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映画『聖なるイチジクの種』あらすじと解説/イラン人監督モハマド・ラスロフがある一家の受難を社会の縮図として描く 

国家公務員のイマンは護身用に政府から支給された銃を紛失してしまう。銃は家の中で消えたと確信する彼は、妻やふたりの娘に疑惑の目を向け、家族の絆は激しく揺らぎ始める・・・。

 

映画『聖なるイチジクの種』は、イランの死刑制度を描いた『悪は存在せず』(2022)で知られるイラン人監督モハマド・ラスロフによるサスペンススリラー作品だ。

 

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2022年に実際に起きた若い女性の不審死に対する市民の抗議運動が激化するイランを背景に、家庭内で消えた一丁の銃をめぐり、家族の間に疑心暗鬼が広がっていく様がスリリングに描かれている。

 

監督のラスロフは、2022年イラン政府の弾圧を批判する請願書に署名したことで実刑判決を受けて収監され、7か月後に釈放された。その後、極秘裏に本作の製作を進めるが、2024年には懲役8年、鞭打ち、罰金、財産没収の判決を受け、苦難の末に母国を脱出し、本作を完成させた。命がけで製作された本作は、167分間の上映時間を要するが、まったく長さを感じさせない緊張感に満ちた作品に仕上がっている。

 

第77回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、第97回アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされるなど、世界中で高い評価を得ている。

 

目次

 

映画『聖なるイチジクの種』作品情報

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2024年製作/167分/G/ドイツ・フランス・イラン合作映画/英題:The Seed of the Sacred Fig

監督・脚本:モハマド・ラスロフ 製作:モハマド・ラスロフ、アミーン・サドライ、ジャン=クリストフ・シモン、マニ・ティルナー、ロジータ・ヘンディジェニアン 撮影:プーヤン・アガババイ 編集:アンドリュー・バード 音楽:カルザン・マムード

出演:ミシャク・ザラ、ソヘイラ・ゴレスターニ、マフサ・ロスタミ、セターレ・マレキ、ニウシャ・アフシ、レザ・アクラギ、シバ・オドエイ、アミラ・アラニ

 

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映画『聖なるイチジクの種』あらすじ

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イマンは妻のナジメと大学生の娘レズワン、高校生の妹、サナと共にテヘランで暮らす国家公務員だ。

 

彼は、20年間の勤勉さと愛国心が評価され、長い間望んでいた裁判所調査官に昇進する。

妻のナジメはイマンの努力がようやく実り、今よりも良い生活が出来ることを喜んだ。うまくいけば判事にだってなれるかもしれない。そうなれば生活に困ることはない。

 

レズワンは大学でサダフという学生と仲良くなり、ある日、彼女を家に連れて来た。サダフは進歩的な娘で、ナジメはレズワンがサダフからへんな影響を受けないかと心配する。夫が政府機関の重要な任務についた今、問題を起こさないよう、細心の注意を払う必要があった。

 

それでなくても、最近起こった若い女性の不審死をきっかけに、市民の抗議運動が激化している時期だ。ナジメが娘たちに口うるさく注意する機会は日を追うごとに増していった。

 

レズワンとサナは、隙あればスマホで抗議者に対する政府の横暴な攻撃の動画に目を通し、抗議者たちに共感を持つようになっていた。

 

イマンは毎日帰りが遅く、ある夜など帰っても無言のままシャワーを浴びに行くほど思いつめた様子だった。ナジメは洗濯物と一緒に銃がおかれたままになっているのに気が付き、彼の戸棚にしまった。銃を見るのは気が重かった。夫は立場上、狙われることもあることから護身用に銃を与えられているのだ。

 

イマンは反体制派とされる人々に厳しい処罰を与える書類にサインをさせられることに心を痛めていた。断れば、クビになる可能性がある。現に、前任者は許可しなかったために解任されていた。ナジメも最初はサインをしないようにと夫に話すが、検事の命令と知り、責任は検事にあるのだからと彼を慰める。

