超絶リッチなくせものばかりを乗せた豪華客船が難破して無人島に漂着。
セレブたちが何も出来ない中、頂点に君臨したのは火を起こし、漁もできる船のトイレ清掃係だった…!
2014年の『フレンチアルプスで起きたこと』でカンヌ国際映画祭ある視点部門審査員賞を、続く2017年の『ザ・スクエア 思いやりの聖域』で、同映画祭最高賞であるパルムドールを受賞したスウェーデンの映画監督、リューベン・オストルンド。
本作『逆転のトライアングル』で再びカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞という快挙を成し遂げた。
主役となる男女モデルカップルのうち、男性モデルを演じるのは『マレフィセント2』のハリス・ディキンソン。女性モデルにモデル出身の俳優チャールビ・ディーンが扮している。チャールビ・ディーンは本作のあと、32歳という若さで急逝した。
目次
映画『逆転のトライアングル』の作品情報
2022年製作/147分/G/スウェーデン/原題:Triangle of Sadness
監督・脚本:リューベン・オストルンド 撮影:フレドリック・ウェンツェル 美術:ヨセフィン・オースバリ 衣装:ソフィー・クルネゴート 編集:リューベン・オストルンド、マイケル・シー・カールソン、ジェイコブ・シュレンジャー、ベンジャミン・ミルグレッド
出演:ハリス・ディキンソン、チャールビ・ディーン、ウッディ・ハレルソン、ビッキ・ベルリン、ヘンリック・ドーシン、ズラッコ・ブリッチ、ジャン=クリストフ・フォリー、イリス・ベルベン、ドリー・デ・レオン、ズニー・メレス、アマンダ・ウォーカー、オリバー・フォード・デイビス、アルビン・カナニアン、キャロライナ・ギリング、ラルフ・シーチア
第75回 カンヌ国際映画祭(2022年)コンペティション部門・パルムドール受賞、 第95回 アカデミー賞(2023年)作品賞、脚本賞、監督賞ノミネート
映画『逆転のトライアングル』あらすじ
高級レストランで贅沢なディナーを堪能したカールとヤヤ。しかし、「ありがとう。ごちそうさま」とヤヤに言われたカールは憮然とする。
カールもヤヤもファッションモデルだが、ヤヤは超売れっ子でカールよりも収入が多い。それに今回は「私が奢るわ」と彼女は言っていたはず。
男が支払うのが当然という考えはおかしいとカールが気持ちを伝えると、ヤヤは気を悪くしたらしく言い争いになってしまった。
自分たちはビジネスカップルだと言い放つヤヤにカールは自分の魅力に気づかせてやると応える。
インフルエンサーとしても注目を集めているヤヤは、豪華客船クルーズの旅に招待され、カールと共に旅に出た。スマホで彼女の写真を撮るのがカールのもっぱらの役目だ。
乗客は超絶リッチなくせものばかり。有機肥料で財をなしたロシアの新興財閥“オリガルヒ”の夫婦と愛人、武器の製造業で一財産を築いたイギリスの老夫婦。アプリ用コードを売る仕事をしている大金持ちの男等々。
そんな彼らをもてなすのは、高額チップのためならどんな望みでもかなえる客室乗務員の白人スタッフだ。
船の下層階では、料理や清掃を担当する有色人種の裏方スタッフたちが働いている。
船長はなぜか船内の一室にこもったきり出てこない。客室乗務員の主任であるポーラは再三、キャプテンズ・ディナーについて相談するため彼の部屋のドアをノックするが、酔っぱらっているのか、まったくドアを開けてくれない。
木曜日は天候が荒れるからそれ以外のどの曜日がいいかと尋ねると、船長は木曜日に行うと言い張って聞かず、決定してしまう。
そのころ、“オリガルヒ”の妻が無理難題を言ってスタッフを困らせていた。
結局、彼女の言う通り、スタッフ全員ウオーター・スライダーを滑って海にダイブさせられる。昼夜交代のため就寝していたスタッフたちまでたたき起こされる始末だ。
