2026年6月1日にNHK BSプレミアムシアターで放映されるヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』。
第76回カンヌ国際映画祭で主演の役所広司が最優秀男優賞を受賞し、世界中で大きな話題を呼んだ本作は、東京で公共トイレの清掃員として働く一人の男の「何気ない日常」を淡々と描いた作品だ。
単調なルーティンの繰り返しに見えるその静謐な日々のなかには、二度と同じものはない「木漏れ日」のような瞬間と、生への圧倒的な肯定感が溢れている。
本稿では、ヴェンダース初期作品への回帰という視点や、劇中で効果的に使われる60〜70年代の洋楽ナンバーが暗示する主人公の背景などから、本作に隠された「ルーティンの詩学」とラストシーンの深い意味を考察してみたい。
目次:
映画『PERFECT DAYS』作品基本情報
| 作品名 | PERFECT DAYS(パーフェクト・デイズ) |
|---|---|
| 監督 | ヴィム・ヴェンダース |
| 脚本 | ヴィム・ヴェンダース、高崎卓馬 |
| キャスト | 役所広司、柄本時生、中野有紗、アオイヤマダ、麻生祐未、石川さゆり、田中泯、三浦友和 ほか |
| 製作年/製作国 | 2023年 / 日本 |
| 上映時間 | 124分 |
映画『PERFECT DAYS』あらすじ

東京・押上の古いアパートでひとり暮らす平山(役所広司)は、渋谷区の公共トイレを清掃する仕事に就いている。
毎日同じ時間に起き、植物に水をやり、同じように仕事へ向かい、銭湯で汗を流し、行きつけの店で食事をして、古本を読んで眠りにつく。
カセットテープから流れるお気に入りの古い音楽と、昼休みにフィルムカメラで撮る「木漏れ日」の写真が彼の静かな喜びだった。
同じように見えて決して同じではない日々の繰り返しの中で、少しお調子者の同僚・タカシや、突然家出をしてきた姪のニコとの思いがけない交流が、彼の完璧な日常に小さな波紋を広げるが・・・。
映画『PERFECT DAYS』感想と評価
(ネタバレあり。ラストに言及しています。ご注意ください)
ヴェンダース初期作品への回帰とルーティンの詩学
ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』は、役所広司扮する平山という物静かな60代男性の、極めて単調な日常を淡々と綴った物語だ。
東京スカイツリーがそびえ立つ押上地区の古い木造アパートに暮らす彼は、まだ夜が明けぬうちに起床し、布団を畳み、歯を磨き、髭を整え、仕事のユニフォームを身に着け、大切に育てている小さな植物たちに霧吹きで水をやる。アパート前の自動販売機で缶コーヒーを買い、小さなバンに乗り込むと仕事場へと向かう。目的地は渋谷だ。誰もが快適に使用できる公共トイレをコンセプトとした現代アート的な試み「THE TOKYO TOILET」プロジェクトの美しいトイレ群を維持し、磨き上げることが彼の生業なのだ。
ルーティンを丹念に追う作風は、一見、退屈に感じるかもしれない。しかし、ヴェンダース監督の長編映画監督デビュー作『都市の夏』や『ゴールキーパーの不安』といった初期の傑作を知る者にとって、本作はあの頃の映画的輝きを現代に見事に取り戻した、至高の歓びをもたらす作品である。
初期のヴェンダース作品は、ただ登場人物が歩いていたり、ピンボールに興じていたりするだけの描写の中に、言葉では説明できない瑞々しい魅惑と、時間がただ流れることへのわくわくするような肯定感が溢れていた。本作もまさに、平山の無駄のない動作や佇まいそのものに映画の核心を宿らせることで、初期作品の持つ「映画的純粋さ」へと先祖返りを果たしているといえる。
しかし、平山の孤独で自由な生活は、決して無菌室のように停滞しているわけではない。清掃会社の風変わりな相棒タカシや、彼が入れ込む女性アヤ、突如家出をして平山のアパートを訪れる姪のニコ、そしてスナックのママの元夫である友山など、絶えず他者という「ノイズ」が彼の日常に侵入してくる。これらの出来事は、「変わらない毎日など存在せず、同じことを繰り返していても全く同じ瞬間はない」という世界の道理を示している。
それでもなお、平山は大きなドラマを自ら引き起こすことはしない。姪のニコに海へ行こうとせがまれても、彼は「今度な」と遮り、「今度は今度、今は今」と即興で歌いながらも、姪の気まぐれに付き合って日常を投げ出すような冒険は試みない。次の日の仕事への影響を冷静に計算し、自らのルーティンを頑なに守る平山の姿は、相棒のタカシが突然仕事を辞めて消えてしまう衝動性とは対極にある。この「日常への固執」には、彼が必死に維持している精神的平穏の「切実さ」が隠されている。
自然と微小な光の意匠
平山の日々において、彼の目に映る自然(木漏れ日、朝日、夕日、街の煌めき、そして小さな植物たち)は、本作のテーマである「一回性の生」を視覚化する重要な事物だ。
