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映画『サンキュー、チャック』ネタバレ感想・考察|逆時系列が解き明かす個人の「死」と「宇宙」の物語

映画『サンキュー、チャック』は、これまでのスティーブン・キング原作映画や、マイク・フラナガン監督のホラー作品とは一線を画す、圧倒的なヒューマニズムに満ちた作品だ。

 

なぜ、一人の会計士の死が「世界の終焉」として描かれるのか?

物語が時間をさかのぼる「逆時系列」を採用した意図は何なのか?

 

本記事では、作中に引用されるウォルト・ホイットマンの詩や、劇中を彩る瑞々しいダンスシーン、そして主人公を形作った「教育」という視点から、本作が提示する「生きることの本質」について詳しく考察する。

 

目次

 

映画『サンキュー、チャック』作品基本情報

(C)2024 DANCE ANYWAY, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
項目 詳細情報
作品名 サンキュー、チャック(原題:The Life of Chuck)
監督・脚本 マイク・フラナガン
原作 スティーブン・キング『チャックの数奇な人生』(短編集『If It Bleeds』収録)
キャスト トム・ヒドルストン、マーク・ハミル、チウェテル・エジョフォー、カレン・ギラン、ジェイコブ・トレンブレイ ほか
公開年 2024年(トロント国際映画祭 観客賞受賞)
上映時間 110分

 

映画『サンキュー、チャック』あらすじ

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物語は、原因不明の天変地異や通信障害により、世界が崩壊へと向かう「第3幕」から始まる。

街の至る所に「チャールズ・クランツ:39年の素晴らしい月日! ありがとう、チャック!」という謎の広告が溢れ、人々を戸惑わせる。

 

時間はそこから、チャールズ・クランツが街角で見事なダンスを披露する「第2幕」、そして彼の幼少期と「死を予知する部屋」の記憶を辿る「第1幕」へとさかのぼる。

 

次第に明らかになるのは、この世界の崩壊は、脳腫瘍で死に瀕しているチャックという男の「内なる宇宙」の終焉であるということ。

 

一人の男の平凡ながらも輝かしい39年間の軌跡が、壮大なスケールで描き出される。

 

映画『サンキュー、チャック』解説と評価

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本作の原作であるスティーブン・キングの短編小説『チャックの数奇な人生』は、人間の「生きることの本質」と「記憶」をテーマにしている。

 

監督を務めたマイク・フラナガンは、2020年4月の新型コロナウイルスによるロックダウン中にこの原作を読み、当時、世界が崩れていくような不安が人々の心を覆っていた中で、物語に強く心を動かされたという。

フラナガンは、誰にでも訪れる「死」を前提にしながら、それでも「生きることを肯定し、喜びを見出す」姿を描くために、これまで培ってきたホラー演出の技術を、深い人間愛(ヒューマニズム)へと転化させている。

 

逆時系列構造がもたらすもの

この映画の最大の特徴は、物語が「第3幕 → 第2幕 → 第1幕」という順序で、時間をさかのぼって語られる点にある。

物語の最初となる第3幕(サンキュー、チャック)では、世界が、未曾有の自然災害、カリフォルニアの海洋への沈没、世界的なインターネットの不具合といった破局的な崩壊に瀕していることが語られる。まさに世界が終わらんとしている中、中学校教師のマーティ・アンダーソンや看護師のフェリシア・ゴードンといった登場人物たちは、突如として街中のビルボード、新聞、テレビ、さらには超自然的なホログラムとして出現した「チャールズ・クランツ:39年の素晴らしい月日! ありがとう、チャック!」という謎の広告キャンペーンを目撃し、困惑する。

 

次に展開する第2幕(バスカーズ・フォーエバー)では、チャック(トム・ヒドルストン)が街角で踊り狂う、生命力にあふれた瞬間が描かれ、最後に登場する第1幕(始まり)では、チャックの幼少期から青年期と、彼が抱える「死」への予感のルーツが明かされる。

 

このようにナラティブが時間を逆行するにつれて、この物語は物理的な世界の崩壊ではなく、脳腫瘍を患って病院のベッドで死に瀕している39歳の平凡な会計士、チャールズ・“チャック”・クランツの人生の終焉を表現した、精緻なメタファーであることが明らかになる。この映画の構造は、「死」という個人的な出来事を「世界の終わり」という神話的なレベルにまで昇華させるための装置なのだ。

