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映画『パスト ライブス/再会』あらすじ・感想/ 愛がもたらす意味や形の変化を繊細に思索するセリーヌ・ソン監督の長編映画デビュー作

両親が海外移住を決めたため、仲の良かったクラスメイト、ヘソンと離れ離れになってしまった少女ナ・ヨン。12年後、ふたりはSNSで再会するがまもなく交流が途絶え、さらに12年の時を経てニューヨークで再会する・・・

 

映画『パスト ライブス/再会』は、韓国系カナダ人アメリカ人のセリーヌ・ソン監督自身の体験にもとづき、時を経て幼馴染に再会した男女のほとばしる感情を繊細に描いた愛の物語だ。

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Netflixドラマシリーズ『ロシアン・ドール 謎のタイムループ』(2019~2200)でメインキャストのひとりを務めて注目を集め、長編アニメーション映画『スパイダーマン スパイダーバース』(2018)など映画やTVアニメで声優も務めるグレタ・リーと、ロシア・フランス合作映画『LETO レト』(2018)やパク・チャヌクの『別れる決心』(2022)などの作品で知られるドイツ生まれの韓国人俳優ユ・テオが主演の二人を演じている。

 

「A24」と、『パラサイト 半地下の家族』配給の韓国CJ ENMの初の共同製作作品。

映画『パスト ライブス/再会』作品情報

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2023年製作/106分/アメリカ・韓国合作映画/原題:Past Lives

監督・脚本:セリーヌ・ソン 製作:ダビド・イノホサ、クリスティーン・ベイコン、パメラ・コフラー 製作総指揮:マイキー・リー 、セリーヌ・ソン 撮影:シャビアー・カークナー 美術:グレイス・ユン 衣装:カティナ・ダナバシス 編集:キース・フラース 音楽:クリス・ベアー、ダニエル・、ロッセン

出演:グレタ・リー、ユ・テオ、ジョン・マガロ

 

映画『パスト ライブス/再会』あらすじ

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幼い頃、ナ・ヨンは同じクラスのヘソンと仲良しで、いつも一緒に登下校していた。毎回成績が一番なのにその日は彼に負けて初めて2番になったナ・ヨンは泣いてしまい、ヘソンは自分は2番でもいつも泣いていないのに、と戸惑ったように彼女をなぐさめた。

 

両親がカナダへの移住を決めたため、ナ・ヨンは韓国を離れることになった。母親に会いたい人はいるかと聞かれたナ・ヨンはヘソンの名を上げ、「彼と結婚するの」と答えた。

 

公園で仲良く遊んでいるふたりを見守る母親たち。職業も安定しているのにどうして移住するのかと尋ねるヘソンの母に、ナ・ヨンの母は「失うものがあれば、新しく得るものもある」と答えた。

 

二人が会える最後の日、ヘソンはただ「さよなら」と言っただけだった。ナ・ヨンは家族四人でカナダのトロントに移住し、新しい学校に通い始めた。

 

12年後、ナ・ヨン(英語名ノラ)はニューヨークで劇作家を目指していた。ある日、ふとインターネットでヘソンを検索すると、なんと彼はノラの父親のFBに書き込みをしていた。ナ・ヨンを探しています、と。

 

ノラは、友だち申請を行い、「ナ・ヨンよ」と書き込んだ。二人はスカイプで再会し、時差をものともせず、スカイプで話をするのが日課になった。

 

会いたいという気持ちが募るものの、どちらも、自分のキャリアを変えようとする気配はなく、韓国からカナダ、さらにニューヨークにやって来て夢を叶えようとしているノラは、仕事に集中したいと考えるようになり、連絡を取り合うのをやめようと伝える。ヘソンもしぶしぶ承知した。

 

それからさらに12年後。ノラはユダヤ人の夫で作家のアーサーと結婚し、自身も劇作家として活躍していた。そんな中、ヘソンからニューヨークに行くという報せが入った。置き去りにしてきたと思っていた感情が静かに蘇る・・・。  

 

映画『パスト ライブス/再会』感想と解説

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24年前のまだ幼かった頃にカナダに移住したせいで仲の良かったヘソンと離れ離れになったナ・ヨン(英語名ノラ)は、12年後、SNSでヘソンが自分を探しているのを知り、スカイプで交流を始める。すぐに仲の良さを取り戻し、やり取りに夢中になったふたりはお互いに自国に来て欲しいと切望するが、それぞれ今の生活が忙しくて実現しない。やがてカナダからさらにニューヨークに移って夢を掴もうとしていたノラは、仕事に集中するために連絡し合うのをやめようと伝え、再び2人は疎遠になる。2人が次に会うまでにはさらに12年の年月がかかり、ノラにはアーサーという優しい夫がいた。

 

映画は、ニューヨークにやって来たヘソンと、ノラと彼女の夫アーサーがバーのカウンターに座って話をしているのを、部外者の誰かが、あの3人は一体どういう関係なのだろうと思索する場面から始まる。

 

もしかして三角関係なのではないか、と考えたのは、その部外者というよりは、夫のアーサー(『ファースト・カウ』のジョン・マガロ)である。彼は妻の元にヘソンが24年振りに会いに来ると聞いて、まるで自分は昔の恋人同士の仲をさいた悪い白人ではないかと苦笑するのだ。

 

ノラは勿論、否定するが、アーサーは自分たち夫婦のことを、モントークのアーティスト・イン・レジデンスで知り合い、たまたま2人とも独り身だったので、すぐ恋人同士になり、ニューヨークに住んでいたから高い家賃を節約するために同居し、グリーンカード取得のために結婚したと語る。

