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【考察】映画『TAR/ター』あらすじ・感想(ネタバレ)/トッド・フィールドが描くリディア・ターという天才芸術家の繊細なポートレイト

イン・ザ・ベッドルーム』(2001)、『リトル・チルドレン』(2006)のトッド・フィールド監督が16年ぶりに手がけた長編作品『TAR/ター』は、天才的な才能を持ち、クラシック音楽界の最高峰に上り詰めた女性指揮者を主人公に、崇高なる芸術と人間の欲望が交錯する様子をサスペンスフルに描いた重厚な人間ドラマだ。

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現代社会の価値観の変遷を提示した本作は、観る者の価値観を問い考察を誘う、魅惑的にして最大の問題作だ。

 

これまでにアカデミー賞を2度受賞しているケイト・ブランシェットが主人公リディア・ターを熱演し、2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門にて2度目のポルピ杯(最優秀女優賞)を受賞。第80回ゴールデングローブ賞でも主演女優賞(ドラマ部門)を受賞し、第95回アカデミー賞では作品、監督、脚本、主演女優ほか計6部門でノミネートされた。  

 

目次

映画『TAR/ター』作品情報

(C)2022 FOCUS FEATURES LLC.

2022年製作/158分/G/アメリカ映画/原題:Tar

監督・脚本:トッド・フィールド 撮影:フロリアン・ホーフマイスター 美術:マルコ・ビットナー・ロッサー 衣装:ビナ・ダイヘレル 編集:モニカ・ウィリ 音楽:ヒドゥル・グドナドッティル

出演:ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ソフィー・カウアー、アラン・コーデュナー、ジュリアン・グローバーマーク・ストロング

 

映画『TAR/ター』あらすじ

(C)2022 FOCUS FEATURES LLC.

リディア・ターは、レナード・バーンスタインを師と仰ぎ、ハーバード大学で博士号を取得、クリーブランド、ボストン、ニューヨークという名門オーケストラを経てベルリン・フィルに女性としてはじめて首席指揮者に任命された、超絶エリートのマエストロだ。

エミー賞グラミー賞、オスカー賞、トニー賞を受賞したEGOTクラブの一員であり、現代の音楽家の最高峰に君臨している。

ベルリン・フィルのマエストロとして7年。マーラー交響曲は1曲を除いてすべて録音しており、最後の一曲である交響曲第5番をライブ録音する準備を進めている。また、近々、自伝を大手出版社から刊行する予定だ。

 

私生活はオーケストラのコンサートマスターであるパートナーのシャロンと、娘のペトラと暮らし、互いを支え合っていた。リディアはペトラをとても可愛がり、彼女をいじめているという女性生徒には「今度やったらただじゃおかない」と厳しく言い放つ。

 

ある日、リディアは講師を務めるニューヨークのジュリアード音楽院で、性的にも人種的にもマイノリティの自分には生前20人も無責任に子供を儲けたバッハの音楽は受け入れがたいと主張する男子生徒と口論になる。

 

音楽の基礎と歴史を知る需要性を説くリディアだったが、男子生徒は激しく拒絶し、教室を出て行ってしまう。

 

そんな折、リディアはかつての教え子の指揮者志望の若い女性クリスタが自殺したという報せを受ける。リディアは、副指揮者を目指し今は献身的にアシスタントの仕事をしているフランチェスカに、クリスタとのメールはすべて消去するようにと命じる。巻き込まれては面倒だというのが理由だった。

 

誰もが自分に従う王国に君臨するリディアだったが、やがて、小さな音が気になり始め、深夜に響くメトロノームで起こされる。なぜ、こんな時間にメトロノームが鳴るのか。彼女は次第に眠れなくなっていく。

 

交響曲第5番のリハーサルに追われる中、オケの新人であるロシア人のチェロリスト、オルガにリディアは夢中になる。まだ団員でもない彼女を抜擢しようとするリディアに反感が集まるが、オルガの実力を目の当たりにした人々は認めざるを得ない。

 

しかし、クリスタの両親がリディアを告発したという報せが届く。当初はさほど重要な事態だと思っていなかったリディアだったが、不協和音と共に足元がゆっくりと崩れ始める・・・。  

 

映画『TAR/ター』感想と評価

(C)2022 FOCUS FEATURES LLC.

