねつけている。他人の気持ちやが理解できず忠告を受け付けない彼の性格が良く表れているシーンといえるだろう。

 

修復不可能に見える「家族」だが、蓮が初と関わることになったのがきっかけで、「家族」は10年前、共に過ごした最後の痕跡となった場所へと引き寄せられていく。

 

自然な歩みで現れ、去って行く「幽霊」

映画『見はらし世代』

そこで思いがけないことが起こる。死んだ母が現れるのだ。映画はこの現象を描くために、あらかじめ、フードコートの電球に不思議な現象が起きるという伏線を貼っており、再会した父と子供たちのテーブルのすぐ傍に天井から電球が落ちて来たのを合図に母が、彼らの傍に歩いてくるのだ。

 

それはごく自然な歩みで、まるで生きているのと同じに見える。10年前の彼女はあまり顔が見えないように撮られていたが、今回は顔もはっきりと見え、晴れ晴れして元気そうにさえ見える。

幽霊らしくない幽霊という点では黒沢清の『岸辺の旅』(2015)の浅野忠信のようだが、違うのは、由美子の目には初しか映っておらず、子どもたちの存在に気づいていないことだ。

 

ごく普通に歩いて来て、ごく普通に歩いて人混みの中に消えて行く母の幽霊の自然さは、団塚唯我監督の2020年の短編作品『此処に住むの素敵』で描かれた天国を思い出させる。どこをどう観ても横須賀だという風景を逆手にとって、日常と変わらないけれどのどかなユートピアである「天国」という空間がそこには巧みに構築されていた。

 

ところで、黒沢清の名が出てきたので、本作と黒沢清の『Chime』(2024)との不思議な呼応についても述べておこう。『Chime』の冒頭部は、ビルの廊下の天井部分を映していたカメラがゆっくり下降し、ドアの向こうの料理教室を映し出すというもので、本作のオープニングと非常によく似ている。撮影は両作とも古谷幸一が務めており、そのことからもこれは偶然ではないように思える。団塚監督はあえて、このような指摘があるだろうとわかっていながら、同じ天井から始める必要があったのである。由美子の「幽霊」を登場させるきっかけとなる「電球の落下」という「仕込み」のためだろうと考えるのが自然だが、どうもそれだけではない気もする。

本作では高野家以外の登場人物にも個性的な人物が何人か登場するが、中でも印象的なのは、蓮が務めている贈答用の花屋の平田という男だ。この人物を演じているのが『Chime』で主演を務めた吉岡睦雄なのだ。

『Chime』は恐怖の正体を見せないことに徹することで、さらに恐怖を増幅させるという、「幽霊映画」として考えれば、本作とは真逆な作品なのだが、団塚は由美子の幽霊を登場させるのに際して、前述した『岸辺の旅』の「幽霊」よりも、『Chime』の「幽霊」を意識していたと言えるかもしれない。そういう意味でいえば、由美子の「幽霊」は私たちが感じた以上に「恐ろしい」存在なのかもしれない。

 

吉岡睦雄が演じる平田という男に話を戻すと、これがまた最高に嫌な奴で、蓮が平田からクビを言い渡されるシーンから始まるスラップスティックな見せ場は、本作の中でも異質な独特の空間を作り上げている。

そこから見えてくるのは、この「花屋」が息の詰まるような過酷な密室的空間であったことだ。だが、その中で蓮は、配送係を請け負っていたことで、その不自由な空間に閉じ込められることから逃れていたのだ。これはとても重要なことに思える。

 

恵美が弟のことを聞かれて「わたしから見ていつも動いている子」と例えたように、彼は、動く=移動する自由を持った人間なのである。思えば、この物語における家族の再会は彼の「移動力」(そんな言葉があるのなら)によって成り立っていたといっても過言ではない。彼は過去の呪縛からも、恐らくこの後、緩やかに脱して行くのだろう。

 

そうしてその「移動力」は、ラストに唐突に表れる、都市を軽やかに横断するLUUPの一行に流れるように受け継がれていくのである。

 

www.chorioka.com