 

ここには2種類の「愛」があるというわけだ。ヘソンが長年、胸に抱いて来た純朴な「愛」と、ノラとアーサーの結婚に至るまでのある意味打算的な「愛」。アーサーの言葉には純朴な愛に打算的な愛はとてもかなわないじゃないかという自虐が込められているが、そもそも結婚となると多少の「打算」はつきものだし、打算であろうがなんであろうが、結婚に至ったこと、今二人が幸せでいることが大切なのは当然のことだ。逆にヘソンの愛は純朴過ぎるがゆえに、決して実らないのだとも言える。

 

映画『パスト ライブス/再会』は、れっきとしたラブストーリーではあるが、劇的でロマンチックな展開があるわけではない。好きという感情とその奥にある人間のアイデンティティや価値観、人生の選択についてしみじみと深く考察した作品なのだ。

 

ノラとヘソンの別離は、単に遠距離になったせいだとか、タイミングが合わなかったせいではなく、それぞれのアイデンティティや人生観の違いが大きく関係している。

 

ノラの一家がカナダに移住する際、ヘソンの母親は、ノラの母親に、ノラの父は映画監督で、母は画家として成功しているのにどうして移住するのかと尋ねている。また、ノラのクラスメイトも、なぜ移住するのかと何度も彼女に質問している。  

 

映画『ミナリ』が描いたような1970~80年代に夢を求めて大勢の韓国人がアメリカに渡った時代と比べると、現在の韓国は、皆が口々になぜ移住するの?と問う場所なのだ。国家は成熟し、経済的にも豊かに成長しているのにと。そんな疑問に対して、ノラの母親は「失うものがあれば新しく得るものもある」と答えている。芸術家としてさらなる高みを目指すがゆえの移住といえるだろう。

そうした両親の野心はノラにも受け継がれていて、劇作家として成功したいというノラの野心がヘソンとの二度目の別離を生むのである(なにしろ彼女は時代ごとにノーベル賞、ピューリッツア賞、トニー賞を目指しているとユーモアを込めて語る女性だ)。

 

そんなノラに対してヘソンは、ごく平凡な人生を送っている。酒を飲む友人は何十年も同じ顔触れで、彼がそうした古い仲間を大切にしていることが伺える。それはノラを思い続ける気持ちにも通じるだろう。逆に、兵役、就職などが、彼にとって辛いものであり、過去の思い出にすがっている部分があるともいえるかもしれない。

もし、あの時、ノラが移住していなかったら? それでも結ばれなかっただろうとは断言できないけれども、ヘソンがノラに「君は去って行く人だから」と語ったように、彼らには人生観に大きな隔たりがある。

 

ノラはアーサーにヘソンについて語る時、(おそらくほぼ無意識に)何度も何度も「韓国的」と言う言葉を用いる。ノラにとって彼の「韓国的」なところはある種カルチャーショックに似た驚きであり、自分はすっかりカナダ人、アメリカ人になってしまったという気持ちが滲み出ている。しかしヘソンはアーサーから「君は寝言を韓国語でしか言わない」と言葉をかけられ驚くことになる。ノラにとってヘソンはノラを唯一韓国名で呼び、ノラに韓国人としての自身のルーツを思い出させる存在なのである。

 

24年振りにふたりはニューヨークで再会する。ブルックリンのウォーターフロントや、自由の女神の観光フェリーといった定番の観光地が、撮影監督シャビエル・キルヒナーによってこれまで観たこともないような魅惑的な風景として浮かび上がる。

ウォーターフロントを歩くノラとヘソンの周りはよく観るとカップルだらけだ。その風景によって、逆にふたりの距離が見えて来る。「ハグ」という行動ひとつで、二人がまったく違う環境や価値観でこの24年間を過ごして来たことがわかる。別々の歴史を持ち、別々の道を歩んできた二人。ノラにとって現在のヘソンは実態のない存在であるともいえ、それを証明するかのように、カメラは、ニューヨークのホテルの部屋にいるヘソンをホテルの窓ガラスの中に閉じ込める。それはちょうど、12年前、スカイプを交わすノートパソコンの中にいた彼の姿そのものだ。

 

しかし、この作品はふたりのそうした「断絶」を確認する物語ではない。ここでノラと後にヘソンが口にする韓国語で「イニョン」と発音する概念が重要なモチーフになってくる。

「イニョン」とは「縁」という意味で、人と人の間には何層ものつながりがあり、過去世での出会いが、現在の人間関係に影響を与えるという意味を持っている。

ノラがアーサーに「イニョン」は男性が好きな人を口説くときに使う言葉だと説明する場面があるが、そんなふうに度々使われる言葉だったとしても、そのつながりは決して恋に限定されるものではない。それゆえにノラが化粧室に行ったのか、バーでヘソンとアーサーが二人きりになった時のぎこちない会話で、ヘソンが自分とアーサーも「イニョン」だと語るシーンがたまらなく愛おしい。

 

ノラとヘソンが結ばれなくても、彼らの間には懐かしい思い出がある。彼と結婚するだろうと感じた子ども時代。時差をものともせずスカイプの会話に夢中になった20代の頃。そしてこれからも互いの中でなんらかの形でつながりが永久に続くという概念に触れながら、ふたりは別れる。その時、これまで、一切フラッシュバックを使わず、前へ前へと進んでいた物語の中に初めて過去のあるショットが挿入される。

 

それはその後に続く鮮やかなラストシーンと共に、胸をしめつけられるような、それでいて、爽やかな余韻を残す。愛とは何か、愛がもたらす意味や形の変化を繊細に思索した物語の見事な幕切れである。