デイリー・シネマ

映画&海外ドラマのニュースと良質なレビューをお届けします

映画『バッドランズ』(1973)あらすじと解説/若き殺人者たちの逃避行を独自の感性で描いたテレンス・マリック監督のデビュー作

映画『バッドランズ』は1958年のアメリカ・サウスダコタ州を舞台に、若い男女が繰り広げる逃避行を描いたテレンス・マリック監督の1973年のデビュー作だ。

 

1950年代末、ネブラスカ州とワイオミング州で若い男女が2日間で11人を殺害した実際の事件をベースにしているが、マリックは実話を題材にした際に起こりがちなセンセーショナリズムを避け、極めて独自の世界を生み出している。

また、その後のマリック作品を特徴づける壮麗な映像美や自然描写がすでにこの作品に現れているのも印象的だ。

 

youtu.be

 

ジェームズ・ディーンに似ている青年キット役を、後に『地獄の黙示録』(79)に主演するマーティン・シーンが演じ、恋人のホリーにこの3年後、『キャリー』でスターダムに駆け上がるシシー・スペイセクが扮している。当時、シーンは34歳で、スペイセクは24歳だったが、二人とも年齢より若く見え、それぞれ25歳と15歳の役柄を演じ切った。

 

70年代当時、日本では劇場公開が見送られ、『地獄の逃避行』というタイトルで、長らくDVDなどでしか見られなかったが、アメリカ公開から半世紀以上を経た2025年にようやく『バッドランズ』というタイトルで日本のスクリーンに登場することとなった。

 

エリック・サティやナット・キング・コールなどの音楽の使い方にも注目してほしい秀逸な一編だ。

 

目次

 

映画『バッドランズ』作品情報

(C)2025 WBEI

1973年製作/94分/PG12/アメリカ映画/原題:Badlands

監督・脚本・製作:テレンス・マリック 製作総指揮:エドワード・R・プレスマン 撮影:ブライアン・プロビン、ステバン・ラーナー、タク・フジモト 美術:ジャック・フィスク 編集:ロバード・エストリン ヘアメイク・衣装:ドナ・ボールドウィン 音楽:ジョージ・アリソン・ティプトン

出演:マーティン・シーン、シシー・スペイセク、ウォーレン・オーツ、ラモン・ビエリ、アラン・ヴィント、ゲイリー・ボールドウィン、ジョン・カーター、ブライアン・モンゴメリー、ゲイル・スレルゲルド、チャールズ・フィツパトリック、ハワード・ラクスデール、ジョン・ウォマック・ジュニア、ドナ・ボールドウィン、ベン・ブラヴォー  

 

映画『バッドランズ』あらすじ

(C)2025 WBEI

1958年のサウスダコタ州。25歳の青年キットは仕事を転々としており、紹介された廃品回収業の仕事もすぐにやめてしまう始末だ。ある日、町をぶらついていた彼は15歳の少女ホリーが自宅の庭でバトントワリングをしているのを見かけ、一目で彼女に恋をする。

 

ホリーは母を亡くし、父とともにこの地に越してきたばかりだった。父は看板画家をしており、威圧的で、ホリーをあらゆることで束縛していた。

 

キットはジェームズ・ディーンを思わせる風貌を持ち、ホリーはすぐに彼に惹かれ、二人はしばしば会うようになる。だが、ホリーがキットと付き合っていることを知った父親は怒って、罰としてホリーが飼っていた犬を射殺してしまった。さらに父はホリーにクラリネットを習わせて、他のことをする暇がないように仕向け、キットを遠ざけようとする。

 

キットはホリーの家を訪ね、ホリーの父親と対峙するが、父親の方はただ怒鳴るばかりだ。キットは父親を銃で撃ち殺してしまう。

 

キットとホリーはほんの少しの荷物を持ち、家に火をつけ、追っ手から逃れるために車に飛び乗った。

 

廃品回収業で一緒だった男の家を訪ねたキットは彼の腹を撃ち、そこに偶然忘れ者を取りに来た若いカップルを閉じ込めて、隙間から発砲した。彼らは死んだだろうかと呟きつつも、彼にとってはそんなことはどうでもいいことだった。

 

