PR:本ページはプロモーションを含みます
1951年、戦後間もないニューヨーク。アメリカにおいてはまだ「ピンポン」という遊びに過ぎなかった卓球に、人生のすべてを懸けた一人の青年がいた。
ティモシー・シャラメ演じるマーティ・マウザーは、圧倒的な才能を持ちながらも、遠征費すらままならない貧しいユダヤ人の少年だ。
夢を追う彼にとって、周囲の助言は「妨害」であり、現実は常に「壁」として立ちはだかる。
本作『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』は、ジョシュ・サフディ監督らしい疾走感あふれる演出で、エネルギッシュなアンチヒーローの生存戦略が描かれる。
手段を選ばず頂点を目指す彼が、激しいラリーの果てに辿り着いた「本当の人生」とは!?
本作は、夢と現実がせめぎ合う、あまりに切実で愛おしい物語だ。
映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』作品基本情報
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 作品名 |
マーティ・シュプリーム 世界をつかめ (Marty Supreme) |
| 監督・脚本 | ジョシュ・サフディ |
| 出演 | ティモシー・シャラメ(マーティ・マウザー役) グウィネス・パルトロー(ケイ・ストーン役) オデッサ・アジオン(レイチェル役) タイラー・ザ・クリエイター(ウォーリー役) |
| 音楽 | ダニエル・ロパティン |
| 舞台 | 1950年代 ニューヨーク |
| 上映時間 | 約2時間30分 |
☟ティモシー・シャラメ主演作品『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』のレビューはこちら。
映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』あらすじ

1951年、ニューヨーク。
23歳のユダヤ人青年マーティ・マウザー(ティモシー・シャラメ)は、卓球で世界一になることを夢見ていた 。
しかし、貧しい彼には遠征費を捻出する術がない 。マーティは持ち前の口達者さと度胸で、富豪に売り込みをかけたり、意に添わぬバスケットボールの余興の仕事で世界を回り、なんとか世界選手権が行われる東京への遠征費用を稼ぐが、叔父に取り上げられてしまう。
というのも、前回、イギリスでの全英オープンに参加する際、叔父の金庫から金を盗んでいたからだ。
時には窃盗や詐欺といった手段さえ厭わず、頂点を目指して狂騒の渦へと飛び込んでいくマーティン。うまく行ったと思っても自ら招いた災難で、追いかけられては逃げ回ることに。
富豪ミルトンが企画するイベントで八百長試合をすることを条件にようやく東京に行き、全英オープンの決勝で敗れた日本のエース、エンドウと対決することになるが・・・。
☟ティモシー・シャラメ出演作品『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』のレビューはこちら
映画『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』感想と評価
A24公式予告編はこちら
序文:何者かになりたい。若き野心が導く狂騒曲
映画『マーティ・シュプリーム』は戦後の喧騒がまだまだ残る1951年のニューヨークを舞台に、卓球という当時はまだ「マイナーな娯楽」に過ぎなかったスポーツにすべてを賭け、何者かになろうともがく、23歳の青年マーティ・マウザーの、あまりに不器用でエネルギッシュな生存戦略を描いた作品だ。
ティモシー・シャラメ扮するマーティは、まず靴屋の店員として私たちの前に現れる。叔父の店で働かせてもらっているのだが、長く続けるつもりはない。彼がここで地道に働いているのは、卓球の世界大会である全英オープンに出場する資金を捻出するためだ。
叔父が彼を店長にしてやると刷り上がった名刺を渡す場面があるが、彼にとっては有難迷惑な話である。叔父は純粋に彼に営業の才能があると感じ、大事なポジションで働くよう提案しているのだが、一方で、大層な夢ばかり追っている甥を落ち着かせたいという意図もある。
マーティにとってこれらは夢を諦めさせようとする「妨害」でしかない。仕事を与えてもらっている感謝はどこかに吹っ飛び、自分の夢を否定しようとしているという憤りだけが残る。実際のところ、叔父はなかなか金を払おうとしない。金を払えば、彼がいなくなってしまうのがわかっているからだ。