いよいよキャプテンズ・ディナーの時間がやって来た。高級料理が次々と運ばれてくる中、船は嵐に巻き込まれる。
船酔いに苦しむ客が続出し、客たちは次々と嘔吐、ついにはトイレが溢れ汚物が船内に流れ出してしまった。
泥酔した船長は、“オリガルヒ”と共に室内に立てこもり、船内マイクをオンにして資本主義と社会主義について論じ始める。
船内が地獄絵図と化している時、外では海賊たちが近づいていた。彼らが投げた手榴弾が爆発し、船は海に沈んでしまう。
数時間後、ヤヤとカールは意識を取り戻す。彼らと他数名の客とスタッフは無人島に打ち上げられていた…。
映画『逆転のトライアングル』感想と解説
本作は三部仕立てになっているが、その前にちょっとしたプロローグとして男性モデルのオーディション風景が映し出される。
上半身裸にされた男性モデルたちが、取材に来たと思しきレポーターにあおられてH&Mとバレンシアガというブランドごとの態度の違いを表明させられたり、眉間のしわにボトックスが必要だと指摘されたり、といった調子でモデル業界が大いに皮肉られている。
ちなみに原題の「Triangle of Sadness」はこの眉間のしわのことを指す。
ついで第一章が始まる。プロローグで男性モデルは女性モデルに比べてギャラが少ないという話がでていたが、ここではモデル同士のカップルによる高級ディナーの支払いについてのいざござが描かれている。
「奢る」と言っておきながら、目の前の伝票に目もくれず彼氏に払ってもらって当然という態度をとる人気モデルのヤヤ。
日頃、ジェンダー平等と口にするくせに支払いになると男性にばかりおしつけるのはどういうことかとムキになるカール。
売り言葉に買い言葉となって喧嘩をエスカレートさせる男女の姿は物語のつかみとして申し分ない。
彼らが利用するような高級店で誰もが食事ができるわけではないが、こと支払いに関しては実に身近な出来事だからだ。その勢いのまま物語は第二部の豪華客船のクルーズに舞台を変える。
ヤヤはインフルエンサーでも知られており、SNSに体験をアップする条件で、クルーズに招待された。カールはカメラマン的役割を担うことで船に同乗する。
他の客たちは皆、成り上がりの大金持ちばかりで、自分たちはどんなことでも要求できると思っている連中だ。
そんな富裕層の客を献身的にお世話する白人スタッフがいて、さらにその下で、料理や清掃を担当する有色人種の裏方が控えている。これはまさに社会の構造そのものの明確な視覚化だ。
ウディ・ハレルソン扮する船長は、この俗物な乗客のために働くのがいやで、アルコール依存症になっている。このあたりはレイフ・ファインズが高級レストランのシェフを演じた『ザ・メニュー』に通ずるものがある (ハンバーガーつながりという点でも)。
しかし、嵐になって船が激しく揺れると、客たちは船酔いで嘔吐し出し、そこに食中毒までからんで、船内は地獄絵図と化す。
この状況ではいくら裕福であってもなす術がない。鼻持ちならない人々の災難に溜飲を下げるところなのだろうが、それにしてはいくら何でも、徹底的で、スペクタクル過ぎる。その徹底さゆえにもう笑ってしまうしかない。
オストルンド監督は、登場人物の偽善を描き、人間の滑稽さを浮かびあがらせることに長けている作家だが、『フレンチアルプスで起きたこと』や『ザ・スクエア』という過去2作が見る者になんともいえぬ不安感をもたらすものだったのに対して、本作は、かなりコミカルな作品に仕上がっている。ジャンル分けをするならコメディーの項目が相応しいだろう。
さて、このまま映画は第三部へと突入する。船が難破し、無人島に流れ着いた人々のサバイバル生活が描かれるのだが、ここで主従関係が逆転する。
無人島にたどりついたのはわずか8名だけ。リッチな客もスタッフもここでは何も出来ない。子供のころボーイスカウトに入っていてサバイバルを学んだという経験がある人はひとりもいない。
