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Netflix配信韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』(12話)あらすじと評価 /「無価値な自分」と闘い続けるすべての人に贈る群像劇

業績や結果ばかりがもてはやされる現代社会において、「自分には価値がないのではないか」と立ち止まってしまう夜にこそ観たいドラマがある。それが、韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』(全12話/Netflix配信)だ。

 

名作『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』や『私の解放日誌』を手掛け、人間の内面にある孤独や疎外感を描くことに定評のある脚本家パク・ヘヨンと、繊細な心理描写を得意とする監督チャ・ヨンフンがタッグを組んだ本作は、JTBCおよびNetflixを通じて配信され、大きな反響を呼んだ。

出演したどの俳優も素晴らしい演技を見せているが、とりわけ、主人公のファン・ドンマンを演じたク・ギョファンは役柄が憑依したかのような好演を見せている。

 

本作は、社会が定義する「成功」の基準に届かず、もがき苦しむ人々へ向けられた、限りなく温かい眼差しの物語だ。

本記事では、この名作を形作る「3つの要点」を中心に、その魅力と奥深さを読み解いていきたい。

(「感想と評価」の項目ではネタバレしています。ご注意ください)

 

目次

 

韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』(全12話)作品基本情報

項目 詳細
作品名 誰だって無価値な自分と闘っている(모두가 자신의 무가치함과 싸우고 있다 英題:We Are All Trying Here)
話数 全12話
放送・配信 JTBC / Netflix独占配信
演出 チャ・ヨンフン(『気象庁の人々』『サムダルリへようこそ』)
脚本 パク・ヘヨン(『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』『私の解放日誌』)
主要キャスト ク・ギョファン(ファン・ドンマン役)
コ・ユンジョン(ウナ役)
オ・ジョンセ(パク_ギョンセ役)
カン・マルグム(コ・ヘジン役)
チェ・ウォニョン(チェ・ドンヒョン役)
ペ・ジョンオク(オ・ジョンヒ役)
パク・ヘジュン(ジンマン役)

ク・ギョファン出演ドラマ『脱走』レビューはこちら

www.chorioka.com

 

韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』(全12話)あらすじ

韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』Netflixにて配信中

大学時代の映画サークル仲間で結成された「8人会」。卒業から20年が経ち、それぞれが映画業界でキャリアを築くなか、ファン・ドンマン(ク・ギョファン)だけは未だに監督デビューを果たせず「何物でもない人」のままだった。

「8人会」の定期的な会食が行われるたび、焦燥感から他者を批判し、マウントを取り、孤立していくドンマン。

 

一方、新進プロデューサーのウナ(コ・ヨンジョン)もまた、幼少期の重いトラウマを心の奥底に隠し、自分をすり減らしながら生きていた。

同じ痛みを抱える二人が出会い、過酷な映画業界の片隅で不器用に支え合っていく。

 

社会の定義する「成功」に届かないと感じるすべての人々へ贈る、大人のための優しく切ない人間ドラマ。

 

韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』(全12話)感想と評価

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(ネタバレしています。御覧になっていない方はご注意ください)

1.「成功者」の中のたったひとりの「何者でもない人」

物語の入り口となるのは、主人公・ファン・ドンマンの痛々しくもリアルな現実だ。彼は、大学時代の映画サークルの先輩・後輩で結成された「8人会」の中で、20年経ってもただ一人、監督デビューを果たせていない。

 定期的な会食に顔を出しては、場違いなほど食べまくり、かつての親友が手がけた新作映画を辛辣に批判するドンマン。そんな彼に仲間たちは辟易し、グループから排除しようとする空気すら流れる。

 

しかし、ドンマンが猛烈な勢いで語り続けるのには切実な理由がある。彼は、黙っていれば自分がこの世に存在していられなくなるのではないかという強迫観念に駆られているのだ。

監督として映画制作の現場を一度も経験していない人間が、監督経験者の真ん中に座って知ったかぶりをして語り続けることの滑稽さを、ドンマン自身が誰よりもよく自覚している。それでもなお、彼は自分が「無価値ではない」と必死に証明するために、映画の知識や言葉を武器にしてマウントを取ろうとする。他者に疎まれると分かっていても早口でしゃべり続けるその饒舌さは、社会的な死(=無価値)に対する必死の抵抗であり、悲壮な生存戦略なのだ。

 

序盤の展開は、華々しい「成功者」と、未だ「何者でもない人」で居続ける主人公との残酷な対立構造を予感させる。

しかし、本作の真骨頂はここからだ。物語が進むにつれ、ドンマンを疎ましく思っていたはずの「成功者」たちもまた、それぞれに複雑な感情や劣等感を抱えていることが明らかになる。中には「もしドンマンが監督デビューを果たしたら、この8人会の中で自分が最下層に転落してしまうのではないか」と密かに怯え、ドンマンの現状に安心を見出している者さえいるのだ。