(ラストに触れている部分がございます。気になる方は映画を観てからお読みください)

飛行機の中で居眠りしている女性の様子を隠し撮りしたスマホの画面上に明らかにその女性を揶揄するメッセージのやり取りがなされているという不穏なショットの後、映画『TAR』は、「ニューヨーカー・フェスティバル」に登壇したケイト・ブランシェット扮する世界的指揮者、リデイア・ターの姿を映し出す。          

多くの聴衆が見守る中、聞き手である『NEW YOKER』誌の実在のコラムニスト、アダム・ゴプニック(本人が出演)は、あたりさわりのない会話を交わす気はなく、リディアからより多くのものを引き出すために高度な質問を繰り出していく。

リディアは思慮深く明快に、堂々と答え、舞台を見守る聴衆はもとより、映画を観る私たちにも彼女の音楽家としての博識と威厳に溢れた大物ぶりを確信させる。

 

一方で、この舞台にはそこはかとない緊張感も漂っている。大勢の聴衆の面前で、多少はインタビューの内容のやり取りが事前にあったとしても、これほど掘り下げた内容の深い談義を交わすことにリスクはないのか。うっかり不適切な表現を使おうものなら、すぐに動画がネットにあがり、糾弾される時代だ。本作はキャンセルカルチャーと関連があるらしいという認識を持って観たせいか、また、オープニングの不穏な映像のせいもあり、この「知」のやり取りもサスペンスに溢れて見える。ただ、そんな心配をよそに、リディアは実に上手くやり遂げて見せ、改めて彼女の偉大さと天才ぶりを強く認識することとなる。

 

しかし、彼女が講師をしているジュリアード音楽院のマスタークラスでの出来事は、のちのち、彼女を困らせる事態となる。ある男子生徒がバッハの私生活は到底許されるものではなく、彼の作品は聴くに値しないと発言した際、リディアは、まだ未熟な学生を教える年長者として、彼の狭量ぶりを指摘し、その考えはいつか自分自身にはねかえってくると強い口調で諭そうとする。しかし、男子生徒は反発して、教室を出て行ってしまうのだ。

 

ここでは「芸術と芸術家の人柄を切り離して考えるべきか」という問いが明快に提示されているわけだが、男子生徒が昨今のSNSの影響を強く受けているのは明らかだ。一方、リディアが生徒に浴びせた言葉は、教育者として偉人から多くを学んでほしいという純粋な気持ちから出たものであることは疑いないが、彼女が「優れた芸術家は必ずしも清廉潔白である必要はない」と考える「昔ながらの」タイプの人物であることも見て取れるだろう。

この一連の講義の様子は長回しでとらえられているが、のちに、SNSに流出する動画はぶつぶつに切り取られ編集されている。まさに対照的な代物で、それゆえに強い悪意を感じさせる。

 

物語は、グスタフ・マーラー交響曲第5番をライブ録音するためのベルリン・フィルのリハーサルを中心に進んで行く。ケイト・ブランシェットは本作のために、指揮とピアノとドイツ語を学び、実際に彼女の指揮のもと、演奏が録音されたという。

リハーサル風景はまるでドキュメンタリー映画を観ているかのように生々しく、ケイト・ブランシェットの凄まじい演技に魅せられ、リディア・ターという人物が実在の指揮者であると思い込み、Wikipediaで調べる人が続出したというのも頷ける。

 

彼女は偉大な芸術家であるだけでなく、最高の権力者だ。権力者に往々に見られるように、彼女は思い上がり、非情に冷酷な一面を持っている。団員たちに対するリスペクトもなく、時にその尊厳も否定する。

また、華々しいキャリアを重ね、女性として初めてベルリン・フィルの首席に立ち、男性優位社会の中で確固たる地位を築いた人物であるリデイアは女性のパートナーを持ち、「レズビアン」と公言しているが、女性の地位向上に関する意識は極めて低い。女性指揮者のためのフェローシップを設立しているが、それも形だけで、今後は男女問わないと言い出し、「寄付が集まらなくなる」と出資者である男性を慌てさせている。なにしろ、彼女は「国際女性デー」にも関心がなく、女性解放運動家のクララ・ツェトキンのことも知らないのだ。  