 

ある朝、レズワンとサナを学校に送り届けたナジメのもとにサナから電話がかかって来た。学校が休校になったから迎えに来てほしいと言う。市民の抗議運動が学校にも波及しているようだった。

 

サナを車に乗せたあと、レズワンを迎えに行ったが、どうしてもレズワンを見つけることができない。ナジメはレズワンの安否が心配で気が気でない。

 

そのころ、サナはレズワンから電話を受けていた。サナは母親に買い物を頼み、母が出ていくのを待って、姉たちを迎えに行った。サダフが負傷し、レズワンは彼女を自分の家まで連れて来たのだ。病院に行くと逮捕されるという。彼女は顔の左半分に散弾銃を受け、左目は血まみれで腫れあがっていた。サダフはただ、抗議する人々の集団に出くわしただけだったのに警官に襲われたのだ。

 

そこへ母が帰って来た。彼女は黙ってサダフの顔にめり込んだ弾を取り出し、彼女を治療した。しばらく休んだあと、サダフは自分から家を出て行ったが、そのまま行方がわからなくなった。

 

そんな中、朝を迎えたイマンは、戸棚にしまったはずの銃がなくなっていることに気が付き、愕然とする。部屋をくまなく探したがみつからない。

 

もし、銃を失くしたことが知られたら、これまで築いてきた信頼がもろくも崩れ、20年間の努力が水の泡になってしまう。判事になるなど夢のまた夢。そればかりか、禁固刑になる可能性もある。

 

彼はパニックに陥り、妻や娘たちを疑い、銃を取り戻そうとするあまり、家族の信頼の土台を揺るがすような行動に出る・・・。

 

映画『聖なるイチジクの種』感想と解説

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本作は、2022年、ヒジャブ法違反の疑いで逮捕されたイランのクルド人女性マフサ・アミニさん(22歳)が警察に拘束されたまま死亡したことから始まった「女性、生命、自由」運動を背景にしている。

 

モハマド・ラスロフ監督は、まず主人公一家の肖像を丁寧に描いていく。イマンは勤続20年の公務員で政府への忠誠と信仰を頼りに生きて来た人物だ。最近、裁判所で責任ある役職に任命され、夢である判事への扉が開いたばかりだが、反政府デモの参加者を厳しく弾圧するための書類にサインさせられることに苦悩している。

 

彼にはレズワンとサナという大学生と高校生の娘がいる。彼女たち自身は運動に参加していないが、日々、SNSに上がるデモ隊に対する警察の横暴を目撃して、抗議者に激しい共感を寄せている。彼女たちはその動向を追わずにはいられないので常にスマホを手放せない。母親が観るテレビのニュースは彼女たちにとってもはや信じられない意味のないものと化している。ラスロフ監督は、デモの動画に当時の本物の映像を使用している。

 

母親のナジメは、そんな彼女たちに厳しくあたる。娘たちがこの抗議活動に巻き込まれ、負傷するようなことがあってはならないし、彼女たちの行動が父の仕事に悪しき影響を与えることがあってはいけないからだ。

ナジメはレズワンがリベラルな思想を持つ友人を家に泊めることにすらぴりぴりと神経を尖らせている。一見、彼女は典型的な物分かりの悪い保守的な母親に見えるが、実際のところ、至極まっとうな判断のできる人物なのである。夫との会話では常に子供たちの立場を代弁しているが、イマンが彼女の言葉に動かされることはなく、結局、彼女は娘たちに夫の意見を伝えるだけだ。そういう意味では彼女は、女性蔑視的な家父長制の代弁者の役割を果たしているともいえるのだが、典型的な家父長制度に準じた家族の中で、彼女が価値観の違う夫と子供たちの間に立ち、それぞれの感情を調整しているからこそ、この一家はなんとか成り立っているのだ。

ラスロフ監督は、家族ひとりひとりの平穏を祈って人知れず腐心する存在であるナジメに注目する。

 