「誰の人生であっても、その人が死ぬことは、一つの宇宙が消滅するほどの悲劇であり、同時に一つの宇宙が完成する奇跡である」ということを映画は描き、個人の命の尊厳を最大級のスケールで肯定しているのだ。

 

ホイットマンの詩の引用

アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの詩作『自分自身の歌(Song of Myself)』からの引用、とりわけ「私は矛盾しているだろうか?よろしい、ならば私は矛盾しよう。(私は広大であり、無数の存在を内包している。)」という一節は、本作の重要なテーマとして映画全体を貫いている。

 

この詩句は、第3幕の崩壊しつつある世界で教師マーティが教え子たちに読み聞かせる場面と、第1幕の子供時代のチャックが教室で教師ミス・リチャーズから聴かされる場面に登場する。ミス・リチャーズ(ケイト・シーゲル)が幼いチャックの頭の両側に手を置き、「この手の間にあるものは何かしら」と問いかけ、それが脳や頭という物理的な実態だけでなく、「これまで考えたことのすべて、出会ったすべての人、これから出会うすべての人が入っている宇宙そのもの」と説くシークエンスは、本作のテーマを最もわかりやすく要約している。

 

チャックの内なる世界は、自分の個人的な記憶だけではなく、日常でほんの一瞬すれ違った見知らぬ人たちや、街角のパフォーマーたちの残像によっても、豊かに彩られている。だが、それは決して他者を自分の引き立て役にするという意味ではない。ホイットマンの詩の大きな特徴は、民主主義的で、互いを尊重し合う精神にあると言われている。つまりここで語られているのは、「自分が他者を含むなら、他者もまた自分を含んでいる」という相互の平等な関係性なのだ。チャックが自分の頭の中でさまざまな人たちを登場させているように、チャック自身もまた、他の人たちの心の宇宙の中で、ひとりの「登場人物」として生き続けているということを意味している。

誰かの死は、その人の宇宙が消えるということだ。だが、人が他者と交わした小さなつながりは、網の目のように他の人の心の中に広がり続け、世界の意味を静かに紡いでいくのである。

 

身体的記号としてのダンスと死を予知する場所

第2幕(バスカーズ・フォーエバー)の即興のダンスシークエンスは、映画的に最も華々しいシーンだ。退屈な銀行員のカンファレンスに出席していた大人のチャックが、街頭でドラムを叩くテイラー・フランク(テイラー・ゴードンによる実演)のビートに突き動かされ、突然ステップを踏み始める。そこに、メッセージアプリ経由で恋人に一方的に振られたばかりの傷心の女性ジェニス・ホリデイ(アナライズ・バッソ)が加わり、見事なコール&レスポンスとしてのデュエットへと発展していく。

 

マンディ・ムーアによる精緻な振付のもと、完全に一体となった3人のパフォーマンスは映画的躍動感に溢れていて激しく心躍らされる。チャックがこのダンスの最中に一瞬だけ脳腫瘍の前兆である頭痛に襲われる描写は、この煌びやかな生の瞬間が死の影と隣り合わせであるという不穏な伏線となっているが、だからこそなおさら、輝きに満ちた瞬間となっている。

 

この時、何故踊ったのかと彼は自問するが、それは最終章となる「第1幕」で描かれるチャックの過去の記憶と深く関係している。両親と妹を不慮の事故で同時に失うという過酷な喪失を経験した幼少期のチャック(ベンジャミン・パジャック)に、生きる喜びを与えてくれたのは、祖母バビー(ミア・サラ)から教わったダンスだった。祖母と共に観たジーン・ケリーとリタ・ヘイワースの往年のミュージカル映画『カバー・ガール』(1944年)の記憶は、チャックの潜在意識に深く刻み込まれており、それが大人になった彼を路上でのダンスへと駆り立てたのだ。

 

第3幕の崩壊する世界において、教師マーティが『カバー・ガール』のダンス映像を観て心の平穏を得ようとする描写は、チャックの子供時代の記憶の残響が、彼の死の間際の脳内宇宙の住人へも波及していることを示している。

