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映画『ニッケル・ボーイズ』あらすじと解説/Amazon Prime Video配信 悪名高き少年院に送られた黒人少年たちの苦難と友情

映画『ニッケル・ボーイズ』(原題:Nickel Boys)は、ピューリッツァー賞を受賞したコルソン・ホワイトヘッドの同名小説を、ラメル・ロスが監督・脚本を手がけて映画化。

1960年代初頭、誤って犯罪の容疑をかけられ、悪名高き少年院「ニッケル・アカデミー」に送られた若いアフリカ系アメリカ人エルウッド・カーティスと施設で知り合ったターナーの深い友情と試練が描かれる。独特な撮影手法と視覚的表現によって観客は主人公たちの「目」を通して物語を追体験するような感覚に引き込まれる。

 

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エルウッドを演じるのは、Netflixドラマシリーズ「ボクらを見る目」で知られるイーサン・ヘリス。『ザ・ウェイバック』(2020)のブランドン・ウィルソン がターナーを、『ドリームプラン』(2021)のアーンジャニュー・エリス=テイラーがターナーの祖母役を演じている。

 

本作は、第97回アカデミー賞で作品賞と脚色賞にノミネートされ、全米批評家協会賞では作品賞と撮影賞を受賞するなど、高い評価を受けた。

 

日本では劇場公開されず2025年2月27日よりAmazon Prime Videoにて独占配信されている。

 

目次

 

映画『ニッケル・ボーイズ』作品情報

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2024年製作/140分/アメリカ映画/原題:Nickel Boys/配信:Amazon Prime Video

監督:ラメル・ロス 製作:デデ・ガートナー、ジェレミー・クライナー、デビッド・レバイン、ジョスリン・バーンズ 製作総指揮:ブラッド・ピット、ギャビー・シャパード、エミリー・ウルフ、ケネス・ユー、チャドウィック・プリチャード 原作:コルソン・ホワイドヘッド脚本:ラメル・ロス、ジョスリン・バーンズ 撮影:ジョモ・フレイ 美術:ノラ・メンディス 衣装:ブリタニー・ロア 編集:ニコラス・モンスール 音楽:アレックス・ソマーズ、スコット・アラリオ 音楽監修:ゲイブ・ヒルファー キャスティング:ビクトリア・トーマス

出演:イーザン・ヘリス、ブランドン・ウィルソン、ハミッシュ・リンクレイター、フレッド・ヘッキンジャー、ダビード・ディグス、ジミー・フェイルズ、アーンジャニュー・エリス=テイラー、ルーク・テニークレイグ・テイト

 

映画『ニッケル・ボーイズ』あらすじ

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1960年代のフロリダ州タラハシー。

アメリカ南部ではジム・クロウ法という悪しき法律が施行され、人種差別が日常化していた。エルウッド・カーティスは、真面目で成績優秀なアフリカ系アメリカ人の少年で、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの公民権運動に感銘を受け、社会はもっとよくなると将来に希望を抱いていた。

 

彼の優秀さを認めた教師は、無料で学べるという「技術専門学校」への進学を薦め、入学を認められた彼は、朝早く家を出て学校へ向かった。

 

ところがヒッチハイクで乗った車が盗難車だったことから共犯者とみなされ逮捕されてしまう。エルウッドをかわいがり、これまで懸命に育てて来た祖母は偶然悪い人の車に乗っただけで冤罪だと嘆き悲しむが、貧しい黒人が訴えても誰も耳を貸すものはなかった。

 

未成年である彼は、更生施設「ニッケル・アカデミー」に送られることになった。この施設は、表向きは少年たちを更生させる場所とされていたが、実際には暴力や虐待が横行し、運営者たちは腐敗しきっていた。

 

ニッケル・アカデミーで、エルウッドはターナー(ブランドン・ウィルソン)という少年と出会う。ターナーは身寄りがなく、現実的でシニカルな性格の持ち主だった。二人は過酷な環境の中で友情を深め、生き抜く術を模索する。エルウッドは公民権運動の理想を信じ続け、正義と平等を追求しようとするが、ターナーは不正は常にあり、外の世界でも通用しないのに、ここで通用するわけがないとエルウッドの理想を現実的でないと否定する。彼は施設内の現実を受け入れ、適応し、目立たないようにすることで生き延びようとしていた。しかし、エルウッドは「味方がいないからそう言うんだ」と応える。

 

ちょっとしたトラブルに巻き込まれただけでも、教師は激しい暴力を振るった。エルウッド、もその犠牲となり、医務室で治療を受けなければならかった。ちょうどその時、ひとり遠くからエルウッドの祖母が面会にやって来たが、体調が悪いから寝ていると嘘の理由で門前払いされ、彼女はエルウッドに会うことができなかった。

 

エルウッドたちに何かとちょっかいを出す大柄な少年は、トラブルのもとだったが、クリスマスの日、施設内で行われる白人棟に所属する少年とのボクシングの試合に出場することになっていた。だが、彼は教師から負けるよう八百長を命じられていた。試合中、教師たちはあからさまに賭けを始め、リングの外では紙幣が飛び交ったが、白人の少年に彼が勝ってしまったため、教師たちは顔色を失っていた。彼がどのような懲罰を受けたのか、誰もそのことを話したがらなかった。

 

ターナーはここから抜け出すには、いつくるかわからない退所の日を待つか、運がよければ司法が介入、あるいは死か、逃亡の四つだけだと語る。

 

ある日、エルウッドとターナーが施設の外での労働に従事していた時、エルウッドは思わず走り出し、あやうく車にひかれそうになる。キング牧師の等身大のパネルを本物だと思ったのだ。

 

