南北軍事境界線(非武装地帯)を警備する北朝鮮の最前線部隊。軍曹イム・ギュナムは、自由を求めて密かに脱北を計画していた。しかし、思わぬ事態が発生し、計画は座礁。その上、命の危険にさらされる。そんな彼の前に現れたのは、ギュナムの幼馴染である保衛部少佐のヒョンサンだった。彼はギュナムを保衛部に栄転させようとするが、ギュナムは自由意志のない人生を拒否し、脱北の計画を実行に移す・・・。
映画『脱走』は2024年7月3日に韓国で公開され、封切りから4週間で観客動員250万人を突破し、2024年の韓国映画興行成績4位を記録する大ヒットとなった作品だ。
命がけの脱北を試みるギュナム役を、人気ドラマシリーズ「シグナル」や映画『狩りの時間』で知られるイ・ジェフンが熱演。映画『モガディシュ 脱出までの14日間』やNetflixドラマシリーズ「D.P. 脱走兵追跡官」のク・ギョファンが彼を追撃する軍少佐ヒョンサンを演じ、ギュナムの部下で、衝動的に脱北を試みる下級兵士ドヒョクをホン・サビンが、ヒョンサンの人生に決定的な影響を与えるソン・ウミン役を、Netflixドラマシリーズ「Sweet Home 俺と世界の絶望」のソン・ガンが演じている。
監督を務めたのは、『サムジンカンパニー1995』(2022)などの作品で知られるイ・ジョンピル。
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韓国映画『脱走』作品情報
2024年製作/94分/韓国映画/原題:탈주(英題:Escape)
監督:イ・ジョンピル 製作:パク・ウンギョン 脚本:クァク・ソンフル、キム・ウグン、キム・ソンアン、ペ・ジュンユン 撮影:キム・ソンアン 編集:イ・ガンヒ 音楽:タル・パラン 挿入歌Zion.T:
出演:イ・ジェフン、ク・ギョファン、ホン・サビン、ソン・ガン、ソ・ヒョヌ、イ・ソンウク、チョン・ジュンウォン
韓国映画『脱走』あらすじ
軍事境界線を警備する北朝鮮の部隊。軍曹のギュナムは除隊を間近に控えていたが、家族もなく将来の見通しも立っていなかった。
ギュナムは自由を求め、密かに脱北を計画していた。夜になると部屋を抜け出し、軍事境界線の地雷のないルートを探索し、タイムを計って計画に見落としはないか念入りに確認する。その経験から精密な地図も出来上がっていた。ところが数日後に雨が降るという予報にギュナムは顔をしかめた。泥が地雷を流してしまい位置が変わるかもしれない。決行日を早めなければならない。
しかし、下級兵士ドンヒョクが自分も一緒に脱走したいと言い出す。彼はギュナムが一人宿舎を抜け出すところを目撃していたのだ。ギュナムは否定するが、翌朝、ギュナムが目覚めると、脱走兵が出たと大変な騒ぎになっていた。ドンヒョクはギュナムが製作した地図を持ち単独で脱出を試みたのだ。脱走兵を探すために全部隊が召集される中、ギュナムは彼を救うため、真っ先に彼の元へ駆けつけた。だが、別の部隊に二人が一緒にいるのを発見され、二人で逃亡しようとしていたのではないかと疑われる。
部隊の最高指導者が二人を脱走兵として処分しようとする中、国家保衛部の少佐・ヒョンサンが事件の調査にやって来た。彼は、脱走兵が二人も出たとするよりは、一人の脱走兵を一人の英雄が発見して拘束したとした方が良いだろうと告げて、ギュナムを自分の車に乗せる。
実はヒョンサンとギュナムは幼馴染だった。ヒョンサンは、ギュナムの現職を解任し、国家保衛部付けとすると命じる。これは軍隊における出世を意味し、除隊しても生活のめども立たないギュナムに対するヒョンサンの友情の証だった。
しかし、ギュナムは自由意志のない人生を送ることを拒否し、ドンヒョクを救出し、一緒に国境を越えて脱走することを決意する・・・。
韓国映画『脱走』感想と評価
冒頭、いきなりイ・ジェフン扮するイム・ギュナムが走っている。右へ右へ、全力疾走で直進するギュナムの姿が水平トラッキングショットで捉えられている。時間を計り終えた彼はすぐにきびすを返し、今度は画面左へと走って部隊に戻って行き、これが脱走の密やかな予行演習であることが分かる。このわずか数分で、彼がどれほど念入りに脱走計画を練って来たかを見る者に植え付け、と、同時に本作が前進、直進の映画であることを鮮やかに予告している。