さらに、このダンスが持つ哲学的な重みは、チャックが少年時代に体験した屋根裏の小部屋の謎と直結する。祖父母は、この部屋にチャックが入ることを禁じていた。禁じられると、余計に観たくなるものだ。チャックは祖母が酔っぱらって眠ってしまった時、手元に置かれていた鍵を手に取って、部屋を覗こうとする。しかし、気配を感じて目覚めた祖父は「見てはいけない」と彼の前に立ちはだかる。その瞬間、部屋に目をやった祖父は一瞬、固まって動かなくなる。それからしばらくして、祖父は亡くなる。そう、そこは死ぬ人を予知する場所で、あの瞬間、祖父はそこに自分自身を見てしまったのだ。

 

チャックは大学生になって家を出る際、この部屋の扉を開け、自分が39歳で脳腫瘍によって死亡するという残酷な未来のビジョンを見てしまう。この未来予知は、通常のホラー映画であれば回避不能な運命への絶望や恐怖を生む展開となるはずだ。しかし、本作においては、逆説的に「生への強烈な執着と解放」へと反転する。

 

自分が39年という短い歳月でこの世界を去ることを確信しているからこそ、チャックは日常のルーティン(会計士としての安定)に埋没することなく、路上でドラムの音が聞こえたときに、立ち止まり、リスクを冒してでも踊るという選択を取ることができた。病状が悪化し、自身の死を悟ったチャックが、「世界はまさにあの(ダンスの)瞬間のために作られたのだ」と回想するように、人生の意味とは持続の長さによって測定されるものではなく、どれほど密度ある歓喜の瞬間を自らの手で作り出したかよって決定される。

死が避けられないことを受け入れることが、今この瞬間を無条件に肯定し、他者と歓喜を共有する勇気を与えたのだ。

 

優れた教育者や愛情深いメンターとの出逢い

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これまで、この作品の構造や意図を解説して来たが、筆者がもっとも感銘を受けたのは、「出逢い」と「教育」の大切さが描かれている点だ。

映画の最後(時系列上の最初)に描かれる「第1幕」での教師や祖父母との出会い、そして彼らから受けた「教育や人生のレッスン」が、チャックという人間の豊かな内面を形作る上で非情に大きな役割を果たしたことが綴られている。その出会い、一言、一言が実に感動的だ。

 

ミス・リチャーズは騒がしい生徒たちを注意できない新任教師で、彼女がホイットマンの『自分自身の歌』を朗読しても誰も全く興味を示していないように見えた。だが、授業が終わったあとチャックが彼女に歩み寄り、詩の意味を問う。彼女の回答はチャックの心に深く刻み込まれる。

この教師の熱心な導きがあったからこそ、チャックは自らの人生で出会う名もなき人々や些細な経験をすべて自分の「内なる宇宙」の大切な住人として蓄積していくことになるのだ。

ここで重要なのは、 教えを受けたチャックだけでなく、教えたミス・リチャーズもまた、チャックに感謝していることだ。誰も聞いていないと思っていた授業をしっかり聞いていた生徒がいたこと、その意味を深く知ろうとしてくれたこと、大切なことを説明できたこと、全て、教師冥利につきることではないか。この「平等的な関係」はまさにホイットマン的といえるものだろう。

 

両親を亡くしたチャックを育てた祖父母も、彼に対してそれぞれ異なる、しかしどちらも欠かすことのできない重要な教育的役割を果たした。

祖母が台所でスプーンを叩いてチャックと踊り、クラシックのミュージカル映画(『カバー・ガール』)の素晴らしさを教えたレッスンは、チャックの人生に「生きる喜び」と「表現する楽しさ」を植え付けた。踊れることが彼の学校生活を豊かなものにし、これが第2幕のあの奇跡的な路上の即興ダンスへと繋がるのだ。

 

一方で、マーク・ハミル扮する祖父アルビーは、チャックに対して「数学はあらゆるものを理解するための鍵である」と説き、堅実な会計士の道へと彼を導くための強力な人生の教訓を与えた。

 

このように、本作は、ホラーやファンタジーの枠を超え、優れた教育者や愛情深いメンターとの出逢いが、一人の人間の魂をどれほど豊かに大きく広げるか、ということを描いた人間ドラマ・成長物語なのだ。映画『サンキュー、チャック』は、ホイットマンの民主主義的かつ相互主体的な精神を引き継いだ希望に満ちた傑作である。

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