 

その最たる例が、すでに5本の長編映画を世に送り出している映画監督のパク・ギョンセ(オ・ジョンセ)だ。ギョンセは最新作『腕のない次女』が興行的に大失敗に終わったことで、自身のキャリアに対する激しい不安に直面している。彼は、20年来の友人であるドンマンの言葉一つ一つに過剰に反応し、激しい嫌悪感と怒りをぶつけ、グループのチャットでもドンマンの人格を否定するような暴言を思わず綴ってしまう。

なぜ成功者であるはずのギョンセが、何者でもないドンマンに対してそこまで激しく感情を露わにするのか。直接の原因は、彼のデビュー作が、学生時代にドンマンが酔っぱらって話した物語のプロットを拝借したものであるという後ろめたさにあるのだが(ドンマンは自分がそんな話をしたことすら忘れているのだけれど)、彼にとって問題なのは、処女作の評判をそれ以降の作品が超えられないことだ。8人会の中で、一番、ドンマンに力があるのを知っているのがギョンセなのだ。

 

本作が群像劇として優れている理由は、嫉妬、見栄、劣等感といった人間の最も見苦しい感情を否定したり美化したりせず、正直に向き合っている点にある。登場人物たちの生々しくも人間くさい感情の交錯こそが、このドラマの最大の推進力なのだ。

 

2.「赦し」に逃げない。傷だらけのふたりが見つけた生存戦略

もう一つの重要な軸となるのが、幼少期に母親に捨てられたトラウマを抱える新進プロデューサー、ウナ(コ・ユンジョン)の存在だ。

 

ウナは持ち込まれた脚本を切れ味鋭く批評するため、上司のチェ・ドンヒョン(チェ・ウォニョン)から「斧」と呼ばれている。一見すると冷静で有能、そして完璧なプロデューサーに見えるウナだが、その内面には、9歳の時に母親に捨てられ、父が戻るまでの28日間、誰にも言えず一人で生きなければいけなかったという凄惨なトラウマが深く刻み込まれている。

ウナは、交際相手と別れたり、職場での人間関係が悪化したりするたびに、9歳当時の「見捨てられた恐怖」へと引き戻される。彼女は、怒りや悲しみ、あるいは誰かに「×」をつけられるのではないかという感情が許容量を超えると、突如として鼻血が出る。この「鼻血」というモチーフは、言葉にして叫ぶことのできない精神的苦痛が、身体的なSOSとして表出する極めて象徴的なギミックである。ウナは自らの弱さを隠すために、感情を押し殺し、息を潜めるようにして「強い女性」を演じながら現実世界をサバイブしてきたのだ。

 

ウナとドンマンはしばしば同じ踏切の前で顔を合わせる。家がある方向が同じなのだ。ふたりはやがて言葉を交わすようになり、理解を深めていく。不器用ながらも互いの欠落を埋め合うように支え合っていくふたりの姿は、視聴者の心を優しく解きほぐしてくれる。

ふたりが身につけている「感情ウオッチ」が様々な色に反応し、ふたりがそれらを共有するユニークで細やかな演出も、過酷な現実の中でお互いが「互いの鎮痛剤」となっていることを美しく示唆している 。

 

また、本作が優れているのは、多くのドラマがカタルシスとして用意しがちな「劇的な赦し」を描かない点だ。

現実の世界では、自分を傷つけた他者が都合よく反省し、謝罪に訪れることなど稀である。本作は元凶との和解というドラマチックさに頼らず、傷ついた者たちが、苦しみ、失敗し、必死に目の前の現実を生き抜く中で、自らの足で立ち上がっていく姿を誠実に描写している。

 

ドンマンは自らの足で泥まみれになりながら、狂ったように笑い飛ばして前へ進むことを選び、ウナは、自らの現在を足踏みさせる「完璧なアリバイ(言い訳)」として、過去のトラウマを引っ張り出すことをやめる決意をする。新作映画の会議の席で、母親で、今や国民的俳優となっているオ・ジョンヒ(ペ・ジョンオク)から叱責された際、かつてなら見捨てられる恐怖と攻撃されたという錯覚から鼻血を出していた彼女は、その恐怖の感情を客観的に見つめ直し、「あなたの言葉では私を死なせることはできない」と自己認識を改める。

この地に足のついた回復のプロセスこそが、本作が放つ最も力強いメッセージなのだ。

 