 

おまけにリディアは若くて美しく才能のある女性に目がなく、すぐに目じりを下げる姿が何度もスクリーンに登場する。ロシア人の若手チェロリスト、オルガ(演じるは実際のチェロリストであるソフィー・カウアー)に入れあげる一方、ノエミ・メルラン扮するフランチェスカなどは利用するだけして使い捨てにしてしまう。

 

また、画面には表れないが、リディアがかつて指導した若い女性クリスタが自殺したということを知らされた際も、彼女は巻き込まれるのは勘弁と、フランチェスカにメールのやり取りを消去するように命じ、弔いの言葉もない。実際、クリスタとの間に何があったのかはグレーなままだが、権力を笠に着た恋愛搾取のようなものがあったのではないかと推察できる。そしてこれらの若い女性との関係は、パートナーであるシャロン(ニーナ・ホス)には内密にされている。

 

こうして書き連ねていくと、なんと傲慢で、いやな人間だろうと呆れるほどだが、それでも、エネルギッシュな彼女は映画的なアンチヒーローとして実に魅力的であることは認めざるを得ない。勿論、そこはケイト・ブランシェットの壮絶な存在感が大きな役割を果たしているだろう。

トッド・フィールド監督は、人間の持つ多面的で複雑な資質を追求し積み重ね、リディア・ターという天才芸術家の繊細なポートレイトを緻密に描き上げて見せるのだ。

 

クリスタの自死が、最終的にリディアをキャンセルカルチャーの渦中へと引きずり込むことになるわけだが、映画はキャンセルカルチャーなどの現代的な“価値観の刷新”について提起しつつも、その是非を問うのではなく、寧ろ、リディアが栄光の頂点からあっという間に転落していく様子に焦点をあてている。

トッド・フィールド監督は、怖いものしらずに見えるリディアが精神安定剤をかかせないでいることを最初に提示しており、彼女が持つ不安の感情を、不可解な現象や、奇妙に響いてくる音で現わしていく。

ピンポーンと繰り返すベルの音はそれほど大きな音ではないが、ピアノを弾いているリディアの手をとめるには十分で、夜中、眠りを妨げる冷蔵庫の音と同様、何気ない音にもかかわらず、大きな不安を与える。

さらに、なぜか夜中に動き出すメトロノームなど怪奇現象にも似た光景も登場し、物語は、俄然、ホラー染みてくる。

劇中、何度も現れるトンネルを進む車の映像は、そのトンネルの天井の低さが強調され妙な圧迫感を覚えるし、偶然入り込んでしまった廃墟の中での経験は現実か、不安が呼び寄せた妄想か、もはや判断できない。

冒頭のスマホ画面が象徴するように、彼女を恨む人々の存在が仄めかされ、送られてきた貴重なサイン入り初版本はリディアに激しい動揺を与える。

 

転がるように人生を滑り落ちていく一人の女性の姿は、まさに落ちた偶像。イカロスの墜落である。それはある意味、心の底で常に人々が見てみたいと望んでいる光景といえるだろう。誰かが失敗して地位を追われる姿を見てみたいという欲求は決して今の時代特有のものではないが、SNS時代である今はとりわけ顕著に見て取れるものになっている。

 

しかし、映画はそんな断罪では終わらない。これは寧ろ救いの物語でもあるのだ。居場所を失くし、追われるように実家に戻ったリディアは若き頃に録画しておいたビデオテープを手に取る。それはバーンスタインのライブ中継を収録したものだ。その中でバーンスタインが語る言葉にリディアは身を乗り出して聞き入る。曰く、「音楽はすごい。100万の言葉よりも音で感情を語ることができる」。苦闘の末に手に入れた栄光と権力に溺れ、奢り高ぶり、すっかり忘れ去っていた原点に彼女は気づかされるのだ。

 

ラスト、アジアに渡った彼女が指揮棒をかまえている場所が、ゆっくりとあらわにされていく。それを堕ちに堕ちたものだ、哀れな姿だととらえる人もいるだろう。しかし、果たしてそうなのか。判断は観る者に委ねられ、観る者自身が試されるのだ。

(文責:西川ちょり)

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