どの時代も、若者の夢に対する周りの大人たちの反応は似たようなものだ。自分がその機会を掴みさえすればうまくいく可能性があるのに、どうして周りは足を引っ張るようなことばかりするのだろう。
何者かになりたいと一度でも考えたことがある人にとっては、マーティの心情は痛いほど理解できるのではないだろうか。もっとも、このあと、マーティは叔父の金庫から金を盗み出してしまうのだけれど。
「夢」と「お金」の残酷なリアリティ
マーティは実際、実力のある卓球選手だが、マンハッタンのロウアー・イースト・サイドに住む貧しいユダヤ人少年にとっては、競技の才能だけでは足りない。世界中で開かれる大会に出場するための遠征費用を調達するには財力が必要なのだ。
「お金」と「夢」、これらは人生において非常に重要な命題だ。スポーツに限らず、例えば、音楽やバレエなど芸術の世界も同様、才能はあっても財力が足りず、世界に羽ばたく夢を諦めなければならないケースは多い。哀しいかな、人生は平等ではないのだ。
サフディ監督が富豪ミルトン・ロックウェル役に現実のカナダ人億万長者ケビン・オレアリーをキャスティングしているのは実に示唆的だ。ロックウェルはマーティにないもの全て、富と名誉、元大女優の妻まで手に入れており、マーティが彼から受けるのは「屈辱」だけだ。
だが、マーティは決してあきらめない。嘘や懇願、甘い言葉に、詐欺、窃盗、と、犯罪ぎりぎりというよりはもはや犯罪である行為も含め、あらゆる手段を使って金を調達し、世界への挑戦を続けようとする。だが、騙した相手は赦してくれないし、自ら招いた災難で、あちらこちらで逃げ回る羽目になり、挙句に銃撃戦に巻き込まれるというリスクまで負うことに。
マーティは、物語の大半を占めるこの絶え間ない混乱の中を、卓球のラリーを思わせるようなスピードで駆け抜けていく。
アンチヒーローの系譜:サフディ監督が描く「必死すぎる生存戦略」
マーティ・マウザーは、実在の卓球選手マーティ・ライスマンをモデルにしつつも、ジョシュ・サフディ監督が弟のベニーと「サフディ兄弟」として発表した作品『グッド・タイム』や『アンカット・ダイヤモンド』の「エネルギッシュなアンチヒーロー」の系譜に連なるキャラクターといえるだろう。だが、マーティの場合、彼の生きた時代も考慮しなくてはいけない。
アメリカで暮らすユダヤ人にとって、物語の舞台となる1951年は、「白人」への同化に向かい、緩やかに社会に溶け込み始めていた時代だった。だが、大学進学や就職に関するユダヤ人差別は依然として存在し、マーティのような野心ある若者が高みを目指しても、正攻法では立ちいかない時代でもあった。
勿論、だからと言って、罪を犯していいというわけではないが、マーティの必死さにはこうした背景があるということも頭に入れておく必要があるだろう。
日本人チャンピオン・エンドウとの真剣勝負
マーティの最大のライバルとして登場する日本人チャンピオン、コウト・エンドウは、第二次世界大戦中の日本の爆撃で聴力を失った選手で、ろうあ者卓球選手の川口功人が演じている。エンドウは「敗戦国・日本」が戦後初めて国際舞台に送り出したスポーツ界のヒーローであり、国家の威信を背負った存在として描かれている。
サフディ監督は、卓球特有の猛烈なスピードとトップスピンの迫力を躍動するカメラで見事にとらえ、ふたりのゲームシーンをスリリングに構築している。カットを繋げていくだけでなくラリーを引きのカメラで長めに撮っており、アクションシーンのような本物の躍動を感じさせる。ティモシー・シャラメがこの作品の企画が立ち上がってから数年間、卓球を練習し続けて来たことは良く知られている。
1950年代当時のアメリカでは卓球は子供だましの遊びと考える人が少なくなかった。ボーリング場の一角で賭けの対象となる「ピンポン」という余興に過ぎなかったのだ。ふたりのゲームシーンにはそんな嘲笑を吹き飛ばすかのような、サフディ監督の卓球に対するリスペクトと愛が詰まっている。
映画のクライマックスとなる東京でのイベントでの対決シーンは、ミルトン・ロックウェルによって「マーティがエンドウにわざと負ける」八百長試合として企画されたものだ。日本人にご機嫌を取り、自社商品を売りつけるためにマーティを道化として使うというわけだ。