DMZ(DeMilitarized Zone=非武装地帯)は映画やドラマで南北分断のメタファーとしてこれまで何度も描かれて来た。パク・チャヌク監督の『JSA』(2000)、や大ヒットドラマ『愛の不時着』(2019)などの作品が思い出されるだろう。本作もそんな作品のうちのひとつだが、一人の脱走兵がDMZを越えようとする試みだけに焦点を当てた、いたってシンプルな作りになっている。時間もわずか94分。しかし、そこに宿る感情の多用さには驚かされるだろう。
国家保衛部から派遣されて来た少佐ヒョンサンは、脱走を試みたドンヒョクと共に捕らえられ処罰されようとしているギュナムを、脱走兵を掴めた英雄に仕立てれば上の怒りも収まると部隊を説得し、救い出す。なぜなら、ギュナムとヒョンサンは同郷の幼馴染だったからだ。
ヒョンサンはさらにギュナムを国家保衛部の兵士に任命する。これは兵士にとって何段階もの出世であり、身寄りがなく、除隊後も良い職業に着けなさそうなギュナムに対する温情だった。
だが、ギュナムにとって、さらに軍隊に留まることは自由意志のない人生を送ることを意味した。長い間緻密に練って来た脱走計画は大きく狂ってしまったが、ギュナムは諦めない。「私は自分の未来を自分で決める」と、囚われているドンヒョクを救出し、共に国境を越えて脱走することを決意するのだ。優しい顔立ちのイ・ジェフンがまるで仁王のような面貌を見せ、スクリーンの中央に立つ姿は、その決意の大きさを浮かび上がらせる。
イ・ジョンピル監督は2022年の作品『サムジンカンパニー1995』でも、危険を冒して大企業の不正を内部告発する商業高校卒業の女性従業員たちを描き、挫折に屈さない姿を賛美したが、本作でも強い意志を持ち、自らの人生を切り開こうとする主人公を力強く描写している。
一方、友情の証として命を救い、出世までさせてやったヒョンサンにとって、ギュナムが取った行動は裏切り以外のなにものでもない。しかも今度は自身の命が危なくなるのだ。こうしてヒョンサンは冷酷な追跡者となり、ギュナムの行く手を阻もうとする。
ここからギュナム以上に、ヒョンサンについての描写が増えて来る。彼はかつてピアニストとして国際コンクールに出場したことがある優秀な音楽家だったこと(ギュナムが彼をピアノ兄貴と呼んでいたことも判明する)、今は上官の娘と結婚し、もうすぐ子供も生まれるが、ソン・ガン扮する元カレにまだ未練があること、そうしたことを全て忘れて何事も期待しないよう努めようとして来た人物であることが次第に明らかになっていく。
ク・ギョファンは真剣さとおふざけを巧みに混ぜ合わせながら、嫉妬と憧れ、自己保身と兵士としての矜持など、多様で複雑な感情を見せる。軽い身のこなしでひようひょうとしながら、冷酷に銃を構える姿はまさにク・ギョファンならではの魅力に溢れている。
こうしてかつての幼馴染は、追われる者、追う者として、生き延びるために互いに全身全霊をかけるのだ。手に汗握るアクションと共に、地雷や底なし沼など様々な脅威がギュナムを襲う。物語はスピィーディーにスリリングに展開して行くが、アクション映画の枠を超えた、二人の人間の魂のせめぎ合いへと変貌していく。
本作には心をとらえる名言がいくつか登場する。そのひとつに「自分は(南に)失敗しに行くのだ」というギュナムの台詞がある。「南が楽園のような場所だと思っているのか!?」と問うヒョンサンに対して、「北では一度失敗するとすべてが終わってしまう。自分は、失敗してもまたやり直せる場所に行きたいのだ」とギョナムは応える。
これは、彼が部隊に所属していた頃、キャッチできた韓国のラジオ放送で読み上げられたリスナーの投稿文に端を発したものだ。それはまさに深夜のラジオにしばしば流れる平凡な投稿であり、へたをすると、聞き流してしまうかもしれないような類のものだ。だが、ギュナムは「失敗してもやり直せる社会」という言葉に心動かされた。そしてこの映画を観た私たちもまた、失敗してもやり直せる社会が当たり前のものではないということに気づかされるのだ。いつでも簡単に私たちは「自由」を失ってしまう可能性があることを、映画は示唆しているのだ。
Zion.Tの2014年のヒットシングル「楊花大橋」のメロディーがラジオから流れ、エンディングで再び流れる。「幸せになろう」と繰り返されるその歌詞が、深く心に染みて来る。