ターナーは彼が落としたノートを手渡し、いつもどうして携帯しているのかと尋ねた。エルウッドはここで起こったことはすべて書き記していると応えた。彼はそのノートを告発に使おうと考えていたのだ。これが5つ目の方法だと言う彼に、ターナーはそれは危険な方法だ、自分も巻き込まれることになると警告する。

 

そんなある日、政府の役人が、施設の調査にやって来た・・・。

 

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映画『ニッケル・ボーイズ』感想とネタバレ解説

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本作は、フロリダ州に実在した少年更生施設ドジアー校での1 世紀以上にわたる虐待や隠蔽事件に着想を得て、『地下鉄道』 (2016)で知られる作家コルソン・ホワイトヘッドによって書かれた同名小説の映画化作品だ。

 

1960年代のアメリカ南部フロリダ州を舞台に、少年更生施設「ニッケル・アカデミー」で過酷な運命に翻弄される二人のアフリカ系アメリカ人少年、エルウッド・カーティスとターナーの友情と試練が描かれる。これまでドキュメンタリーを制作してきたラメル・ロスが監督・脚本を務めた。

 

物語は、公民権運動に感銘を受けた真面目な少年エルウッドが冤罪で施設に送られ、現実的な性格のターナーと出会い、過酷な環境の中で絆を深めていく過程を軸に展開する。過去と現在を行き来しながら彼らの視点を通じてその場所で起きた出来事とその後の人生が映し出されて行く。

 

原作はフィクションだが歴史的な事実を背景に持つ重厚なテーマを扱い、監督はこれを詩的かつ実験的な映像で昇華させている。本作の最大の特徴はほぼ全編にわたる一人称視点の採用だろう。映画の序盤は、幼いエルウッドによるほぼ見上げる視点だけで描かれる。彼をかわいがる祖母がアイロンをあてるシーンではアイロンが左右に動き、それが画面の中央に来た瞬間、その表面にアイロンかけの様子をじっと見ているエルウッドの姿が映るという素晴らしいショットがある。また、電気店のショーウィンドウに並べられている何台ものテレビが一斉にキング牧師の演説を映し出す場面ではショーウィンドウにそれを見ているエルウッドと祖母たちの姿がちらりと映っている。これも実に見事なショットである。

 

施設内での出来事に話が進むと、カメラはターナーとエルウッドの視点を交互に切り替えながら撮影し、アフリカ系アメリカ人である彼らが直面する世界を観客にそのまま提示する。私たちは単なる傍観者ではなくなり、彼らの恐怖や絶望、あるいは希望を直接感じ取ることになるのだ。

 

施設内での暴力シーンでは画面が暗転し、直接的な暴力描写よりも音や断片的な映像で観客に想像させる演出がとられている。想像力を刺激されることによって恐怖や無力感がより強く感じられ、視点が二人の間で切り替わることで彼らの対照的な性格や内面の葛藤が視覚的に表現されている。

撮影監督のジェームズ・ラクストンは小型カメラを役者の頭部に装着することで、自然な視線の高さと動きを再現してみせた。手ブレ補正を控えめにすることで感情の不安定さを映し出し、魚眼レンズや広角レンズで視野の歪みや閉塞感を加えるなど技術的な工夫を多数施し、独特の視覚効果を生み出している。

 

画面にはたびたび、心象的風景と歴史記録フィルムのようなボヤけた色合いやノスタルジックな質感の映像が登場する。記録フィルム風のシーンは公民権運動のデモや当時の社会状況を断片的に挿入し、歴史的コンテクストを与えつつ、アポロ8号打ち上げという彼らが施設に入っていた話よりも未来の出来事も頻繁に挿入されている。

 

この映画のもう一つの特徴は、時代がバラバラに配置されパッチワークのように構成されていることだ。エルウッドが施設に護送されるシーンに1958年の映画『手錠のままの脱獄』のシドニー・ポワチエが護送車の中で歌う場面が挿入されるのは最たる例だろう。時間軸が解体されることで記憶や感情の非線形性が再現され、彼らの内面を断片的に感じさせる。『手錠のままの脱獄』は白人と黒人が手錠で繋がれ逃亡する物語で、エルウッドの護送と重ね合わせることで彼の公民権運動への信念や抵抗の精神を強調させているともとれるだろう。

 

物語は1960年代から2000年代までを描いており、現代と思われる映像では、毎回同じドレッドヘアの男性が出てくるが、彼は常に我々に背中を向けている。これはネタバレしてしまうと、大人になった「エルウッド」と思われた人物が実はターナーであるという叙述トリックが用いられているからだ。

 

そうすると、今度はそのカメラ視点が誰のものなのかという疑問が湧いてくる。——客観的な第三者視点と考えるのが無難かもしれないが、もしかするとそれは亡くなったエルウッドの視点ではないだろうか。

ターナーがエルウッドの遺志を継いで生きる姿を、エルウッド自身の視点から描くことで、友情と犠牲のテーマを強調しようとしたのかもしれない。後ろ姿しか見せないのは、彼が本当の自分を隠していることをエルウッドが知っているという暗示だろうか。観客は、この視点を通じてエルウッドの不在とターナーの孤独を同時に感じ、彼らの絆の深さと共にターナーがエルウッドの名で生きる人生の複雑さを想像することになるのだ。

こうしたパッチワーク的構成は、エルウッドとターナーの希望、抵抗、アイデンティティの変容を象徴する重要なピースとなっている。

 

この作品は人物の心理や彼らが生きた時代を表現するために、こうした様々な手法を用いているが、決して技巧に走ったものにならず、観客に論理的な理解を超えた感覚的共鳴を促し、深い思索に導くことに成功している。そうして最終的に見えてくるのは、人種差別と不条理な暴力に抗う人間の尊厳なのである。

 

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