これは時間をかけないと描けない題材であり、2時間前後の映画でなく12話のドラマであるからこそ、可能となったものだろう。そして、12話の中で全てを終わらせるのではなく、「そして人生は続く」という、長い人生の一部分として綴っているのもリアルな感情を観る者にもたらしてくれる。

 

この過程を経て、ドンマンは、自身がどんなにひどい境遇にあっても「コメディ」として生きる境地へと至り、対等の立場に立とうともがき続けることで8人会の仲間たちとの関係も次第に変化していく。最悪の対立劇に見えた物語が、最終的に若き頃に同じ夢を持った人々の変わらぬ友情の物語として結実することに感動せずにはいられないのである。

 

3.創作の過酷さと歓びを体現する「コパクフィルム」の悲喜劇

物語の舞台が「映画業界」であることも、本作を語る上で欠かせない要素だ。映画という「評価」がすべてを左右する厳しい世界は、業績や証明を重んじる社会の縮図そのものである。

 

ドンマンの苦悩はもちろんのこと、映画監督のパク・ギョンセ(オ・ジョンセ)と、映画会社「コパクフィルム」の代表であるコ・ヘジン(カン・マルグム)という夫婦が織りなす葛藤も見逃せない。

 

一本の映画を創り上げるための血を吐くような産みの苦しみ、妥協と理想の狭間での衝突、そして興行収入というシビアな現実。オ・ジョンセとカン・マルグムの実力派俳優ふたりが演じるこの夫婦の姿は、映画やドラマ制作のリアルな現実と、創作にたずさわることの苦しみと歓びを、時にコミカルに、時に悲哀たっぷりに見せてくれる。

 

コ・ヘジンはギョンセに事あるごとに「脚本はかけた!?」と問う。ギョンセはその厳しい口調にいささかうんざりしている。彼はおだてられるのが好きで、学生時代、コ・ヘジンは彼の才能を常に褒めたたえてくれていたではないか、何故、今、それをしてくれないのかと拗ねている。

 

ふたりは離婚の危機にまで至るのだが、その過程で、コ・ヘジンがギョンセに向かってまったく赤の他人の振りをし、監督の脚本は素晴らしい、監督は最高だと笑顔で褒めたたえるシーンがある。他人であるならこんなことは簡単だ。だが、夫婦でビジネスパートナーである今、社員たちに給料を払うためにも、ギョンセの尻を叩くのは職業人としての当然の務めだ。学生時代とは違うのだ。コ・ヘジンはそのことを夫に逆説的に告げているのだ。

 

興行収入を第一とする業績至上主義社会の最たる縮図として機能しているこの業界で、「コパクフィルム」は、作品の誠実さを大切にするという理想主義を掲げている。同じ業界で働く夫婦の悲喜劇は、ドンマンとはまた違った角度から「無価値である自分と闘っている姿」を体現しており、愛と尊敬、家庭とビジネスが複雑に絡み合った大人の関係性を極めてリアルに浮き彫りにしている。

 

結論:「無価値な自分」と闘い続けるすべての人たちへ

私たちは日々、社会から「あなたにはどんな価値があるのか?」と絶え間なく問い詰められているように感じている。その見えないプレッシャーの中で、誰もがドンマンのように言葉で自己を過剰に誇張し、あるいはウナのように傷つかないための分厚い鎧(斧)を纏って生きている。

 

本作には、ドンマンやウナ、ギョンセ、ヘジンだけでなく、かつて感性豊かな詩人として活動し、高く評価されながらも、内面が崩壊して虚無感を抱えて生きているドンマンの兄、ジンマン(パク・ヘジュン)など、自らの価値を見失った多様なキャラクターが登場する。彼らは皆、社会が要求する「成功の基準」に適合し続けることに疲弊している。

 

最終回において、ついに初監督作品を撮り終え、新人監督賞まで受賞したドンマンの姿が描かれる。ステージの上に立った彼は虚無感の中で寄り添ってくれた兄ジンマンや、ウナに対する感謝だけを短く、簡潔に口にする。饒舌で嫌がられるほどしゃべり続けていた彼の姿はもうない。それは彼が、もがいていた長い月日の中で、彼がただこの世に存在していることを喜んでくれる人がわずかなりにもいると気づいたことを意味している。そのことが彼が成功したこと以上に、視聴者にカタルシスをもたらすのだ。

 

『誰だって無価値な自分と闘っている』は、何者かにならなければいけないという呪縛から私たちを解放してくれるドラマだ。大それた成功なんてなくても、無価値な自分と闘っていることに十分な意味がある。ひどい一日をコメディのように笑い飛ばせれば、それだけで人生には十分な価値がある。登場人物たちの不器用な歩みは、そう静かに語りかけている。