俳優の吉村界人と武田梨奈が自ら企画し、主演を務めた映画『ジャパニーズスタイル/Japanese Style』は年の瀬を突っ走るロードムービーだ。
亡くなった妻の肖像画を完成させたいのにどうしても瞳を書き込めない画家の男が、偶然妻とよく似た女性と出会う。彼女もまた新年までに“終わらせたいこと”を抱えていた。
ふたりは目的を遂行しようとトゥクトゥクに乗り込み出発する。
アベラヒデノブが企画・監督・脚本・編集を務め、撮影は実際に2019年の大みそかから2020年の正月にかけての5日間で行われたという。
三浦貴大、日高七海、佐藤玲、フェルナンデス直行、田中佐季、長村航希、布施勇弥、みやび、山崎潤など個性あふれる俳優が共演しているのにも注目だ。
目次
- 映画『ジャパニーズスタイル/Japanese Style』作品情報
- 映画『ジャパニーズスタイル/Japanese Style』あらすじ
- 映画『ジャパニーズスタイル/Japanese Style』感想と評価
映画『ジャパニーズスタイル/Japanese Style』作品情報
2020年/日本映画/96分/
企画:アベラヒデノブ、吉村界人、武田梨奈 監督:アベラヒデノブ 脚本:アベラヒデノブ、敦賀零 プロデューサー:雨無麻友子 撮影:栗田東治郎 録音:寒川聖美 ヘアメイク:堀奈津子 衣装:小宮山芽以 音楽:茂野雅道 主題歌:貉幼稚園 助監督:渡邉裕也 絵画制作:中村佑 スチール:市川唯人 ポスター撮影:小野寺亮 制作担当:石川恭彰
出演:吉村界人、武田梨奈、三浦貴大、日高七海、佐藤玲、フェルナンデス直行、田中佐季、長村航希、布施勇弥、みやび、山崎潤
映画『ジャパニーズスタイル/Japanese Style』あらすじ
大晦日。絵描きの男は、「死んだ妻の“肖像画”」を完成させようと試みるが、「生きている“瞳”」をどうしても描くことができない。
彼が作品を提出しないので、予定されていた展覧会も中止になってしまった。主催者から矢のような催促が飛んで来て、男は年が明けるまでに絵を完成させることを約束させられる。
そんな時、彼は空港で妻に似た女・リンと運命的な出逢いを果たす。彼女もまた、新年までに“終わらせたい”ことを抱えていた。ふたりはタイの三輪タクシー(トゥクトゥク)に乗り込み、"終わらせる"ための旅に出る!
ところがふとしたことで、ふたりの隠していた心の「袋とじ」が決壊し、意外な事実が判明する・・・。
映画『ジャパニーズスタイル/Japanese Style』感想と評価
時は大晦日。年が明けるまでに過去をひきずった自分にけじめをつけたいと願う男女2人の物語だ。
偶然出会った男女がタイの三輪タクシー(トゥクトゥク)に同乗して横浜の街を疾走する。ひとりで出来ないことも二人だったらできるかもしれないという仄かな(甘えた?)希望を持って。
その年が終わろうとしている最後の一日の小忙しい空気感と男女二人がそれぞれ抱いている「終わらせたい」という気持ちがシンクロして、ハイテンションに物語は進行して行く。
吉村界人扮する画家は絵を完成させたいという自身の気持ちと同時に「締め切り」にもせっつかれて少しの猶予もないはずなのだが、なぜかふたりはスケートリンクに寄り道し、呑気によたよたとリンクを回っている。
さぁ今から「瞳」のスケッチをするぞ、と画家が前のめりになったところで、武田梨奈扮するリンはカップ麺を優先させる。
何かを遂行しなくてはいけないのに、まったくその時にしなくてもいいことに手を出したり、食欲を優先させたり、これは自分か⁉と思わず画面のふたりに共感してしまうのは筆者だけではあるまい。ロードムービーとはすなわち、停滞につぐ停滞で出来ているものなのだ。
見ず知らずの男女が心を通わせていく様子はリチャード・リンクレイターの「ビフォア」シリーズだよなとか、二人が仰向けに並んで寝っ転がっているのは『エターナル・サンシャイン』ではないか、凍った池がなくてもこれが可能なんだなという心地よい驚きにひたっていると、映画は中盤でがらりと様相を変える。
映画のタイトルにもなっている「ジャパニーズスタイル/Japanese Style」とは英語で『袋とじ』という意味だそうで、日本独自の文化らしい。武田梨奈は袋とじをはさみで切るのが上手いという妙な特技を持つキャラクターとして登場している。
雑誌の「袋とじ」はやがて人間がこっそり隠し持つ「心の袋とじ」へと取って代わる。「心の袋とじ」がひょんなことから破れてしまった際の武田の壊れっぷりがいい。無意味に傷つけられる日高七海が実に気の毒である。
心の袋が決壊し、うわべの付き合いでない魂のぶつかり合いがエキサイティングに展開していく中で、我々が、日々無意識に自分の中に取り込んでいる「日本的なもの」が浮上してくるのが本作のユニークなところだ。
自分は本当はこうしたいんだけど、でも世間は別のやり方を望んでいるよねと勝手に自分でブレーキをかけたり、日本の懐かしい原風景を、本来はこうしなければいけないものだと思い込みそれに執着してしまったり、そんな価値観の刷り込みが日常的にあることを映画は思い出させてくれる。
激しく惹かれあいながらも、日本的価値観に振り回される吉村と武田の様子を長回しで撮る究極のラブシーンには瞠目せずにはいられないだろう。それはあまりにも不器用で、滑稽ですらある。
だがどんなラブシーンにも劣らない、心にぐっと来るものがそこには確実に流れているのだ。
こんな葛藤はおそらく日本人だけのものではないはずだ。どこの国の人々も多かれ少なかれ同じことに振り回さているのではないか。人間としてこの世で生きていれば誰しもが自由と社会のしがらみの狭間でもがいているに違いないのだ。 だからこそ、映画のラストに披露される武田の「エッセイ」が心に染みてくる。
武田梨奈が劇中、何度かノートに何か(エッセイとわかるのは終盤だが)を書き付けているシーンが登場するのだけれど、それを観ていてノア・バームバックの『彼女と僕のいた場所』(1995)や『ミストレス・アメリカ』(2015)といった作品に登場するメモする女たちの姿が浮かんできた。
ノア・バームバック作品の女性たちの姿は監督自身の姿を投影したものであると睨んでいるのだが、メモする武田梨奈にもアベラヒデノブ監督の姿が投影されているのではないか。
何気ない日々を送る中で、ふと思いついたことや、目撃した事柄を「これ、映画に使えるかも」とうずくまって絶えずメモする。そんな繰り返しや積み重ねがこんなパワフルな映画を生み出すことになったのだろう。