彼らは森の中に隠れ、木の上に即席の小屋を作って、しばらくの間、自給自足の自由気ままな生活を送る。だが、彼らには懸賞金がかかっていて、彼らに気づいた賞金稼ぎの男たちが、銃を持って現れた。キットは即座に気づき、彼らを撃ち殺すと、二人は再び旅に出た。

 

やがて、二人はモンタナの広大な草原地帯へとたどり着くが・・・。

 

※当メディアはアフィリエイトプログラム(Amazonアソシエイト含む)を利用し適格販売により収入を得ています。

映画『バッドランズ』感想と評価

(C)2025 WBEI

テレンス・マリック監督の1973年のデビュー作『バッドランズ』は、1957~58年に実際に起こったチャールズ・スタークウェザーと恋人のカリル・アン・フーゲイトによる連続殺人事件に着想を得た作品だ。キットとホリーという若い二人が恋に落ち、殺人を繰り返しながらサウスダコタ州からモンタナ州の荒野を車で移動するロードムービーとして展開する。

 

マリックは、キットとホリーの人生の本質的な破綻と、彼らがそこから逃げ出す姿に光を当てているが、彼らの行動に意味を見出すのは難しい。社会への反抗や大人世代への抗議といった動機が根底にあるのは確かだろうが、映画はそのことを特に強調することはない。また、逃避行そのものにも高揚感や冒険のようなわくわく感が欠けている。例えば、道中、キットとホリーが森に潜伏し、木の上に住処を作って自給自足の生活を試みる場面がある。こうしたシチュエーションは、例えばウェス・アンダーソン監督の手にかかればアーティスティックに彩られ、観る者にちょっとした興奮を与えるかもしれない。しかし、『バッドランズ』ではそうした風情は一切なく、逆に彼らが罪悪感に苛まれるようなことも一切ない。ただ淡々と時間が流れていくだけだ。

 

また、本作はアーサー・ペンの『俺たちに明日はない』(1967)が代表するような犯罪ロードムービーの系譜に連なる作品群とも明らかに一線を画している。キットの殺人は残酷だが、死は非常に淡泊に描かれる。彼は目の前に人がいるから撃つのであって、人命を奪うことに大きな意味があるようには思えない。この無機質な暴力の描き方が、映画に独特の冷たさと距離感をもたらしているといえるだろう。

 

では本作をどう表現すればよいのだろうか。変わり者二人に焦点を当てた奇妙な作品と呼ぶしかないのではないか。だがそこには70年代アメリカ映画特有の粗暴なエネルギーとは異なる静けさと、不思議な崇高さが漂っているのである。それこそが本作の魅力なのだ。

 

マリックは西部の広大な風景をワイドショットで捉え、人間を大自然の中に矮小化する。大自然の営みの中で生きる人間はなんと小さく儚い存在なのだろうか。

荒涼とした「バッドランド」の中に息づく自然のエネルギー、木々の間から差し込む光や、煌めく青空に堂々と浮かぶ雲、花びらを濡らす露のはかなさなどを捉えたショットは、後の作品でも見られるマリックの自然への関心の原点を示している。

 

『バッドランズ』を語るのにナレーションの素晴らしさに触れないわけにはいかないだろう。シシー・スペイセクが演じるホリーの物憂げで感情を抑えた語り口は、文学的で詩的な響きを残す。彼らは孤独で空虚な世界を生きているが、その逃避行は自由を求める旅ではない。目的もなければ、殺人を繰り返すことで何かを得ようという意図もない。ただ衝動的に行動するだけだ。彼らは眠りについた時のようにずっと夢を見ていたのかもしれない。夢が覚めた時、ホリーはこの旅を下りることを選び、キットも逃げ延びようとすればできたのに最終的に自ら旅に終止符を打つ。彼の無感情な態度をホリーが同じように無感情に観察し、記録することこそが二人の「愛」であり、「希望」だったのかもしれない。

 

終盤、キットはジェームズ・ディーンに似ているという理由で、警官たちの間でちょっとしたスター扱いを受ける。逮捕されてもなお、彼は超然としている。彼の空虚な存在感はこのラストシーンで象徴的に締めくくられる。

 

マリックは、暴力と美しさ、衝動と静寂さという相反するものを共存させながら、キットとホリーという若いカップルの姿を描いた。その独特の優雅さと冷徹な視線は、半世紀を経た今尚、色褪せていない。目的のない漂流であるキットとホリーの旅は、現代の私たちにこそ強く響くものではないだろうか。