ナジメは、レズワンが負傷した友人を家に連れ帰った際(病院に運ぶと逮捕されると友人が言うので)、冷静にその手で彼女が受けた傷を治療してみせる。この治療にいたる前には、様々な言葉や叫びが発せられただろうことは想像に難くないが、それらは全てカットされ、慎重で丁寧なナジメの手の動きがクローズアップでとらえられている。

 

ナジメの手といえば、これとは別に、イマンの髭をそる際に同様なショットが現れる。それらの行動は、ナジメの真心の顕れであり、前者には慈悲、後者には愛情が溢れている。ラスロフ監督は「手のしぐさ」という手段で、この人物の誠実さを的確に表現して見せるのだ。

 

こうしてなんとか幸せを保っていた一家だったが、家族の基盤を揺るがすような事件が起こる。イマンが護身用に政府から手渡されていた拳銃を紛失してしまったのだ。イマンにとっては20年間築き上げて来た信頼が一瞬にして崩れ去る事案であり、職や夢を失うばかりか、最悪、禁固刑になる可能性まであった。

 

彼の狼狽ぶりは十分に理解できるが、銃が家の中で失くなったことを確信する彼は、家族に疑惑の目を向ける。パラノイアに陥ったかのように、彼の行動は次第にエスカレートしていく。

 

職場の同僚に意見を求めた彼は、あろうことか、政治犯を尋問することを専門としている同僚に家族をゆだねる選択をしてしまう。さらに彼の個人情報が反対派によってバラまかれたため、イマンは家族を彼が幼少期に育った田舎の人里離れた家に連れていくが、銃泥棒の犯人をつきとめようと彼は家族に極端な手段を用いる。

 

当初、政治犯に対する当局のひどい仕打ちに心を痛めていた彼は同情に値する人物だったが、次第に人間らしさを失い、映画はドメスティック・スリラーとして恐ろしいほどの緊張感に包まれる。一瞬、『シャイニング』を連想してしまうくらいだ。

 

この田舎の屋敷に来る前に起こった出来事も相まって、突然、家じゅうが暗くなりイマンが離れた場所にあるブレイカーを上げに行くというなんということのないシーンまでもがとてつもない緊張感に包まれる。最悪のことが起こるかもしれないという観客の不安な心理を巧みに操りながら、家族が崩壊していく様がスリリングに描かれていく。

 

イマンが暴力を特権とする国家の支配者のような存在と化した展開は、権威主義者が国民を支配するためにどれほど卑劣な手段を取るかを示している。母と娘は抵抗し、懸命に支配から逃れようと試みる。この家族の姿はまさに社会の縮図である。

 

そうした力強い、社会的告発が圧倒的な覚悟で描かれているのだが、本作が私たちを捉えて放さないのは、映画のプリミティブな面白さにもあるだろう。

 

ハリウッド映画のようなカーチェイスがあり、銃は常にいつか発砲される予感に満ち満ちている。そしてスパイ映画のような、あるいは西部劇を彷彿させるようなクライマックスが待ち構えているのだ。

 

「聖なるイチジクの種」というタイトルに関しては様々な解釈が可能だろう。映画のクレジットでは「発芽すると地面に向けて根を伸ばし、宿主の木に枝を巻き付け、締め上げ、最後には独り立ちする」と説明されている。

 

素直に考えると、「暴力的な社会の中で芽生えた自由を望む強い希望が発芽し、権力を倒して自由を手に入れる」という解釈が成り立つだろう。

だが、まったく逆の意味の可能性もあるのではないか。人々の自由や希望を締め上げ、罪のない人々に血を流させる暴力的国家が誕生するという意味にも取れるのである。

「聖なるイチジクの種」とは、自由と希望の世界はいとも簡単に奪われてしまう、ひとたび暴力を盾にした国家が生まれると、自由への道は非常に厳しいものになってしまうという、世界に対する警告であるのかもしれない。