特に、「木漏れ日(Komorebi)」は、風と木々が織りなす「二度と同じものは再現できない、瞬間ごとの光と影の揺らぎ」であり、平山はそれを記録すべく、昼の休憩時間にフィルムカメラで撮影する。いつも同じ場所で同じ木々を撮影しても毎回同じではない「常に変わり続ける瞬間の集積」を平山は毎日のルーティンの反復の中で享受しているのだ。
また、アパート内で大切に育てる「実生(みしょう)」の植木たちは、彼が人工的な都市の片隅で、静かに呼吸する微小な生命と波長を合わせ、日々を営んでいることを表している。
アナクロなカセットテープと人生と響き合う音楽
平山は仕事用バンのカセットデッキで1960〜70年代の古い洋楽を再生する。本作では、カセットテープが再生されている時以外にBGMは一切流れない。テレビやインターネットなどの過剰な情報社会から距離を置き、五感で直接捉えるものだけで生きる平山にとって、このカセットテープが唯一の彼の主体的な「媒体」といえるだろう。
ここでは印象に残る3曲を紹介しよう。
まず、一番最初に流れるザ・アニマルズ「The House of the Rising Sun(朝日のあたる家)」は、娼婦(または刑務所の囚人)に身を落とした者が自らの過ちを後悔し、宿命から逃れられない悲哀を告白するトラディショナル・ソングだ。
劇中では、平山が休みの日には必ず立ち寄るスナックのママが日本語版(浅川マキのバージョンに連なる「朝日楼」)をアコースティックギターの伴奏に合わせて歌うシーンも出て来る。
次に本作の表題曲ともいえるルー・リード「Perfect Day」は、公園でサングリアを飲むような他愛のない「完璧な一日」を歌いながら、同時にヘロイン依存(薬物への逃避)や自己否定の屈折を内包した歌だ。
歌詞の「君といると、自分を忘れられた。まるで自分が別の誰か、良い人間になれた気がした」という一節や、ラストに繰り返し流れる「自分の蒔いた種は刈り取らねばならない(You're going to reap just what you sow)」という聖書由来のフレーズが印象深い。
ラストシーンで流れるニーナ・シモンの「Feeling Good」は、重厚なソウルの響きとともに「新しい夜明け、新しい一日、新しい人生、最高の気分だ」という圧倒的な生の肯定を宣言している。平山はこの力強い歌声に包まれながら、車を走らせる。
前述の二曲も平山の精神の深淵や過去のカルマが色濃く反映されている選曲だったが、この曲は、彼がどれほど過去の葛藤や未来の老い、孤独といった暗影に引き裂かれそうになろうとも、再び立ち上がり、新しい一日を引き受けるというある種の「覚悟」を祝福する賛歌として使われている。
家族の確執と苦労して手に入れた人生

姪のニコを連れ戻しにやってきた妹ケイコが、運転手付きの高級車に乗って現れるシーンは、平山の実家が極めて裕福で特権的な階級であることを物語っている。
そこで語られる「お父さんはもう入院していて、かつてのような傲慢さを失っている」という事実と、それに対する平山の「頑なに見舞いに行くことを拒む態度」は、子供時代から父親の強圧的な理想を押し付けられて育ち、ついに激しい衝突の末に関係を絶ったという過去の決定的な断絶を観るものに想像させる。
この平山の境遇については、製作者側による「公式のバックストーリー」があるのだが、ここでは、それらを引用することは控えたい。父の話が出た途端、縮こまったような体勢になりひたすら首を振る平山の姿を観れば、父と息子の確執の深さは明らかだろう。彼は父に押し付けられ続けて来た生き方を全否定し、現在の生活を手に入れたのだ。それは決して簡単なことではなかっただろう。
今の彼の暮らしぶりは父やその価値観を体現して育ったであろう妹から見れば理解のできないものだろうが、彼自身は心の平安を見出すことに成功したのである。
ラストシーン:涙と笑顔のロングテイクを読み解く
映画の結末、約3分間にわたって平山の表情を真正面からのクローズアップで捉え続けるロングテイクは、見る者の心に不思議なざわめきを与える。
ヴェンダース監督から「台本には『泣く』と書いてあるが、泣かなくてもいい」と告げられた役所広司は、カセットからNina Simoneの「Feeling Good」が実際に大音量で流される中、希望や歓喜、不安や孤独を想像させる複雑な表情まで、無数の感情を次々と浮かび上がらせて見せた。
平山の泣き笑いは、楽曲の持つ感情の機微に乗せられた部分も多いだろう。私たちも音楽を聴くことで無闇に笑ったり泣いたりしてきたことを思い出す。音楽はそのような力を持っているものだから。
だが、もちろん、そこには彼が心に内包している様々な感情がうごめいているのだ。
彼は、過去のトラウマから完全に解放されたわけでも、将来の孤独や不安から守られているわけでもない。ただ、「今は今、今度は今度」という彼自身の歌(歌い始めたのは姪だが)の通り、この瞬間ごとに形を変えて世界を照らす「木漏れ日」のように、光と影の双方を受け入れながら、今日も一日、誠実に生きることを選ぶのだ。この一瞬ごとの受容と、生に対する峻厳なまでの覚悟こそが、平山のあの複雑に歪む美しい表情に結実しているのである。
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