東京へ行く経費が作れなかったマーティは仕方なくこの条件を受け入れ、実際に負けて見せるのだが、「敗者は豚にキスをする」という罰ゲームを課せられるに至って、態度を一変させる。ユダヤ人であるマーティに、ユダヤ教の教律において不浄とされる豚との接触を強制することは、ロックウェルによる意図的な反ユダヤ主義的嫌がらせに他ならない。
マーティは八百長の破棄を宣言し、エンドウに「本気の再試合」を要求する。それは自身の尊厳を守るためであると同時に、エンドウを、当時のアメリカ社会に潜在していた対日感情を超え、一人の対等なライバルとして認めることでもあった。
身から出た錆びで、公式な世界選手権の出場を拒否されたマーティは、この戦いに勝った際、エンドウにハグしながら選手権での彼の優勝を願う。それは手段を選ばない彼が初めて真摯なスポーツマンシップを見せた瞬間でもあった。
翻弄されるのは誰か?レイチェルとケイト、二人の強き女性たち
マーティは本作で二人の女性と深く関係する。ひとりは、オデッサ・アザイオン演じるレイチェル・ミズラーというマーティと同じユダヤ系の人が集まるアパートの住居人である人妻だ。彼女は一見、マーティの自分勝手な振る舞いに翻弄される「被害者」のように見えるが、実際にはマーティの夢と野心を誰よりも深く理解しており、驚くほど、気質はマーティと似ていることが、物語が進むにつれ、明らかになって行く。
レイチェルは既婚者でありながらマーティと関係を持ち、彼の子を身籠るが、彼女はそれを「悲劇」として嘆くのではなく、自分自身が現状の停滞から脱出するための「賭け」として利用する側面を持っている。レイチェルはある犬を元手に飼い主から金を獲ることに執着するが、それもマーティが東京へ行くための資金を工面する手助けをするためだ。その過程で彼女がマーティと同類の口八丁手八丁の気質と行動力を持っていることが判明する。
これを彼女の愛情深さと取るか、1950年代の主婦という堅苦しい役割と不愛想な夫の束縛から脱出するためにマーティを利用しようとしていると取るかは、観る人の判断に委ねられるだろう。だが、マーティとレイチェルが名コンビであることは間違いない。
そして二人目の女性はグウィネス・パルトロウが演じるケイト(ケイ)・ストーンだ。ケイトは1930年代の銀幕のスターであり、現在は富豪ロックウェルの妻として、物質的に満たされながらも精神的に枯渇した生活を送っている 。
ケイトとマーティの関係は、互いにただの火遊びのようにも見えるが、マーティはスターであったケイトに憧れる形で近づき、ケイトもそのことをよく心得ている。二人の関係は時に恋人同士、時にスターとファン、時に母と息子のように目まぐるしく変わるが、彼女が夫から誕生日に毎年もらう豪華なアクセサリーにまつわるスラップスティックな展開には思わず笑ってしまう。この二人もまた、似た者同士なのかもしれない。
パルトロウはこの役のために久しぶりにスクリーンに帰って来たが、ケイトというキャラクターもまた、ブロードウエーでキャリアを復活させようとしている設定であり、そのメタ的な展開が面白い。舞台の初日に、ケイトが客席に背中を見せて台詞を放つと客席から大きな歓声が沸き上がり、思わず微笑んでしまうケイトをパルトロウがチャーミングに演じて居て素晴らしい。
このように、レイチェルもケイトもマーティに翻弄されるだけの存在ではなく、一筋縄ではいかない強さを持った女性として、物語に深い情緒を添えているのである。
『マーティ・シュプリーム』ラスト考察/ようこそ、人生へ。
映画のラスト、日本から帰国したマーティが、新生児室で我が子と対面する場面にはひどく胸を打たれた。そこで流れるTears For Fearsの「Everybody Wants to Rule the World(ルール・ザ・ワールド)」の歌詞が、支配者になろうと躍起になっていた彼の過去を包み込み、「本当の人生」の始まりを告げる。
彼は夢に破れたのかもしれない。しかし、あの涙は現実を受け入れ、一人の大人として地に足をつける覚悟を決めた証のように見えた。このラストは、「家族」や「生活」という新たな闘いへと引き継がれる瞬間を描いた、極めて誠実な結末だと感じる。
そしてその一方であれほどバイタリティのある人物がただでは終わらないだろうとも感じさせる。これまで以上に「夢と現実がせめぎ合う」人生が新たに始まろうとしているのだ。
☟『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』サウンドトラックはこちら
※アフィリエイトプログラム(Amazonアソシエイト含む)を利用し適格販売により収入を得ています