ただ、ひとり、トイレの清掃員の女性・アビゲイルだけが、魚をとり、火を起こすことが出来、たちまち権力を握ってしまう。皆は彼女を「キャプテン」と呼ぶことになるのだ。ここには「能力主義」に対する大いなる皮肉が含まれている。
フィリピンの無名の俳優だったドリー・デ・レオンは本作で大ブレイク。役柄を地で行くような展開である。
ただ、階層の、あるいは男女の逆転劇は愉快だが、主従関係が変化しても結局は物質とセックスが権力の象徴となる点では何も変わっていないともいえる。
そんな中で、モデルのふたりが、まるでティーンエイジャーであるかのように、互いのことを気にしてやきもちを焼いたりし始める。とたんに彼らが魅力的に見えてくる。
ハリス・ディキンソン、チャールビ・ディーンののほほんとした人の良さが出た芝居が、本作にピュアな部分をもたらし、単なる悪趣味な風刺劇に終わらせなかったともいえるのではないか。
オストルンド監督の作品では本作はエンターティメントよりの親しみやすいものになっており、癖のある過去作がお気に召さなかった方も十分楽しめるだろう。
ただし、映画を観て富裕層を笑いながら、やがて自分自身に目をむけたとき、富裕層でない上にアビケイルにもなれないことに対して絶望を覚える可能性もあるのでご注意あれ。
オストルンド作品の絶対謝らない人たち
オストルンド監督の長編第四作に当たる『フレンチアルプスで起きたこと』は、フランスのスキーリゾート地にバカンスにやって来たスウェーデン人一家が主人公。
山際のテラスで家族で昼ご飯を食べていたとき突如目の前の斜面で雪崩が発生。咄嗟に父親は家族を置いてひとりで逃げてしまう。
そのことによって生じる家族の不和が描かれていくのだが、素直に謝りさえすれば、妻だって許してくれるだろうに、この夫、絶対謝らない上にあろうことかなかったことにしようとするのだ。
『ザ・スクエア』は有名現代美術館のチーフ・キュレーターが主人公。彼は路上で携帯を盗まれた際、GPSで携帯のありかを確認し、そのスラムの一角に脅迫状を送る。
携帯は無事戻るが、ある少年が周りに誤解された、謝れと何度も抗議してくる。しかし彼は屁理屈をこねて絶対に謝罪しないのだ。なんとも大人げない態度であるが、仕事に関しても彼は万事なめきった態度を取り続ける。
それは『逆転のトライアングル』でも見られる。富裕層の客の女性が、船の帆に汚れがあったと訴える。しかし、その船に帆はなく、ただのいちゃもんであることがわかる。しかし女性はそれを認めず、カタログに載っていた写真には帆があったと主張し、「清掃いたします」という言葉を船長から無理やり引き出している。
また、第一部の男女の喧嘩の場面においても、カールに伝票に気が付いてなかったはずがないと指摘されたヤヤはまったく気づかなかったと白を切る。その主張が言い合いを加速させてしまう。
また、第三部で、アビゲイルが忘れていったカバンの中からスナック菓子をひと箱無断で食べたことを指摘されたカールと船の機関室担当だったネルソンは食べていないと首をふる。
まるで母親か先生に怒られている子どものようで実におかしい場面なのだが、ここでも彼らは謝罪しないせいで、罰を受けることになってしまう。
このように、オストルンド監督作品の登場人物は絶対に過ちを認めない人で溢れているのだ。
今、ふと世間を見渡すと、SNS上においても、政治の世界においても、似たような光景をたびたび目撃する。
謝罪したとしても「誤解を招いた」という言い回しをして、根本的には非を認めていないものも多い。
そのうち国民は忘れてしまうだろうからなかったことにしようととぼけるのは我が国のお家芸でもあるし、世界を見渡せば非を認めないことが戦争に発展する原因になる可能性だってある。
オストルンド監督が描く人間の滑稽さや社会風刺は、まずこの「謝罪しない」、「非を認めない」というコミュニケーションの拒否が大きな要素になっているといえるだろう。
(文責:西川ちょり)